人に歴史あり
学校から畑や野原を通ってしばらく。その奥には小川と林、山々を望む三角屋根のログハウスが、僕が勤める喫茶「セルジュ」である。
階段のついた入口。そして裏側には裏口の他、絶景を望むテラス席まで備えてある。このテラス席がまぁ観光客に人気で。黒瀬さんは普段、たいていそこに座っている。
入口の手前で黒瀬さんと別れ、僕は裏口からいつも通りにキッチンへ。徹さんに挨拶をして制服に着替え、ホールに入る。カウンターの裏側、店長に挨拶をすれば、くいと顎で目の前を指し示す。
珍しい光景。三人の常連さんが座る六席ほどのカウンターの、中ほどに一人座る黒瀬さんの姿。「やほ」と手を挙げる。わかっていたことだけど、なんというか、破壊力抜群、だ。
客の入りはまずます。カウンターもテーブルも、それからテラスも、それぞれ半数以上が埋まっている。そこそこの広さのある店内だから、半数とはいってもなかなかの人数だ。
賑やかな店内。いけないことなんだけど、それでも意識は黒瀬さん一人に向かってしまう。
「はい、お冷とおしぼり。注文は?」
「ブレンドとー、あと季節のタルトで」
「うん。じゃあ、ちょっと待ってて」
いつもブレンド一杯ってわけじゃない。たまにこうしてケーキも一緒に注文してくれる。徹さんのお手製ケーキはとても評判が良くて、一日の終わりには大抵ショーケースが空になるんだ。
店長がショーケースからケーキを取り出して盛り付けをする間、僕はコーヒーを淹れる。
珍しいとはいっても、彼女がカウンターに座るのは初めてというわけでもない。そうでなくちゃ僕がコーヒーを淹れる時の顔なんて知らないはずだから。
けれどやっぱり、彼女が見守る中で淹れるのは、少し緊張する。そんな僕の様子を面白がる店長のにやけた顔が、また。
「綾人くん、やっぱり瞳さんの前だとちょっと落ち着いてるね」
「そう見える?」
「見えるよ」
「……そっか」
そう見えるんならそうなんだろう、きっと。
「昔から知ってるんだよね? あーやもぐるみも「ひーねぇ」なんて呼んでるし」
「うん。なにしろここのバイトだったからね、昔は」
「らしいねー。ここを継ぐために有名な調理師学校にまで行ったとか」
「ありがたい話だよね」
「そういう話は本人のいないところでしなよね」
シンプルながらもケーキを際立たせるドット柄のソースアート。出回り始めた夏ミカンをふんだんに使ったタルトは、その華やかな色にレモンバームの緑が良く映える。
トレーにそれを載せた呆れ顔の店長を迎える黒瀬さんは、悪びれることなく「あはは」と笑った。「きれー」とスマホで写真をぱしゃり。
編沢瞳。旧姓結城。彼女はお母さんがセルジュにいた頃にアルバイトとして働いていた。当時十五歳で、それ以前からセルジュに通っていたくらいのセルジュフリークだ。聞くところによるとずいぶんお母さんに世話になった、らしいのだけれど。
「あと継ぐって言っても、ちなみにオーナーは別だぞ?」
「そうなんですか?」
「うん。何を隠そう綾瀬のお父さんだ」
「はぇー。でも、お店で見たことないですね」
「そこはもう、一任されてるよ。報告は毎月してるけどね」
カウンターに戻った店長と入れ替わるように、僕はカウンター越しにコーヒーを渡す。
「お待たせしました。ブレンドと、ミルクです」
「ありがとー。こっちもぱしゃっと」
タルトとコーヒーを並べてまたスマホを構える。
普段こういうことはあまりしていた記憶がないけれど、僕が見ていないところではやってたのかな? あるいは、突然降って湧いた休みにテンションがおかしくなってるとか。
いずれにしても、高校生らしい黒瀬さんの姿がなんだか微笑ましい。
「綾人もせっかくなら一緒にどう? 業務時間ずらしとくから」
