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翌朝。昨日、馬車を見つけた場所まで馬車を走らせた私は馬に止まってもらい、御者席から下りた。私が眠らせて、この場に放置した男達の姿は消えていた。私が男達の傍に置いていった金貨も無くなっているところを見ると、きっと三人は金貨を持って森から出ていったのだろう。
男達の姿がないことに安堵した私は、馬車から降りてきた女性に御者席に行くように身振りで伝え、言葉はわからないだろうけどもと、一応ふたりに別れの挨拶を述べた。そして一人、森に戻ろうとしたとき、女性が私に手を差し出し、こう言った。
「大恩ある優しい天使様。私を天使様の妻にしてくださいまし。そして夫婦で新天地に向かって旅立ちましょう」
『へ?!何をいきなり?……あっ。何か思い違いさせるようなことを私がしちゃったのかな?』
どうかお気をつけて、幸せになってねと身振りで伝えたつもりなのだけど、それが結婚を迫っているように見えてしまったのだろうか?女性は命の恩人である私のことを魔物と呼ぶのを躊躇したらしく、どのような考えで、そんな呼び名を思いついたのかは不明だが、今朝起きてから私のことを天使様と呼ぶようになっていた。
それはともかくとして、女性が呼び名の前に大恩あると付け加えて言っているところを見ると、彼女は男達に助けてもらった恩を相当強く感じているから、恐ろしい魔物からの求婚を受け入れることにしたのかもしれない。何という自己犠牲精神だろうか。
『何かを勘違いさせちゃったのなら、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。恩返しは要らないので、どうぞ気兼ねなく、ここから出ていってください』
私は何とかして身振りで、そう伝えようとしたのだけど、彼女は動こうとしない。
「天使様に会うまでの私は、こんな国、早く滅びてしまえばいいと願っておりました。妃教育で城の書庫を訪れた際、偶然見つけた古文書に書かれていた天使様が実在されていると知った時、私は創造神の使徒である天使が全てを喰らい尽くす悪魔となるための贄となれることに喜びさえ感じていた次第です。……ですが天使様は私を贄にはせず、卑劣な男達から助けてくれて、心から安らげる場所とぬくもりのある食事と不安に怯えることもない優しい眠りを恵んでくださいました。私は見返りを求めない無償の愛というものを初めて与えられて、大きく心が揺さぶられ感動したのです」
古文書?使徒?何だ、それ?私はどこにあるのか、わからない首をかしげた。何故なら私はそんな大層なものになった覚えはなかったからだ。あの世に行く途中で神を名乗る存在に会ったけど、何かをやれと言われた覚えもないし、きっと人違い……いや、魔物違いだ。私は違うと言いたくて、触手をブンブンと左右に振ってみせた。
「そうですね。古文書に書かれていたことは間違いでした。天使様は無闇矢鱈と誰彼を襲う邪悪な暴食の神の遣いではありませんでした。貴方様は罪ある者達に更生する好機を与える慈悲深き天使であると同時に、彼らを生まれたままの姿にし、人の欲が生み出した金貨を前にして、今後どうするかを自分達で考えさせ、彼ら自身に己を裁定させるという、厳しき処分を下す天使でもありました。慈愛と理知に富み、冷静に裁定が下せる貴方様が、あの国を見捨てないと裁定されたならば、私は貴方様の意に従いますし、もし貴方様が人のように生活したいと思われているならば、私は私に出来ること全てで貴方様に恩返しをしていきたいと思っているのです」
彼女は私を真っ直ぐに見て、言葉を続ける。
