青春を始めよう
あや曰く、黒瀬さんの怪我は今のところ深刻なものではなく、順調にいけば数日で治るものではあるらしい。けれどそれも清潔かつ安静にしていればという前提のものであり、完全に治るまでは部活も体育も休むことになった。
テニスを休む黒瀬さん、というのがいまいち想像できないけれど。それでもなんとなく、少しだけ安心した。
あやも不用意な発言を悔いてはいたけれど、あまり気にしすぎてもよくない。難しいけれどお互いにそれで納得することにした。納得する、じゃなくて、することにした、だ。
つまるところいつも通り。ただ黒瀬さんの立ち位置が変わるだけ。
翌日、昼休みの教室に現れた黒瀬さんの姿に、クラスが少しだけざわついた。
ボールがぶつかった左目に、白い眼帯をつけていたからだ。彼女を囲んで心配そうにしていた知人たちだけど、どうやら心配いらないとわかると各々自分たちのグループへ戻っていく。そうして黒瀬さんも自分のグループ――僕らの席につくと、ため息一つお弁当を広げ始めた。
片目での生活は、やっぱりちょっと大変そうだった。話には聞いたことがあるけれど、なんといっても距離感や位置がつかみにくい、らしい。まだまだ慣れないようで、弁当のおかずをつまもうとした箸が空を切ることが何度かあった。
「これでテニスやったら楽しそう」
「今度はどこ怪我すんだろーなぁ? なぁ?」
「……怒んなよぉ」
それでも深刻にならず茶化してしまう黒瀬さんは、強いのか無理をしているのか。よくわからないけれど、それはあやが怒るのも仕方ないと思うよ。
とはいえ、時折眉をひそめるのが目に付く。痛みが走るらしい。大したことないと笑うけれどかえってそれが痛ましくて、僕はかける声に迷って結局何も言えなくなってしまう。ぐるみとあやはもう「気にしない」ことにしたらしいけれど、それは気心知れたが故の信頼感の表れでもある。僕にはない。
弁当箱からほうれん草のおひたしをつまむ。少し残ったしゃきっと感が、おいしい。
「てか朝暇だよ。朝練ない時何してたっけ」
「知らねーよ。そもそも毎日はねーだろーがよ」
「見に来てくれたら嬉しいけどなぁ」
「見ててやりたくなったらどーすんの。よくないよぐるみ」
「えぇ、ごめん」
「……うそうそ」
「しょーもねー」
リズムのある小気味いい会話。一口サイズのかぼちゃコロッケを頬張る僕。
弁当を食べ始めてしばらく、まだ僕ら……というより黒瀬さんの方をちらちらと窺いながら、少しだけざわついている教室内。
そもそも眼帯を付けた人を初めて見た。物珍しいというのも大いにあるだろうし、その気持ちは僕もよくわかる。左隣に座る彼女のそれは、僕からはよく見えないけれど。
はたと視線に気づいた黒瀬さんが、僕の方を見てにやりと笑う。
「似合うかい?」
「え、うん……それでいいの?」
「何でも似合うに越したことはない!」
「そうかなぁ」
黒い髪、黒い瞳に白い肌。割って入るような強い白が、残った右の瞳を尚更に際立たせている……ような、気がする。似合ってるかと問われれば間違いなく似合っているし、新鮮さも相まって可愛いと称するに十分だ。
でも、怪我なんだよなぁ。名誉の負傷ってわけでもなく、ただ不注意の上の。呆れた顔のあやとぐるみが、もはやツッコミを放棄している辺りが悲哀を誘う。
ご機嫌な顔でそぼろご飯を頬張る黒瀬さんは、なぜだかいつもより元気に見えるくらいで。
「痛いんだよね?」
「痛いよー。なんか目がごろごろするし、涙は出るし、角膜ヴィランっていうんだって」
「……びらんね?」
「ヴィラン」
そんな悪役みたいな。
「ちなみに黒目の表っかわの角膜、わかるよね? が、めくれてるんだって。ほらここ、瞳のとこね」
僕の方に顔を寄せて、右の目を指差す黒瀬さんのその瞳は、依然変わらず濡れたような輝きを湛えている。その美しい黒目が、めくれていると。
