3 古家と子どもと記憶のかけらたち
この家に住もうと決めたのは、単純な理由だった。
村はずれの小高い丘に建つ古びた石造りの家。
屋根は苔むし、窓の一部は割れ、誰が見ても「人が住めるの?」と思うような廃屋。
それでも私は、どうしてかこの家に惹かれたのだ。
理由を言葉にするなら――この家には、「過去」が詰まっている気がした。
引っ越し当日、私が最初に手をつけたのは、埃だらけの居間だった。
大きな暖炉と、壁一面の本棚。
そして散らばった紙の束、インク壺、煤けた日記帳の山。
「うわぁ……これは、掃除が大変そう」
けれど、私はなぜか少しだけ嬉しかった。
だって、誰かがここで確かに“暮らしていた”証が残っている。
新築の整った家よりも、こうした痕跡の方が、よほど温かみを感じるのだ。
――そして、その痕跡の中に、とんでもない“宝”が眠っていた。
***
最初に見つけたのは、暖炉の横に押し込まれた木箱だった。
錆びた金具を外し、ふたを開けると、中には分厚い手帳が十数冊。
一冊目を開くと、精緻な文字でこう書かれていた。
《ニンブル草の育て方と注意点》
《南東の畑は日照がやや強すぎる。遮光布推奨》
《根を煮詰めると咳止めになるが、沸騰させると苦味が出る》
……これは、ただの雑記帳じゃない。
実用的で具体的な知識が、びっしりと記録されている。
二冊目、三冊目と読み進めるごとに、私は手が止まらなくなっていた。
植物の育成記録、薬草の効能と副作用、火の魔法を使った調理法、
自然乾燥に最適な時間帯、月の動きに応じた収穫のタイミング……。
そして最後のページには、こんな一文が書かれていた。
《知識は、命と同じくらい大事なものだ。書き残せば、誰かがきっと使ってくれる》
この家の前の住人は――おそらく老人だったのだろう。自分の知恵をコツコツと記録し、未来に残そうとしていたのだ。
胸が熱くなった。
私も、こうなりたいと思った。
私も、知識を残したい。
この村の暮らしの知恵、ささやかな発見、そして誰かの“役に立つ”情報を、未来に繋げたい。
***
そんなある日、私は庭先で一人の子どもに出会った。
小柄で、薄汚れた上着を着ていて、もじもじと門の前に立っている。
「こんにちは。どうしたの?」
私が声をかけると、びくっと肩を震わせた。
けれど、しばらくして小さな声でこう言った。
「……花、見せてもらってもいい?」
どうやら、庭の一角に咲いた薬草の花に興味があったらしい。
快く頷いて、名前や使い方を話していると、子どもはキラキラと目を輝かせた。
「すごい……そんなこと、誰にも教えてもらえなかった」
「村の人は教えてくれないの?」
首を横に振られる。
「わたし、文字が読めないから。本とか、難しい話は、分かんないって……」
その言葉に、私ははっとした。
この村では、文字の読み書きができない子どもが多いらしい。
学校というものもなく、家庭で読み聞かせが行われることもほとんどないという。
――もったいない。
だって、知識はこんなにも楽しくて、役に立つのに。
その日から私は、毎週決まった時間にその子に本を読み聞かせるようになった。
最初は植物の話だった。
次は薬草の効能。火を使った調理法。月の動きと気候の関係。
少しずつ、難しい単語も教えていく。
子どもの瞳がどんどん輝いていくのが、うれしくてたまらなかった。
そして、噂を聞きつけた他の子どもたちが、ぽつりぽつりと庭先に現れるようになった。
***
ある日、私は家の前で簡易な読み聞かせ会を開いていた。
五人の子どもたちが、膝を揃えて座っている。
「今日はね、昔この家に住んでいた人が書いた日記の一部を読むよ」
読み上げるたびに、子どもたちは驚いたり、笑ったり、真剣にうなずいたり。
私はふと、胸の奥から湧き上がる思いに気づいた。
――こんなふうに、もっと多くの人に、知識と出会う場所を作りたい。
読み書きができなくても、誰でも来ていい場所。
本があって、知恵があって、誰かと話ができる空間。
それは、かつて私が現代で夢見た「知の共有スペース」にも似ている。
終わったあと、最初に出会った子が、ぽつりとつぶやいた。
「ねえ、アオイさん。もっと、たくさん本があったらいいのに。いろんな話を、もっと知りたい」
私は笑った。
「それなら、作ろうか。“図書室”を」
子どもたちは歓声をあげた。
その笑顔を見ながら、私は心に誓った。
この家を、ただの住まいではなく――知識を集め、つなぐ場所にする。
未来の誰かが、ページをめくったとき、あたたかい気持ちになれるような、そんな空間に。
こうして、葵の図書室構想は、静かに動き始めたのだった。