「大恩ある天使様。どうぞ私を妻にして、私の一生涯の間、貴方様にお仕えする許しをいただけないでしょうか?昨夜のように全身を黒ずくめで隠していれば、他の者に貴方様の正体を気づかれるようなことはないでしょうし、交渉事は私がすれば問題はないのですから、一緒に隣国で暮らせるのではないでしょうか。どうしても人の世界で暮らせないなら私も天使様がいる、この森で暮らす許しをくださいまし。それが叶えられないなら、どうか私を貴方様の糧にしてください……」
もしも私が難儀で極悪厄介な性質を持っていないウニョンウニョンだったのなら、女性を妻にするのは別として、彼女の申し出に飛びついていたかもしれない。何故なら本当は死ぬのは怖いし、転生しても独りぼっちのままなのは、やっぱり寂しかったから……。だから自己犠牲精神の塊のような彼女からの申し出は、私にとって物凄く魅力的で有り難いものでしかなかった。
だけど今の私は難儀で極悪厄介な性質を持つウニョンウニョンなのだ。哀しいけれど私は彼女達とは一緒に行けないし、共に生きることも出来ない。
それにしても彼女は婚約者の王子に裏切られて自暴自棄になって、こんな申し出をしているのではないだろうか?それとも心が傷つきすぎて極端な人間不信に陥ってしまったのかもしれない。どちらの理由にしろ、こんな凶悪な見た目の触手に自ら近寄って我が身を捧げようとするなんて尋常な思考ではないと思う。
こんなことを口にしてしまうほどに女性の精神は疲弊しきっているのかもしれない。気の毒に。でも恩返しが妻になることだなんて、ちょっとどうかと私は思う。ましてや糧にだなんて冗談じゃない。そんなことをしてほしくて助けたわけではないのだ。
『あのね。本当に私は恩返しなんて要らないの。あなたは早く旅立たないと追手が来るかもしれないのだから、直ぐに出発しなきゃ。それとね、これからもそんな理由で誰かの妻になろうとしちゃ駄目だよ。そういうのは本当に相思相愛になった相手とするものだよ。もっと自分を大事にしてね』
私はそう言って必死になって女性を馬車に乗せようとするのだけど、女性は馬車に乗ろうとせずに、私にしなだれかかってきた。おかしい、何でこんなことになってしまっているんだろう?早く出発しないと困るのは私だけではないと思うのだけど。
女性をどう説得すればいいのかと困り果てた私は彼女から身を離し、距離を取ると馬の傍に回り込んだ。そこから触手を出し、別れの挨拶で手を振るように触手を振ってみせた。しかし私の意志は彼女には少ししか伝わらなかった。
「もしかして恩返しなんて要らないとおっしゃっているの?……ああっ。何と奥ゆかしくて、お優しい御方なのでしょう!私が今までに見知った者達とは、まるで違うわ。彼らは見た目だけは美しいけれど、中身は傲慢で意地汚くて心根が醜くかった。でも天使様は見かけは恐ろしいのに、その御心は清純無垢でいらっしゃるのね。……何だか私、貴方様のお姿の方が彼らよりも素敵に見えてきましたわ」
ウットリとした表情で私を見つめながら彼女が口に出した言葉に、私はどこにあるのかわからない目を見開いた。何故なら女性の旅での着替えを一着でも増やしたほうがいいのではないかと考えた私は、皆が寝静まった後に、着ていた服を脱いで荷物の中に畳んで入れておいたので、今は裸ん坊のウニョンウニョン状態となっていたからだ。
『ええっ!?今の私は人間の服を脱いで、どこからどう見てもウニョンウニョン100%の姿なのよ?ちょっとあなた、大丈夫?ひょっとして心労で目に負荷がかかってしまって、きちんと見えていないの?それとも辛いことを体験しすぎて心が現実を受け入れられなくなってしまったの?大変、早くお医者様に診てもらわないと。とにかく気を確かに持って、早くここから出て病院に行ってね!』
私は近寄ってきた彼女の額を触って熱がないかを確かめ、手首を掴んで脈拍を測った。幸い彼女に熱はなかったし、脈も正常だった。それでも彼女の突飛な発言は、もしかしたら心身に異常が出る前の異変である可能性が高いように思えてきた。