「……鳥肌立ちそう」
「やめろよビビりなんだから」
「ビビり関係ないよぉ。わたしもぞわぞわしちゃう」
「ぬいもビビりだからな」
「えー」
お弁当に向き直った黒瀬さんは、楽しそうにそぼろご飯をまた頬張る。嫌がらせのようなその怪我の説明も、あんなに近くでその顔を、瞳を見られた役得に塗り替えられる。惜しむらくはぐるみにとっては嫌がらせにしかなっていない事実だろうか。南無。
「うーん、せっかくだからこの休みの間になんかしたいなー」
「休みったって、ほんの数時間空くくらいだろ?」
「体力的なとこもあるでしょ。持て余したものを発散するってことだね」
「筋トレとか?」
「ぐるみ、それは休みとは言わない」
「戻った時困るかなぁって、やっぱりだめかぁ」
ちょっと恥ずかしそうに笑うぐるみを笑い、黒瀬さんは「そっか、それも休まなきゃか」と呟く。
やっぱり、すごい人だ。ともすれば聞き逃しそうになるほど当たり前のような調子で、だから彼女にとってそれほど当たり前の習慣になっているということ。「休む」と言われてそれを止める発想にすら至らないほどに。
そりゃあ、強いわけだ。
「でもまぁ、出歩くなってわけでもないし。セルジュにでも通い詰めるかー」
「わたしいないのにぃ?」
「ぐるみが来るまで綾人くんにダル絡みして遊んでるよ」
「邪魔しちゃだめだよぉ」
嬉しいけど、ぐるみの言う通りバイトの邪魔は確かにやめてもらいたい。視線での抗議に、黒瀬さんは「あはは」と笑ってごまかした。
でも、なんというか、本当に困ってるんだな。当たり前にあったものが目の前からいきなりなくなって、どうしたらいいのかわからない。暇の潰し方がわからない。休み方がわからない。
なんというか、「社畜」みたいな。ネット上のイメージしかないけど。
「まぁ、来てもらう分には大歓迎だから」
「じゃあ、一緒にいこっか」
「……えぇ?」
いや別に、変なことを言われたわけじゃない。デートまでしたんだから、喫茶店までの道を一緒に歩くくらいはたぶんなんてことないはず。
距離感が変な人、という印象が間違っていないことはわかった。あやもぐるみも苦笑いで流しているし、きっと彼女というのは、興味の対象にいつもこうなんだ。恐らく「あや」と「ぐるみ」にだってそうだったに違いない。
そしてそこで引かなかったから、三人はいつも一緒の親友になった。それなら。
「じゃあ、まぁ、よろしく?」
「よろしくされた。すまんなあーや、弟を借りる」
「トイチな」
「じゃあ私も後で借りよぉ」
「……ぐるみはタダでいいや」
「なんであやに決定権あるのさ」
そもそも僕にレンタル料はかからない、なんてことはさておいて。
隣の教室ではあるけれど、僕らはあえて校門で待ち合わせをした。その方がなんとなく「っぽい」から、って黒瀬さんは言っていたけど、正直めちゃくちゃわかる。
教室に迎えに行く、来てもらう、というのもめちゃくちゃに惹かれはするけれど、ともあれ。
セルジュと両親に連絡を入れ、僕は校門に向かった。混雑を避けて普段は少し時間を空けたりもするけれど、今日は人波に身を任せて。……そもそも田舎の高校に波と呼べるほどの人はいない、というのは置いといて。
穏やかな陽射しの下、門柱に背を預けるセーラー服姿の黒瀬さん。黒い革のスクールバッグを左肩にかけ、その持ち手に左手を添えて。右手にはスマホ、指が忙しなく動いているのが遠目にもわかる。一歩一歩近づいていけば、口元が緩く笑んでいるのにも気付いた。
絵になるなぁ。これを崩したくない、なんて気持ちすら浮かぶほど。
「お」
けれど彼女は活発な少女であり、絵画じゃない。僕に気付くなり笑みを深めるものだから、僕は言葉もなく手を挙げることしかできなかった。
「よ」
