※捨てられた公爵令嬢は心優しき天使の騎士になりたい(後編)
ファムが天使様と初めて会った日。ファムは襲いかかる男達から救い出してくれた天使様の腕の中……数え切れないほどある触手の中でどれが腕なのかは自身が触手を持つ身になっても未だに不明だが……で気を失ったが、それは突然現れた魔物に恐怖したからではなかった。何故ならあのときのファムは自分を虐げた人々に復讐するために自身が悪魔になることを切望していたからだ。
ファムは王家の親戚筋にあたる公爵家に生まれついたが、母は物心付く前に病で儚くなり、婿養子だった父は母の喪が開けた途端、愛人と彼女との子である義兄を公爵家に迎え入れ、新しく出来た家族と一緒になって娘を疎んだから、ファムは家族の愛情を知らずに育った。
王は王子以外に王家の血を引く者がファムしかいないことを理由にファムを王子の婚約者に定めたが、ファム個人には興味がなかったし、王妃は溺愛する息子の将来の嫁が誰であっても気に入らなかった。そして王子は自分の怠惰を棚に上げ、妃教育を真面目に受けるファムを毛嫌いした。
学園に入ってからも王子は妃教育を真摯に学び続けて優秀になったファムを遠ざけ、評判の悪い男爵令嬢を恋人にして傍に置き、自分の取り巻きの貴族令息達にファムの悪口を生徒達に吹聴させて徹底的に皆が嫌うように仕組んだせいで、ファムは学園時代もずっと孤独なままだった。
それだけでもファムが人を嫌うようになるには十分過ぎる理由であったが、ファムが人を憎むようになったのは、結婚式の日に城でファムが王子に薬を盛られ、馬番の男達がファムを白昼堂々と攫ったというのに、誰もが王子に歯向かって罰を受けるのは御免とばかりに見て見ぬふりをして、助けようとはしてくれなかったからだ。
誰一人として王子の暴挙を止めようとする者がいなかったことでファムは人間に失望し、たとえ己の魂を悪魔に捧げることになっても必ずや自分を虐げた者達に報復しようと心に決めていた。
そんな経緯があったからファムは森で男達に襲われかけたときに現れた魔物を見て、悪魔が自分と取引をするために来てくれたのだ……このときのファムは男達に襲われるくらいなら魔物に喰われたほうがよいとすら思っていた……と安堵のあまり気を失ったのだが、まさか、その魔物が男達から助け出してくれるだなんて思いもしなかった。
ましてや見るからに恐ろしい姿の魔物が、男達から奪ったらしい黒い衣装に体を押し込み、目を覚ましたファムを怖がらせまいとの気遣いを見せてくれたり、己の弱点が火であるにもかかわらず火を熾し、ファムに温かい料理を振る舞って労ってくれるだなんて一体誰が思うだろうか。
金で雇われている使用人とは違い、魔物がファムに親切にする理由なんて一つもないのに、魔物はずっとファムに優しかった。ファムが今後困らぬようにと思ってか、食器の洗い方や馬車の荷物と一緒に座席に隠されていた金貨の所在を身振りで教えてくれて、最後にはファムのドレスに縫い付けられていた宝石を惜しんでやってきたらしい父からファムを守るために自分の命と引換えにファムを逃してくれたのだ。
生まれて初めて慈しみを与えてくれた魔物をファムは天使だと信じ、心酔した。命がけでファムを助けてくれた天使様のために人でないものに天使様が人間であったことへの戸惑いことにも一切躊躇しなかったが、天使様の正体が実は人間の女の子だったと知って内心大きく戸惑った。
神となったファムは同じく神となった馬と一緒に天使様の世界に来た当初は、天使様の命を救った後は速やかに元の世界に帰るつもりであった。と、いうのも、元の世界の神となったばかりの身では天使様の世界にいつまでも留まり続けることが不可能だったのもあるが、一番の理由はファムが天使様に嫌われることを怖れたからだ。
ファムは自分が人間に戻った天使様を嫌う心配は全くしていなかったが、自身が元の世界の人間達に疎まれていた経験から人間に戻った天使様にも嫌われるに違いないと思い込んでいたのだ。しかし無事に手術を成功させ、後のことは天使様の元々の担当医だった医師に任せても問題無しとなった段階で予想外のことが起きた。