私が早く馬車に乗せなければと女性の体を馬車の方に押し出そうとしていると、水浴び後から妙に懐いてくるようになった馬が私を甘噛みしだして、女性ではなく自分を構えと甘えてきた。今はそれどころではないけれど嬉しい。私は女性を押し出している触手とは違う、別の触手で馬を撫でた。
『よしよし。昨日は良く眠れた?今日はいっぱい走れそう?』
「ヒヒ〜ン!」
『元気そうで良かった。あのね、昨日お願いしたことを覚えている?……うん、その顔つきは大丈夫そうね。じゃ、合図したら、昨日お願いした通りに走ってくれる?』
「ヒヒン!ヒヒ〜ン!」
『ありがとう。あなたは本当に賢くて頼りになる馬だね』
「まぁ!臆病な質である馬も天使様にはスッカリと懐いていますのね。動物に好かれる者に悪人はいないと言いますもの。この馬も天使様がお優しい御方だと見抜いて、お慕いしているのですわね」
私と馬のやり取りを女性が赤らめた頬に手を当て、微笑ましそうに見ていると思ったら、暫くして女性が急に馬に喧嘩を売りはじめた。
「何だか私も天使様にナデナデしてもらいたくなってきましたわ。馬だけナデナデされるなんて狡いですわ。……ちょっと、そこのお馬さん?あなた、天使様に懐き過ぎではなくて?あなたは馬であって犬ではないのでしょう。いい加減に離れなさい!天使様は私の唯一のご主人様になる御方なのよ!」
「フッヒヒン!ヒヒッヒヒヒヒン、ヒン、ヒンヒヒン!」
「まぁ、この私とやり合うつもりなのね。上等だわ。どちらが天使様により相応しいか、正々堂々といざ勝負!」
『そんな勝負必要ありません!時間がないんです!ふたり共、早く森から出ていってください!』
睨み合う女性と馬に森を出るようにと促すも、どちらも動こうとしない。私はいがみ合うふたりを前にして、どこにあるかわからない頭を抱えたくなったが、そんな悠長なことをしている時間は私にも彼女達にも、もうなかった。
……予想した通りだ。他の人間達の気配が迫ってくる。
やっぱり、どこまでも私の望みは叶わないようになっているらしい。私は恐ろしい見た目なだけの森の愉快な魔物になることを諦めた。今すぐにふたりに逃げ出してもらうために、私は恐ろしい魔物になることにしよう。私のどこにあるか、わからない眉間にシワを寄せ、出来るだけ怖い顔をして……いや、顔もどこにあるか最後までわからなかったが……、ふたり目掛けて触手を伸ばした。
ビュンビュンという風を切る音が聞こえ、ドスッ!ビスッ!と、いう衝撃音がしたかと思ったら、ふたりに伸ばした触手に矢が射ち込まれていた。痛た……脊髄に麻酔を打たれたときよりも鋭い痛みが二回も襲ってきた。でも急所は外しているらしく、動くのには困らない。今の状況を把握したいから、ジッと動かずに様子をみることにする。
「天使様!」
「ヒンヒッ!」
「公爵様!魔物がいます!令嬢に向けたはずの矢に魔物が刺さっております!」
「……動きませんね。どうやら魔物は死んだようです」
焦ったような女性の声と馬の声が聞こえた後、知らない誰かの声が聞こえた。いつの間にか私達は大勢の兵士に取り囲まれている。公爵様……?もしかして女性の家族が王子の悪行を知って彼女を助けに来たのかな。それならこのまま恐ろしい魔物として彼らに討伐された方が良いのかも。でも、それにしては彼らの言動が少しおかしいような気がする。
「そんな……。天使様が死んでしまったなんて……」
「ヒン……ヒ〜ン……」
こんな恐ろしい魔物の死をふたりは悲しんでくれるんだね。なんて優しいんだろう。安心してと言いたいがあいにく言葉は通じないし、私は今、死んだふり真っ最中だ。なので心の中だけで、私はふたりを絶対に助けてみせるからねと新たに誓いを胸に刻んだ。……相変わらず、どこに胸があるかは謎だけど。




