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淡路紀行~国生み神話を訪ねて~

作者: flat face

 『古事記』・『日本書紀』の記紀神話によれば沖縄や北海道を除いた日本の国土は、イザナギとイザナミの兄妹神によって生み出されました。その国生み神話において地上は最初、全て海に覆われており、そこをイザナギとイザナミが天上の世界から矛で掻き回します。それにより牛乳からバターが攪拌されるように島が一つ出来上がります。

 イザナギとイザナミはその島に降りますと、結婚して島々を生み出し、それは島生み神話とも呼ばれます。二人の降りた島が沼島、結婚して最初に生み出したのが淡路島であるとされています。沼島は淡路島の南にあり、今回、私は国生み神話と島生み神話においてそれぞれ始まりの島たる沼島と淡路島に行きました。

 旅のお伴には平田篤胤『霊能御柱』を持っていきました。篤胤は『霊能御柱』で日本神話の天地創造を体系化し、国生み神話を地球規模に拡大させました。それは最新の天文学も取り入れた壮大な宇宙論を物語る一方、日本を世界の中心とするエスノセントリズムと結び付いてもおり、今回の旅行でもそうした神話の二面性が感じられました。



  一日目


 淡路島には本州から明石海峡大橋で渡りました。明石海峡大橋は橋そのものよりも橋梁の方が巨大に感じられました。車で明石海峡大橋を渡る時間は意外に短く、思ったよりも淡路島と本州が近いことを知りました。

 お昼ご飯は淡路島のサービスエリアに入り、そのフードコートで淡路牛とじ丼と赤だしのセットを頂きました。牛丼は割りと脂身が少なく、割りとあっさりした味でしたが、後味は長く尾を引きました。淡路島のサービスエリアは観覧車があり、明石海峡大橋を撮影できるフォトスポットではカメラを置けるようにマスコットキャラが両腕を広げていました。

 サービスエリアを出た後、高速道路を走って土生港を目指しました。淡路島には鉄道がなく、バスが高速を走ってもいました。車窓から眺める淡路島の景色は、海がなければ本州の田舎と変わらないように見えました。

 土生港からは沼島に渡るフェリーが出ており、チケットを買う販売所には沼島のお土産も売っていました。沼島は鱧が名物なので、鱧のカレーや出汁を使った塩がありました。鱧を用いたカレーは、バーモントカレーと引っ掛けてハーモントカレーと名付けられていました。

 フェリーは十分くらいで沼島に到着しました。波で揺れはしましたが、それほど激しいものではなく、船酔いすることはありませんでした。船内のテレビには徳島県のニュースが流れており、どうやら淡路は徳島と近しい関係にあるようです。

 沼島の波止場は予想以上に巨大な造りでした。そこには釣りをしている人たちもいました。泊まる民宿のお迎えが来るまでの間、待合の建物に展示されている沼島の写真や記事を見物しました。

 沼島には鞘型褶曲という珍しい模様の岩があります。鞘型褶曲は鞘のような形をした模様で、世界で沼島とフランスにだけ見られるそうです。待合には鞘型褶曲の岩が展示されており、触ることも出来ました。

 鞘のような形をした模様に触ってみますと、予想よりも凹凸がくっきりしていました。外に出て海の近くに行きましたら、船虫がうじゃうじゃいました。海を前にしても磯の香りは余り感じられませんでした。

 お迎えに来てくれた車に乗り、民宿に着いて荷物を置きますと、おのころ神社を参拝しに出掛けました。鬱蒼として薄暗い急な坂を登り、おのころ山というそれ自体がご神体の山を進みました。生臭い匂いのする道にはちっちゃくて鮮やかな朱色の蟹がわらわらいました。

 蟹は何もないと、じっとしていますが、近付けば岩の隙間に引っ込んでしまいます。坂を登り切ったところには急な石段があり、その先におのころ神社が鎮座していました。拝殿と神殿を揃えていましたが、神社そのものは小さくて無人でした。

 由緒書きによればおのころ神社は、元々、寛政年間に建てられた小祠で、祭礼が行われていたらしく、今でも婦人会が続けているそうです。大正元年に岩田なつという女性が発願し、大正一二年に神殿が完成し、昭和一二年に拝殿が建立されました。

