家での生活
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「ただいま。」
そっと静かに、玄関扉を閉める。
私は、玄関から自室へとそのまま向かって歩いていった。
母の口癖は、「星菜、勉強しなさい」だった。
私が部屋で勉強をしていないと、母が急に部屋に入ってきて、『勉強しなさい』と言われるのだ。そのあとは、外から鍵を掛けられ、使用人に見張られる。
食事もいつも使用人が持って来たものを、一人で食べる。トイレとお風呂以外に自分の部屋から出るのは、禁止だった。
退院してからの家での生活は、そんな風だった。
「ギシギシギシ…」
自室へと向かうための廊下は、ギシギシと音が鳴る。
だからか、私が部屋から出るとすぐに分かるのだ。でもその代わりに、誰かがこの部屋に来るのもすぐに分かる。その音でいつも、食事が来たのかを確かめるようにしていた。
耳を澄まして聞いてみると、廊下を歩く音も人によって個性があって、誰が来たのかもすぐに分かるようになった。スリッパを履いていたり、靴下が滑りやすかったり。ゆっくり歩く人や、素早く歩く人。それだけの違いで少しずつ音の鳴り方が違っていて、なんだかそれを聞き分けるのも面白かった。
私は、机の上に教科書を広げると、また勉強を始めた。
入院中に琴から聞いたのだが、私は学年の中でもトップの成績だったらしい。
あの学園でトップということは、我ながらすごいのではないか、と最初は思った。でもそれと同時に考えてしまった。もしかしたら幼い頃からずっと、こんな生活ばかり続けていたのかもしれない、と。もしそうだとしたら、私はきっと寂しかったのではないだろうか?
勉強は、記憶を失っても感覚的に覚えていた。これはこうとか、やりだしたら思い出してきて、そんなに困ることはなかった。
ただ心配なのは、入院していた時の分だ。
2年ぐらい眠り続けていたらしいから、その2年間は空白だ。
目覚めてからの2週間で大分勉強はしたが、やはり分からないところだらけだった。
「キシ…キシ…キシ…」
ゆっくりとこちらへ向かってくる足音が、廊下を伝って私の耳まで届いてきた。
足音で、誰が来たのか分かる。
「お姉ちゃん…。いる…?」
琴だ。
琴は滅多にここを通らないが、時々母と父に見つからないように、私の部屋まで来ることがある。
「お姉ちゃん。その…大丈夫だった?久しぶりの学園。朝、少し元気がないように見えたから…。」
なんだか、胸が温かくなっていくようだった。
朝は不安と緊張で少し元気が出ず、でもそれを誰にも相談できずにいた。だからこうやって琴が心配してくれて、すごく嬉しかった。
「琴ちゃん、私大丈夫だよ。ちょっと緊張したけど、全然、平気!」
「ほんと?」
「うん!琴ちゃんがそうやって心配してくれるだけで、今日の疲れなんて一気に吹き飛ぶもん!」
「そっか!よかった!」
本当に、琴の笑顔が見れただけで、疲れなんて吹き飛ぶようだった。
「お姉ちゃん!絶対、無理しないでね。琴、またお姉ちゃんがいなくなったら、って思ったらすっごく不安なの。だからもう、勝手にいなくならないでね。」
琴の不安が伝わってきて、私はこの子にすごく苦しい思いをさせたんだな、と思った。
今でもよく思い出せないけど、もう琴を泣かせるようなこと、絶対にしたくない。
この子はきっと、誰かを大切に想いすぎるからこそ、傷つきやすい。
そんな琴を、こんな私でも守ってあげられるだろうか?
「琴ちゃん。お姉ちゃんもう、絶対にいなくならないからね。だから琴ちゃんも、絶対どこにも行かないでね。」
「うん!約束!」
「約束ね。」
そう言い、小指を繋ぎ合わせて指切りをした。
琴を守りたい―そう思うと、なんだか強くなれる気がした。
「バタッ!バタバタッ!ガラッ…」
勢いよく扉が開くと、血相を変えた母が入って来た。
「何してるの!?星菜!ちゃんと勉強しなさい!!入院してて遅れた分、取り返さなきゃいけないんだからね!!」
普段より一段と高い母の声は、耳に張り付いて纏わりつくようだ。
「ほら琴ちゃんも、お姉ちゃんの邪魔しないのよ。」
母はいつも、琴に話すときは口調が柔らかくなる。私にはすぐ怒鳴りつけるのだが、琴には優しいのは、琴が家族思いのいい子だからだろうか。
「お母さん、違うの。琴が悪いの。琴がお姉ちゃんの部屋に勝手に入ったの。だからもう、お姉ちゃんを叱らないで。」
私を庇おうと、必死に母に語り掛けてくれる。
「いいのよ琴。お姉ちゃんがちゃんと勉強してないのがいけないんだから。星菜、ちゃんと勉強しなさいよ!」
「うん、ごめんなさい。」
母は琴を連れ、私の部屋から出て行った。
その後、使用人が二人、こっちに来る音がしたから、きっと扉の前で見張られているのだろう。
私は少しだけ肌寒い部屋の中で、また勉強を始めた。