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君を薫る




「いー香り―」


 店内に入ってすぐ、大きく鼻で息をする黒瀬さんがうっとりと呟く。「いらっしゃいませ」と発した壮年の店長に、僕らはそろって会釈をした。


 ディスプレイは基本的にガラス瓶で、注文に応じて奥の倉庫から持ってきてもらえる形になっている。ガラス瓶はどれも密閉されていて、基本的に香りが漏れることはないんだけど。


 それでも店内はコーヒーの香りで満ちている。少しの苦みと深いコクを感じる、あの。


 何度も来たけれど、やっぱり素敵な店だ。香りももちろん、店内の雰囲気も。レンガ造りの壁にダークオークの床。採光を最低限にするためブラインドがかけられ、灯りはランタンのような柔らかな照明のみ。けれど決して「暗い」という印象はなくて、そんな中で歩くたびにかつかつといい音が鳴るんだ。


 黒瀬さんに手を引かれ、僕は店内を歩く。


「……いつまで?」

「お? 嫌だった?」

「嫌じゃないけど」


 むしろ嬉しいけど。


 手を繋ぐような間柄でもないんだけどなぁ。


「引っ込みつかなくなったみたいな?」

「そうとも言う」


 でもまぁ、黒瀬さんが嫌じゃないのなら問題ない。


 そろそろ五月も半ば。昼間の気温はだいぶ上がってきていて、ここまでの歩きで少しだけ汗ばむ。しっとりとした彼女の手のひらはそれでも不快感はなく、ちょっと硬いながらも滑らかな感覚が心地いいくらいだ。


 こっちを見ようとしない黒瀬さん。そんな彼女が逆に照れ臭くて、僕はごまかすようにコーヒーの陳列に視線を映した。


 床と同系色の陳列棚に並んだガラス瓶。その脇には豆の種類とその解説が書かれたポップが置いてある。


 例えばキリマンジャロ。フルーティな強い酸味と深いコクが特長のアフリカ・タンザニアの豆。他の豆とのブレンド、ブラックでお楽しみください――とのこと。


 立ち止まってそれを読む僕に引っ張られる形で、黒瀬さんもそのポップに目を留めた。ここでようやく。ぱっと手を離し、ガラス瓶を撫でながらポップを読んだ。


 熱を失った手のひらが、少し寂しい。


「なるほど。酸味はちょっと苦手だなー」

「セルジュのは控えめだしね」

「そーそー。ちなみに、ブレンドするなら?」

「ブラジルかなぁ? 酸味が抑えられるかも。グアテマラとかも……どっちかと言うとマイルドにしつつ酸味も楽しむって感じにはなるけど」

「おぉ……ガチだ」


 僕の読んでいた図鑑には、そういうブレンドのおすすめ配合なんかも書かれている。丸暗記、というわけじゃないけれど、毎日の読んでいればある程度は覚えてくるもので。


 あれは? これは? と目を輝かせて質問攻めの黒瀬さんに、僕は一つ一つ丁寧に答えていく。僕はあくまで素人で、全部味わったことがあるわけじゃないけれど。それでも、そんな答えの一つ一つに感嘆で応えてくれる彼女に、ついつい口が回ってしまう。


 かつ、かつと足音と話し声を混ぜて合わせて響かせて、時間は過ぎていく。ゆっくりと穏やかで、香りが僕らを包んで離さない。


「なんか、買いたくなってきちゃうなー」

「いいね。ちなみに、オリジナルブレンド作りなんてのもできるよ」

「え、なにそれめちゃ楽しそう」


 この店では個人から業務用まで、小ロットから中ロットくらいまでの細やかな注文に対応してくれる。僕がセルジュのブレンドを持っているのもそのおかげ。もちろん店長の許可の上で、個別に注文してるってわけだ。


 それとなればがぜん張り切り始めた黒瀬さんは、より一層ポップを注視して懸命に考える。考える、けれど。


「……全然わかんねーけど?」

「うん。最初はそうだろうね」

「店長さんに聞いたらいいのかな?」


 うん、と頷こうとして、ふと頭に浮かんだ考えに言葉を詰まらせる。はてと首を傾げる黒瀬さんに、僕は一拍だけ逡巡して、提案した。


「……黒瀬さんって、誕生日とか」

「誕生日? 六月の十五だね」

「じゃあ、僕が考えても、いいかな?」

「……ほぅ? ブレンドを、ってことだよね?」

「そう。黒瀬さん用の、オリジナルブレンド」


 提案に対し、黒瀬さんは考える素振り。俯いて、かみしめて。


「それいい。めっちゃいい。なにそれめっちゃいーじゃーん」


 ぱっと上げられた顔。湧き上がるような笑顔。濡れたように輝く瞳が、僕をとらえた。


 僕の手を、その両の手で包んで。


 距離感がおかしいとは思ってた。けどそれは心理的な部分での話で、身体的にはそこまで感じたことはなかったのに。


 それを受け入れてしまう僕も僕、なんだろうけど。


 そんな僕の「きょとん」を察したのか、ぱっと離した手をしばらく胸の前で泳がせて。後ろ手を組んだ黒瀬さんは、「あはは」と照れたように笑って一歩下がった。


「楽しみにしてるね」

「うん。黒瀬さんにぴったりの、考えとく」

「……じゃあ、そろそろそれ、やめよっか」

「それ?」

「黒瀬さん」


 はて、と首を傾げて、ああ、と思い至る。


 綾人くん、に対して黒瀬さんじゃあ、ちょっとばかりアンバランスではある。なんて、ただ名前を呼ぶだけのことにあれやこれやと理屈をつけるから、僕はこんな(・・・)になってしまうのだ。