なんと手術後に目覚めた天使様にはファム達の変化の魔法が通じていなかったのだ。しかもふたりが配下に魔改造した人間達にいたっては何故か触手の魔物に見えているようだった。配下にした人間達を不思議そうに見ている天使様をそのままにして帰ることは出来ず、一旦帰るのを中止して様子を見ることにしたふたりは、折角数日いるのならと天使様自身のことを深く知りたいと考えた。
配下達を使って調べたところ、天使様は富豪の家に生まれ、容姿にも恵まれていたが不治の病に侵されていて、物心付く前から病故に食べたい物も自由には食べられず、行きたいところにも行けず、やりたいことも出来ず、入退院を繰り返していたということであった。
天使様は裕福であってもファムと同じで家族には恵まれず、更には華奢で儚げな容姿や大企業の社長令嬢という身分や、病を抱えていることに対する特別な配慮を周囲の人間達から受けていること等などに対して嫉妬した一部の者達によって、ファムや馬のように理不尽なイジメに遭っていたようだ。
勿論、それは一部の人間に過ぎず、大部分の人間は天使様に好意的で、中には純粋に慕う者達も多々いたようだが、天使様が不治の病で先が長くない命だと知ると、まるで王子を怖れて誰もファムを助けなかったように、大事な相手を失って悲しむことになる自分を憂いて誰も天使様に想いを告げようとする者はいなかったらしい。
天使様自身は長く生きられない自分の病や、娘を顧みない親やイジメを行う者達に対して深く傷ついていたが、ファムのように復讐しようとは思わず、自分はおぼろ豆腐メンタルだから自分が他人にされて嫌なことを自分が他人にするのが精神的に耐えられないからしないのだと考え、自分をないがしろにした者達と自分は違うのだという姿勢を貫くことで無意識に己の矜持を守っていたのだろう。
天使様は手術が成功して今後も自分は生きられるのだと知って、命が助かった喜びよりも、これからも孤独な人生を歩むのかと怯え、今後どう生きればいいのかわからないと幼少の頃からの顔馴染であった看護師長に不安を吐露していたということだった。配下からの報告を聞き終えたふたりは、自分達と似た境遇で育った天使様に親近感をより深め、自分達以上に辛かっただろう天使様に涙し、天使様を傷つけた者達に許しがたい怒りを感じた。
既に魔改造して配下に変えていた天使様の両親には、生涯に渡って全身全霊をかけて天使様に償うよう厳命し、天使様をイジメた者達に関しては、天使様がファムを攫った男達の身ぐるみを剥いでから金貨一枚分だけの情けをかけて追い払ったことを思い出し、同じように取り計らった後に遠方に追いやるよう天使様の親に命じておいた。
ファムは天使様のことを深く知ったことで、天使様が人間であったことへの戸惑いが綺麗さっぱり消え失せた。それに人間の女の子に戻った天使様がファムの世界の人間達のようにファムを嫌うことはなかったものだから、ファムは歓喜し、やはり天使様は特別な人間なのだと思った。
更には天使様が命の恩人だと深く感謝してくれたり、親切で優しいお医者様だと敬ってくれたり、天使様を巡ってのファムと馬との小競り合いを見ては仲良しなのですねと笑ってくれたり、医師として振る舞っているファム達を見て自分も人の役に立つ人間になりたいと憧れてくれたことで、ずっと孤独の闇に押しつぶされそうになっていたファムの心に明かりが灯った。
それらは皆、ファムが人間だった頃に喉から手が出るほどに欲しいと渇望していた、人との温かい触れ合いの数々だったから、ファムは心の飢えを全て満たしてくれた天使様を愛さないではいられなくなってしまった。天使様と離れることが耐え難くなってしまったファムは、何の力もない人間の女の子である天使様の唯一の騎士になって、この世界でもファム達の世界でも変わらず天使様を守り続け、天使様を幸せにしたいと強く願った。
神となったファムと魂を同じくする馬もファムの願いに同調した結果、天使様の世界に留まることが出来ないファム達が天使様を守るために配下を増やすことに歯止めがかからなくなってしまったが、天使様をイジメた者達を一人残らず突き止めて報いを受けさせることが出来たし、健康体になった天使様がどこの国でも行けるように配下を世界中の国々に配置し、天使様が生きている間は戦争を起こさないように命じておけたのでファム達は大変満足していた。