 昭和五二年に神殿が修理され、平成一四年に拝殿と石段が修復され、イザナギとイザナミの石像が建てられました。おのころ神社は沼島の内外から信仰を集め、これらの事業にも全国から浄財が寄せられたとのことです。拝殿には信者の方々から奉納された絵画が掛かっていました。

 裏に回ればイザナギとイザナミの像がありました。その像は海を掻き回した矛を持っていましたが、形が簡略化されてスコップのようでした。更に奥へ進みますと、近代の戦死者を顕彰する忠魂碑などが建っていました。イザナギとイザナミは皇祖神アマテラスの両親で、国土を生んだとされるため、彼らを祀るおのころ神社は、忠魂碑などを建てるのには打って付けだったでしょう。

 もしかしたらおのころ神社は、元々、山を神として祀る祠で、近世から近代にかけて記紀神話の影響が強まり、国生み神話の舞台が淡路島とされているため、それと習合したのかも知れません。もっとも、国生み神話も元は淡路島のローカルな神話で、それが後に記紀神話に採用されたと言われてもいます。地方の伝承が最終的に戦争の道具に利用されるようにもなったことを考えましたら、何ともやるせない気持ちになります。

 蚊に刺されながら民宿に帰りますと、晩ご飯に鱧づくしを頂戴しました。鱧は民宿のご家族が獲ったもので、コースは刺身や湯引き、しゃぶしゃぶ、寿司、天麩羅など様々な料理を味わえました。刺身は甘くて食感がもしゃっとしており、湯引きは弾力があってまろやかな淡白さを感じました。

 しゃぶしゃぶは鱧の身を湯に通しますと、直ぐくるりと丸まり、ほくほくとしていました。鍋の出汁は甘みの強い味でした。鱧のしゃぶしゃぶは部位によって違う魚のような味わいで、中背はすり身のような食感がし、肝は鶏レバーのようでいて癖がなく、頭の肉は噛み応えがありました。

 寿司は刺身と似た感じで、天麩羅はさくさくとしていました。〆は鍋に鶏卵と鱧の卵、米を入れて雑炊を作ってもらいました。明太子のごとく食感が粒々としており、これまでにない雑炊でした。



  二日目


 朝食は魚の定食で、昨晩の夕食と違い、適度な量と優しい味で食べやすく、生卵で卵かけご飯を頂きました。沼島には国生み神話をモチーフにした国海ソーダフロートというのがあり、それも飲みたくはあったのですが、出してくれるお店が休みで、惜しくも口には出来ませんでした。また、漁船で沼島を一周し、イザナギとイザナミにゆかりの上立神岩などを見物するクルーズも、波が高いために残念ながら中止となりました。

 淡路島に帰ってきますと、淡路人形浄瑠璃資料館を見学しに行きました。先程、淡路島と徳島県は近しい関係にあると書きましたが、江戸時代は徳島の藩が淡路を治めており、藩の殿様が淡路の人形座を贔屓にしていたそうです。資料館は図書館と同じ建物にあり、学校とも提携しているようでした。

 館内には実物の人形や道具、人形浄瑠璃の様子を伝える絵画や写真が展示されており、芝居小屋を再現したジオラマもありました。淡路島には人形浄瑠璃が生まれる以前から人形繰りの長い伝統があり、展示物の「道薫坊伝記」によればヒルコを祖先神としているそうです。ヒルコに仕えていた道薫坊が亡くなり、百太夫が道薫坊を真似た人形を作ってヒルコを慰め、それが淡路人形の起源になったとのことです。

 この起源伝承は河原巻物に相通じるところがあります。河原巻物とは近世の被差別部落にて記された文書で、その職能や特権が神々に由来し、天皇に認められたものであることを語っています。人形繰りも被差別身分の人々により担われてきましたし、エビスも河原巻物に登場します。

