―プロローグ―
冬が去り、春の花たちが芽吹き始めた。
星菜の窓際の病室に一番近い桜の木に、一つだけ桜が花開いた。
そんな、春が姿を見せ始めた頃。
目を、覚ました。
私にとって、初めて見た光景だった。
まるで寒い冬から、やっと抜け出した春のように。
私には何も、分からなかった。
「お姉ちゃん!」
そう言って、泣きそうな目で呼びかけてくる、両サイドを三つ編みにした女の子。
この子は、何故泣いているのだろうか?
頭上からは、ピーピーとナースコールの耳障りの悪い音が聞こえる。
「星菜!」
その後ろに寄り添うように立つ、40代くらいのしわの濃くついたおばさんとおじさん。
この人たちも泣いているようだ。
いったい、なぜ…?
―はっ…!
ふっ、と頭の中から記憶が渦巻くように溢れてくる。
この人たち、私の家族だ。
小さな女の子は、妹の「冬野 琴」
老けたおばさんとおじさんは、母と父の「冬野 早百合」と「冬野 翔平」
そして私の名前は、「冬野 星菜」
「星菜!目、覚ましたのね!」
母の目には小さく涙が浮かんでいる。父と妹も、言い表せないくらい嬉しそうな表情だ。
「よかった…!」
でもなんだろう、なにかが、足りない気がする―
―そうだ。私には無い。
「思い出」が。
記憶の中から単語を一つ一つ並べるようにしか、思い出せない。
母と父と妹と、今まで何をして過ごしてきたのか、どんな日常を歩んできたのか、分からない。幼い頃の思い出も、家族で過ごした記憶も全部、思い出せない。
「ガラガラガラァ…」
病室のドアが開き医師が姿を現すと、母と父が急に喋らなくなる。
「おはようございます、冬野さん。」
スラッとした若そうな先生だ。愛想が良くてすぐ人に好かれそう。
でもなんだか、どこか影のあるような雰囲気を醸し出している。
「星菜さんは、一時的な記憶障害を起こしているようです。ですが、普段の生活には支障のない程度です。念のため、2週間は入院することとしましょう。」
『2週間』ってことは、大したことはないのだろうか?それとも結構悪いのかな?
何しろ、私にとっては生まれて初めての世界のようなもので、何が何だかよく分からない。言葉や単語、一般的な知識は頭の中にあっても、何故私はここにいるのか、なぜ記憶障害になったのかもよく分からない。話したこともないような家族と、これからやっていけるのだろうか。
「は、はい…。ありがとうございます。」
何だか、急に母と父が委縮しているように見えた。父は下を向いて黙り込んでいるし、母も怯えた様子に見える。
「冬野さん、そんなに心配することはないですよ?」
「……」
「ですから、そんなに心配なさらないでください、ね?」
「は、はい…。」
医師が病室から出て行くと、母と父も「じゃあね、星菜」と言って、病室から出ていった。
あの若い先生が来てからの母と父の態度がおかしく見えたのは、気のせいなのだろうか。
「記憶障害、って…。じゃあ、私のことも分からないのかな…?」
そう独り言のように呟いた妹の琴。
この子はどんな子なのだろうか。黒いセーラー服に、真っ赤なリボンが付いた制服を着ている。なんだかまだ着せられているような感じがあるから、中学に入って間もないのだろうか。
「ねえお姉ちゃん、私のこと、覚えてる…?」
そうだ、私は、この子のことが大切だった。私のたった一人の妹。
この子の笑った顔が大好きだった。
「琴…ちゃん、だよね…?」
そう言った途端、琴の顔がパッと明るくなる。
「うん!私!琴!」
「知ってる。」
なんだか楽しい。言葉が思い浮かんで、すぐに出てくるのだ。
言葉のキャッチボールってこんな感じだったんだ。
「アハハハ!私、自分の名前をこんなに誇らしく思えたの、初めてかも!」
言った通り誇らしげに、楽しそうに話す琴。
「大袈裟でしょ。」
「うん!大袈裟かも!」
そう言って嬉しそうに笑う琴の笑顔で、電灯が灯ったように嬉しくなった。
なんだか、私がこの子を大切に想っていたのが、納得できる気がする。
「じゃあお姉ちゃん!他には何を覚えてるの?」
でも、あと二人。
私には大切な人がいたのだ。
大切で大切で、その人のためならなんだってできる、って思えるような人。
今は顔も名前も、思い出すことができないけれど―
そして私はもう一つ、大切なことを思い出せていなかった。
一番大切な、何かを―
私は一人、冬に取り残された「桜」ようだった。