「……確かに、そういうことなら」
「その分後から働けよ?」
「わかってますって」
「はは。じゃあ特別だ、私がコーヒーを淹れてやろう」
「いただきます」
エプロンのままカウンターのホール側に回り込み、黒瀬さんの隣に座る。広い店内だから、カウンター席の間隔もそこそこにとってある。……んだけど、黒瀬さんときたらやおら立ち上がり、カウンターチェアを僕の方に寄せて座り直すのだ。タルトとコーヒーも寄せて、「どや」と笑顔。
これには店長も苦笑い。手際よくコーヒーを淹れて僕に差し出すと、「ほどほどにな」とからかうように。
昔からそうだったけど、こっちに戻って来てからは尚更だ。彼女は僕とあやに甘い。それもとびきり。
――もっとも、あやはこの店に寄りつくことはほとんどなくなってしまったけれど。
「おいしそー。いただきまーす」
「いただきます」
手を合わせて、フォークをタルトに突き立てる黒瀬さん。その横顔、口元に笑みが浮かんでいる。ミルクをピッチャーから半分ほど注いで混ぜ合わせ、僕はその横顔を眺めながらそれを口に運んだ。
おいしい。学べば学ぶほどその深みがわかる。僕はまだ店長に及んでいない。
何しろセルジュの為だけに調理師学校に通い、合間にはコーヒースクールなんてものにも通っていたとか。余暇すらも惜しんで勉強を重ね、そして今ここに立っている。
悔しさがまるでないわけじゃないけど、それでも、この人がここにいてくれることが頼もしい。誇らしい。
「おいしいです」
「そ。よかった」
簡素な返事。けれどその小さな笑みに、僕の言葉が正しく伝わっていることがよくわかる。
「うめー。こっちは旦那さんの手作りなんですよね」
「そうだよ。絶品でしょ、ウチの旦那のスイーツ」
「絶品!」
こちらはご満悦、満面の笑み。横顔からも伝わるくらいで、僕まで嬉しくなる。
「お菓子作りが上手い寡黙だけど優しい、なのに情熱的な旦那さん……いいなー」
「いいとこだけ切り取ればな。くるみの話を真に受けすぎなんだよ、沙織は」
「だってめっちゃいい話じゃないですかー。綾人くんも知ってる?」
「うん、聞いたことある。意外といえば意外だよね、あの徹さんが」
「まー、決めたことには一直線な人ではあるよ。良くも悪くもね」
満更でもなさそうな、それでも少しの苦みを感じる複雑な笑顔。店長という人物の、その深みの一端が見えるような。
僕が聞いた話はこうだ。
店長と徹さんが出会ったのは大学時代。経営を学ぶ彼女が、後学の為にと巡っていたたくさんのカフェのうち、一軒の小さな店でバイトをしていたのが徹さん。店内をキョロキョロと見渡し、マスターに熱心に話を聞き、懸命にノートを取る店長に、徹さんはいたく興味を惹かれたらしい。
ぽつぽつと話をするようになって、飲食店をやりたいという共通の夢を知り、仲を深める。
大学在学中に交際を始め、同じ調理師学校に進学。課が違うものの恋人同士、互いに腕を知識を磨きながら着実に夢に向かって進んでいた――
転機はそんな中、一本の電話によってもたらされた。
セルジュの店長、上巾紡季の死去。
迷いなく、躊躇なく、店長は調理師学校の中退を即決。あらゆる手続きを最速で行って葛木町へ舞い戻った。友人、恋人、そしてこれから学ぶべきだった諸々。未練は多いけれど、「夢」が潰えるくらいならとすべてを断ち切って。
義父さんとの交渉、再開までの手続きや準備、宣伝等々。やることが山積みで、とにかくセルジュのことで手いっぱいの店長。当初は今ほどの人気はなく、赤字続きの毎日だったらしい。方々からの支援でなんとか経営を続けていた店長の元に、ある日思いも寄らない来客があった。
それが徹さん。
「喫茶店にはおいしいスイーツが必要だろう?」と微笑む彼に、店長がどれだけ救われただろうか。
