裕との出会い
1、
―星菜―
ほんの2週間で、桜は散り始めていた。
薄ピンクをさらに薄くしたような桜色の中に、少し清々しい若緑が混ざり始めた。
5年2組の教室の窓には鉄格子がはめられていて、桜の木も外の風景も、小さな隙間からしか見えなかった。
琴から聞いたのだが、これは自殺防止のためらしい。窓から飛び降り自殺をするような人が現れないように、鉄格子が設置されているのだとか。
でも、ここまでする必要はあるのだろうか。ここは老人ホームでも病院でもない。私たちもなにも自殺しようなどとは考えないのではないか。
「キーンコーンカーンコーン…」
退院して初めて、ここ「フレミスク学園」に来た。
最初に見た時は、この町で一番大きいのではないかと思うほど立派の門構えだった。でも中に入ると、なんだか何もかも古く、丈夫でないものばかりだった。木の廊下も人が歩くとギシギシと音を立てるし、机や椅子も弱弱しく、体重をかけると折れてしまいそうだった。
そして、この建物を初めて目にした時。
辞書のように文字だらけの記憶が、頭の中から湧き上がって来た。
私はこの場所が、大嫌いだった。
ここ「フレミスク学園」は、学校なのに刑務所のような場所だ。
小学校を卒業後、この町に住んでいたら必ず行かなければならなくて、受けた3分の1程度しか合格できない入試試験に受からず、この学園に通えなければ、この町では差別の対象となってしまう。住む場所も仕事も与えてもらえず、路上で生活をしたり、ホームレスになったりする人もいる。
だからみんな、小学校の頃から、必死に勉強するのだ。
6年制の学校で、朝7時~夕方5時まで。夏休みも冬休みも春休みもなく、祝日や土日も授業。学校行事もなく、国語、数学、英語、社会、理科の5教科以外には、体育と美術くらいしかない。部活動なども一切なく、1年生~6年生までの各教室、保健室、職員室、体育館以外には、教室がない。この学校自体古いから、どの教室も家具もボロボロ。
そして、私がこの学園の制度の中で一番嫌いなもの。
「訂正部屋」制度。
各教科担当の先生の判断によって、授業を真面目に受けていないと判断されると、地下にある「訂正部屋」に閉じ込められるのだ。
遅刻や忘れ物5回、授業を2回休んだり、学校を休んだりしても「訂正部屋」行き。
牢屋みたいな場所で、食事とトイレをすることしか認められない。
「フレミスク学園」は、そんな地獄のような場所だ。
私は本当に、この学園が大嫌いだった。
✾
一限目は「英語」だった。
朝教室に入った時から、クラスメイト全員、死んだような顔で黙り込んでいて、息が詰まりそうだ。
入院していた2週間で、琴はいろんなことを私に教えてくれた。1日に1時間は必ずお見舞いに来てくれ、記憶のない私に今までの色々なことを話してくれた。
もちろん、この学園のことも。
最初に琴から聞いた時は、『学園』だから、もっと自由で穏やかな場所なのだと思っていた。ルールは守りながらも、休み時間は友達と話したり、助け合ったりしているのだと。でもなんだか、想像と全然違っていた。先生も生徒も暗く、休み時間やお昼ご飯を食べる時も勉強をしていたり、難しそうな本を読んでいたり…。
授業中はそんな張り詰めた空気が一層重くなり、私は緊張で口を開くことも出来なかった。
「教科書125ページを開け。」
片言を喋るような指示に、みんなが一斉に教科書を開き始めた。
―ん…?
ページを開いて、違和感を覚える。
―教科書、4年生の頃の持って来ちゃった、かも。
きっと、時間割を確認した時に、間違えて4年生の教科書を入れてしまったのだ。
―どうしよう…。
手汗がひどく、唇が震える。
―先生に報告しなきゃいけない…?でも、この空気の中で…どうやって…?どうしよう…。どうすれば…。
今日はずっと、息が詰まりそうだった。
今までの記憶もなく、知っている人もクラスにいない。知らない場所にポツンと置き去りにされた、不安や緊張、思い出せないことへの焦りや寂しさが全部押し寄せて、重くのしかかってきた。
その上、忘れ物をするなんて…。
確か、5回忘れ物をすれば、「訂正部屋」行きだったはずだ。しかも忘れ物をしたときは、授業前に教科担当の先生に報告しておかなければならない。
どう、しよう…。
「カサ…」
机の上に、何か、白い紙が置かれた。
ノートの切れ端なのだろうか、切れ目がギザギザになっている。きっとノートかメモ帳の端を破ったのだろう。
私は、誰にも見つからないように、二つ折りにされた紙の中を確認してみる。
『俺の教科書使って』
―え…。
「トサッ…」
素早く、机の上に教科書が置かれた。
私は、先生に見つからないようにそっと、置かれた方を盗み見てみた。
ふんわりと犬の毛のように癖のある髪。整った色の白い顔面。垂れ目でも釣り目でもない目を、少し細くさせてその少年は、笑った。
―あっ…。
またふっと、記憶の中から渦巻くように溢れ出てくる。
―秋月 裕
何故か私は、その名前を思い出した時、泣きそうになった。
鼻の奥がツンとして、瞼の裏が熱くなって、視界が霞みがかった。
記憶がない不安や、思い出せない焦りや寂しさ、知らない場所にポツンと置き去りにされた怖さも。
何もかも吹き飛ぶくらい。
この人に会えて、良かった。
って、思った。