おまけに自分達の世界が天使様の世界にある乙女ゲームが現実化した世界であることや、ざまぁと呼ばれる復讐方法があることや、別世界の神のことや男爵令嬢の正体も偶然知ることが出来たし、天使様が食べたがっていたお菓子や行きたがっていた外国のお城や娯楽施設や憧れているファンタジー等などの天使様が好む諸々の情報を配下を通じて全て得ることが出来たから、ファムは元の世界に戻った後にそれらの情報を有効活用して、転生してきた天使様が喜んでくれる世界に作り変えるために女王になることにしたのだ。
「ファム。小屋の解体が終わったよ」
過去を思い出していたファムは馬に声をかけられて我に返った。いつのまにか小屋は片付けられていて、ただの草原が目の前に広がっている。
「ありがとう。皆、お掃除ご苦労さま。今日はこれで撤収してください。ここは来年の5月にコメット様が新入生のオリエンテーションで訪れるキャンプ場にするつもりですので、明日は休養し明後日から整地を始めて下さい」
ここは『闇夜の紳士は心優しき清らか乙女の騎士になりたい』……"ダークナイト”が現実化した世界ではあるが、既に天使様はゲームとは関係のない経緯で神となった悪役令嬢のファムを攻略している。そしてゲームの経験も前世の記憶もないものの、善良でお人好しで、そして自称おぼろ豆腐メンタルな性格のまま転生した天使様は、"ダークナイト”のヒロイン以上にヒロインらしい性格の持ち主であった。
それによって6名の攻略対象者の誰をも被害者にも加害者にもしなかった天使様は彼らの心もガッチリ捕まえてしまっていたから、後は入学式で司書の青年が扮する王子とファムが扮する公爵令嬢に出会えば、天使様を正規のヒロインに据えて『闇夜の紳士は心優しき清らか乙女の騎士になりたい』を……いや、普通の乙女ゲームをスタートさせることが出来る。
学園に入学した天使様がファムを選んでくれたら物凄く嬉しいが、"ダークナイト”の登場人物の他の誰かを選んで結ばれてもいいし、"ダークナイト”とは全く関係のない別の誰かを選んで結ばれてもいい。だってファム達の世界では、天使様以外の者達は全てファム達の分身である触手が埋め込まれているから、誰を選んでも天使様はファム達を選んだことになり、死後は神の世界で永遠にファム達と幸せに暮らすハッピーエンドを迎えることになるのだから。
無論、天使様が誰を選ばなくともファム達が天使様の側にいることは変わりなく、天使様の死後も神の世界で永遠に一緒にいることはファム達の中では決定事項なのだけれども……。
「ウフフ……。あの日のお返しに今度は私が手ずから作った焼きリンゴを天使様に食べてもらいたいですわね。これからもお料理の特訓を頑張らねば!」
両の手で握りこぶしを作って意気込むファムに、やや呆れながら馬が言った。
「特訓はいいけどご主人様の前で触手を使って料理をするのは駄目だからね、ファム。ご主人様にはまだ触手の存在は伏せているんだから」
「そんなことはわかってますわ。きちんと人間の手でもリンゴが切れるようにしてみせますとも」
"ダークナイト”ではヒロインが神の存在を知るのは王子ルートを選んで学園を卒業した後だった。ファム達の世界が『闇夜の紳士は心優しき清らか乙女の騎士になりたい』が現実化した世界であることから、天使様と神となった自分達がつつがなく結ばれるよう、ファムは国民皆に触手の存在を天使様には秘匿するよう命じていた。
「きっと美味しく作れるように頑張りますから待っていてくださいね、天使様」
ファムは意識を王都の宿屋に向ける。闇夜で目が効く梟の瞳を通し、コメットが泊まっている部屋の窓を見つめる。因みに部屋の中も見ようと思えば見えるけれども敢えて見ない。だって自分がされて嫌なことをして嫌われたくはないからだ。
「ああ、入学式が待ち遠しいですわ。お泊りキャンプでは同じ班になって手料理を食べてもらって、夜はお喋りを楽しんで天使様にズッ友と呼ばれる存在になり、その暁には交換日記をする間柄に……キャ〜!嬉し恥ずかしですわ!」
コメットとのオリエンテーションでのアレコレを空想し、頬を染めて一人身悶えだしたファムを見て、馬はこの女の暴走からご主人様を救い出せるのは昔も今も自分だけだなと肩を竦ませた。
【完】
※これでこの物語は終わりです。最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。