追いかけてくるまでの間、彼は調理師学校でしっかりと製菓を、料理を学んだ。それが店長の役に立つと信じて。彼女が学びきれなかったものまで学ぶくらいの熱意で。
そんな彼を、拒めるはずもない。すっかりやられた店長は、その日のうちに結婚を決めたんだとか。
「ぐるみがあの話好きすぎて、もう何回聞いたことか」
「人のことなんだからちょっとは自重しろって言ってるんだけどなぁ」
「店長はぐるみに甘すぎますよ」
「いやだってお前、あいつの「お願い」断れるか?」
「……無理ですけど」
「私も無理。あんなに色々大きいのに、お願いの時めっちゃちっちゃくなるんよね」
わかる、と僕と店長が同意する。僕に関してはもう随分昔のことになるけど、今でも変わっていないようで。
ともあれそんなこんなで軌道に乗ったセルジュは、前店長の息子である僕を迎えて今に至る。あれやこれやと追われていた頃の店長と比較すると、随分穏やかな顔をするようになった。あるいはみんなのお姉さんでいられるのも、徹さんのおかげであることも否めないと思う。
一口、タルトを頬張ってゆっくり咀嚼し、コーヒーを飲む黒瀬さん。その余韻を楽しむかのような表情が、彼女のコーヒー好きを端的に示してくれる。
「そういえば沙織、目、大丈夫なの?」
「大丈夫ですよー。というか今更ですね」
「いやまぁ、……おっと、お客さんが呼んでるね。ゆっくりしてて」
「はーい」
カウンターを出てお客さんの元へ向かう店長を見送り、僕らは改めてコーヒーをすする。
愛すべき苦みと、深いコクと、際立たせるような小さい酸味。それらを柔らかく包み込むミルクの甘み。
心を穏やかにしてくれる。空気が一区切りついたような落ち着き。僕はなんとなく、店長との会話を引き継ぐように言葉を紡いだ。
「……そういえば、もうすぐ大会とか?」
「そだねー。今週の土日から始まるよ」
「え、間に合う?」
穏やかな心のまま。穏やかな顔つきのまま。横顔の彼女はゆっくりと微笑む。
「間に合うよ。後遺症もまずないだろうって言われてるしね」
タルトを食べ、またコーヒーを飲み。注文を聞いて戻ってきた店長と笑顔を交わし、今度は僕の方を見て柔らかく微笑んだ。包み込むような、苦みと深みを、隠すような。
「ま、数日は休みなんだろ?」
「ですね。……バイトとかできませんかね?」
「短期なら構わないけど。本気?」
「割と。色々全部未経験ですけど」
「それはいいよ、教えるし。綾人が」
えっ、とカウンター越しに見遣る店長は、にっこりと笑顔。次いで視線を向ける黒瀬さんは、これまた満面の笑みである。
「先に言っとくけど、バイトを数日雇うくらいなんでもないからな?」
「……ですよね」
僕の用意した言い訳が先に潰され、どうやら退路は断たれたようである。必要はないかもしれないけれど、いれば助かるのもまた事実。店長が「ヨシ」と言うなら僕から言うことは何もない。
願ってもない展開でもある。バイト仲間、というものに憧れはあったし、それが憧れの人であるなら尚更だ。
同じ制服を着た黒瀬さん。想像するだけでも気分が高揚する。間違いなく可愛い。
「でも、いいの? いくら休みだからって」
「いいのいいの。だって私、大会出ないしね」
穏やかな心のまま。穏やかな顔つきのまま。放たれた言葉はしばらく宙をさまよって――
タルトの最後の一口を名残惜しそうに頬張り、ゆっくり味わって飲み下す。果実と小麦の余韻が残るうちに、コーヒーを一口。よくわかる。そうすると一層香りが引き立つんだ。
――ようやく、その言葉は僕の頭の中に入ってきた。
「え」
コーヒーを飲み込んで、僕の方を見て、黒瀬さんはにこりと笑った。
「おいしかったよ。これからよろしくね、先輩」