スマホをいそいそとスクールバッグのポケットにしまい、「改めて」と言わんばかりに手を挙げる黒瀬さんの、会心の笑顔。片目が隠れているせいか、残った右目に、そして口元につい視線が引き寄せられる。
笑顔のまま首を傾げる彼女に、「見惚れていた」なんて言えるはずもない。ひとまずの第一声は無難に。
「お待たせ、待った?」
「ううん、今来たとこ」
そんなお約束を笑い合って、僕らは並んで歩き始めた。黒瀬さんが左側、僕が右側。テニスコートの脇を通る時、響く打球音に視線を向ける。
気にしない、気にしない。黒瀬さんは断ち切るように自分の家について話し始めた。
黒瀬家は、やっぱり住宅街にあってセルジュとは反対方向になる。白い壁にブラウンの屋根。芝生の庭には月桂樹が、花壇には季節によって色々な花が植えられる。以前のアパートでは考えられないくらいゆとりのある暮らしで、自室の窓から庭を眺めるだけでそれが実感できる。そう語る黒瀬さんの表情、声色は、確かに穏やかでのびやかで。
次は玄関先だけじゃなく、なんて、思ってしまうのだ。
「今のところウチに遊びに来たの、あやとぐるみくらいだなー」
「へー。意外と少ない」
「意外かな? そっか、まだメッキが剝がれてないのか」
「メッキて」
学校からしばらく歩くと、もう辺りは野原同然の様相だ。田畑や名物のぶどう畑、何もない空き地もあったり、道路の上を虫が歩いてることだってある。
そんな中、気付くことがある。
黒瀬さんはデートの時には僕の方に気を向けながら、色々なところへ気配りを欠かさなかった。けれど今は、注意深く前を、下を見ながら歩いている。大したことないと言いながら、怪我の影響は思いの他大きいようだ。
狭い道路で、車道と歩道なんて区別はないから、車が通る中央側を僕が歩く。普段から意識できるほどフェミニストでもないけれど、こんな時くらいはと僕から提案した。笑顔で受け入れてくれて、その時はほっとしたものだったけれど。
思わぬ落とし穴。気付けば少しずつ進路がずれていた黒瀬さんが、田んぼの方へ今にも踏み出そうとしていたのだ。
咄嗟にその腕をつかんだ。袖越しにも伝わる柔らかさ。けれどそればかりでなく、芯のあるしなやかな。鍛え上げられた腕を十分に脱力したらこうなるだろう、という想像をそのまま体現したような。
……女の子の腕に対する感想だろうか、と疑問に思ったのは置いといて。
「ごめん、踏み外しそうで」
僕の言葉に足元を見遣る黒瀬さんは、跳び退るように僕の方へ身を寄せた。それを避けるように、僕も一歩道路側へ。
「あぶな。ありがと、思わずトゥンクしちゃうとこだったよ」
「まぁ、落ちなくてよかったよ。声かけた方がよかったかな」
「あのタイミングで急に声出されたら逆に危なかったかも。的確な判断でした」
「よかった。あ、ごめん腕離すね」
ぱっと離した手のひらに、なんだかまだ感触が、温もりが残っている。それが妙に照れ臭くて、僕は前を向いて歩き出す。意識すると途端にそわそわとしてしまって、早回りしようとする脚をなんとか小さく留めて。
そんな僕の腕、肘の辺りの袖が、くぃと引かれた。振り返る先、いたずらっぽい笑顔の黒瀬さん。
「ん?」
「危ない、でしょ?」
「……そうだね」
そっか、そもそも一人で登下校は危ないから。――なんて現実的な理由があったかどうか、そんなことは今はどうでもいい。選ばれたのが僕で、隣に立っているのが僕なんだ。
夜には虫や蛙の声でうるさいくらいの田んぼ道も、今は静かで足音さえ聞こえるくらいだ。小さな田んぼを過ぎれば倉庫やなんかの建物が続き、野原が広がる。そよそよと風に身を任せる草花が、誰に支えられるでもなく立っている。
くすぐったくて誇らしい、奇妙な気持ち。むずむずして、思わず走り出したくなる。
セルジュまで、ほんの数分。