 河原巻物は神話の形を取りながら、差別の不当さを訴えています。例えば「もとそれ日本の人民、皆神統ならざるはなし」なる文章があります。「元々、日本人は皆が神の子孫として平等である」という意味です。これは堂々たる平等の主張ではありますが、他方で日本人だけを神々の子孫としており、戦時中のエスノセントリズムに繋がる要素を含んでいます。

 なお、資料館には百太夫の子たる引田淡路掾が人形操りを宮中に奉納し、高い位を授かったという綸旨も展示されていました。百太夫は沖を漂っていたヒルコを拾ったとされますので、神話的な人物と言えます。そのことを考えましたら、この綸旨もまた河原巻物に通じるものとなりましょうか。

 資料館を後にしますと、昼食を取りにカフェへ向かいました。そのカフェは玉葱の倉庫を改装したところで、住宅地の中にありました。淡路島は道が狭いのに対し、家は敷地が広く、旧家が多く残っているのでしょうか。

 カフェの内装は倉庫を改装したと思えぬほどお洒落で、木材の香りが漂っていました。無料で飲めるコンソメのスープは、香ばしい匂いがし、水はうっすらレモンのような味がしました。料理はハンバーガーを注文しました。

 ハンバーガーは一般的なものよりも分厚く、パテはそれだけをハンバーグとして出しても良いくらい立派でした。一緒に挟まれたオニオンリングは、パテと同じくらいボリュームがあって天麩羅のようでした。ドリンクに注文したソーダは、昔ながらの甘ったるい味がしました。

 食後は伊弉諾神宮に向かいました。伊弉諾神宮は参道だけではなく、そのかなり手前の県道から献灯がずらりと並んでいました。神社の正面には大鳥居があり、花崗岩製の神明型鳥居としては全国最大級で、阪神淡路大震災で倒壊したものを氏子篤志家の寄進によって再建したのだそうです。

 伊勢神宮の遷宮がそうであるように簡素な新築は神々が喜ぶとされるものですが、伊弉諾神宮の新しい大鳥居は余りにも飾り気がなさすぎ、コンクリートの複製品を見るかのようでした。ドイツの建築家ブルーノ・タウトは神社の様式をモダニズムと重ね合わせて高く評価しました。戦時中の日本が壮大な建築で人々を鼓舞しようとした他国とは異なり、バラックの群れを生んだのも、神社の通じるところがあるのかも知れません。

 歴史的仮名遣いで書かれた御由緒を読みますと、伊弉諾神宮はイザナギが余生を過ごしたとされる旧跡に鎮座しているそうです。国生み神話の原形を淡路島のローカルな伝承とする説によればイザナギとイザナミは元は巨人の夫婦であったとのことです。巨人であるからこそ国を生め、人間と同じく寿命があり、淡路島にはイザナギの墓があったとされます。

 淡路には自凝島神社という神社もあります。自凝島神社ではイザナギとイザナミは沼島ではなく、神社の境内にある丘に降り、島々を生み出したと伝えています。残念ながらそちらに参詣する時間はありませんでした。

 ただ、自凝島神社の大鳥居は遠くから眺められました。その鳥居は平安神宮および厳島神社と並び、日本三大鳥居の一つに数えられ、ランドマークとされています。遠くから眺めるだけで行けなかったところは、他に淳仁天皇陵があります。

 淳仁天皇陵は淳仁天皇の陵墓で、この天皇は淡路廃帝とも呼ばれています。彼は対立する孝謙天皇/称徳天皇によって廃位され、淡路島へと流刑に処せられました。なお、淳仁には今の滋賀県に隠棲したという伝説もあり、因みにイザナギも淡路ではなく、滋賀に隠居したともされています。

 現在は観光地のところが過去には流刑地とされていたのは、韓国の済州島が思い出されます。帰りは行きと同様、明石海峡大橋を通って本州に渡ってその街並みを目にし、淡路島には高い建物がそれほどなかったことに気付かされました。京都が建物の高さを制限するように淡路も敢えて長閑な風景を残しているのかも知れません。


日本の神話に幾らかでも興味を抱いてもらえればと思い、日本神話を題材にした映像作品を以下に挙げさせていただきました。


『火の鳥 黎明編 前編』

『火の鳥 黎明編 後編』

『わんぱく王子の大蛇退治』

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