 やめようと言われたら、やめる。それでいいのに。


「じゃあ、沙織さん?」

「それはなんか、ちょっと。なんだろ、余計遠く感じちゃったよね」

「それはよくわかんないけど」


 難しい。


「沙織でいいのに」

「……ごめんなんか、ちょっと照れ臭くて」

「わかるけどさー。あや、ぐるみと来て黒瀬さんはちょっと、除け者感あるよ?」

「それは、まぁ」


 そもそも僕は、人のことを呼び捨てにしたことがほとんどない。あやとぐるみはあだ名だし、その他知人は大抵さん付けか君付けだ。黒瀬さんだから、という以前に、僕には対等の友人同士の関係構築が上手くない。


 だからこの二週間ばかり、色々と戸惑うことも多かった。それはきっと黒瀬さんにも伝わっているはずで、なのに彼女は一歩も引かずむしろぐいぐいと歩み寄ってくれていた。


 吊り橋効果から始まった彼女の「好意」が、本物なんじゃって勘違いしてしまうくらいに。


 時間にしてほんの十秒。黙ってしまった僕をじぃと見る黒瀬さんは、やっぱりあやの言う通り、見すぎるくらいに人の目を見る。琥珀色の、僕の瞳を。


「えっと」

「うん」

「沙織?」

「はぁい」


 ふわり。爽やかに、軽やかに、蕩けるように。笑う「沙織」に、僕はまた黙り込んでしまう。


 名前を呼ぶ照れ臭さを塗りつぶされるくらいに、シックな店内が華やぐような笑顔。コーヒーの香りに交じって、彼女の香りが少しだけ鼻腔をくすぐった。


「じゃあ私も綾人にしよっかな」

「それはもう、どうにでも」

「綾人」

「うん」


 そんな彼女も、やっぱりちょっと照れ臭そうに。


「今更だけど、急に呼び捨てはちょっと行きすぎなのかな?」

「ほんとに今更だね。……まぁ、変な噂が立ったりはするかも?」


 呼び捨ての男女がどうのというより、これまでの僕らの関係性を鑑みての話だ。うーんと唸る沙織は、ほんの数秒悩んだふり(・・)をして、また朗らかに笑う。


「ま、いっか」


 噂を気にするようなら、そもそも今僕らはここに立っていない。本当に、本当に今更の話だ。


 さておき僕らの関係はまた一歩進んで、なんとなく、胸がソワソワするような空気感。地に足がつかない。微熱のように頭がぼぅとする。


 居ても立ってもいられない、と言うのはまさにこういうことなんだろう。僕はごまかすように話題を探した。


「そういえば、家にミルはあるの?」

「あるよー。コーヒー飲む道具は一通りそろってるはず」


 ごまかしに乗ってくれたのか、あるいは彼女はすぐに平静を取り戻す。


「じゃあ、そろそろ出る?」

「……冷やかしみたいでなんか気が引ける」

「そういうの気に……いやなんでも」

「気にするが!? 気にしちゃダメか!?」

「しー」

「私が悪いんか」


 僕も沙織と同じタイプだ。何も買わず何も食わず、ただ見ただけで店を出ることに罪悪感を感じる。ショッピングモールのように開放されている店舗ならいざ知らず、こうしてきちっと建てられたお店ならばなおのこと。


 というわけで二人で店内をうろついて、僕らはちょっとした小物コーナーで足を止めた。


「よしじゃあ、このコースターを買おう」

「いいね。どれがいい?」


 素材、柄、色に形。色々なものが合わせて十種ほど。じっくり眺めた沙織は、けれどあまり迷うことなく一つを手に取った。


 シンプルな円形の木製コースターに、湯気が昇るコーヒーカップ柄の焼き印が施された。


「可愛い。おそろにしよう」

「……カップルみたい」

「私にとってはそういう趣旨だったじゃん?」

「そうだっけ」

「ちょっと違うけど、誤差だよね」


 好き嫌いは置いといて、という話だったけど。とはいえそんな「趣旨」なんて、人付き合いには必要のないものってことくらいは僕にもわかる。お互い自分勝手に行こう、と言ったのは何より沙織だ。


 僕らはおそろいのコースターを手にレジへ向かった。


 当たり前のことながら僕はここの常連で、店長も僕が誰かをきちんと知ってくれている。そんな彼の前であんなやり取りをしていたことに、今更ながらに気付いてしまったものだから。


 にこにこと楽しそうな彼の優しい笑顔を、僕は会計の間見ることができなかった。





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