※馬は運命を変えてくれた箒星の少女に永遠の忠誠を誓う(後編)
ご主人様の黒い触手部分の肉片が川辺に一つだけ落ちていた。近寄ってみれば、肉片は全体的に煤けていて焦げ臭く、本当なら触手は馬の尾よりも長かったはずなのに、そこに落ちているものは、その半分にも満たない長さだった。
『触手の先が焼き爛れている……。人間達はご主人様に火を使った?どうして……?どうして火が弱点だと人間達にバレたの?』
馬はいつも一番先に魔物に喰われるから、どのように魔物が世界を滅亡させているのかを知らないが、何度も一生が繰り返されていることから見ても、人間達が魔物に打ち勝ったことは只の一度もないはずだ。それなのに、一体どうやって人間達はご主人様の弱点を知ったのだろうか?
『ここに来るまで人間の血は一滴も落ちていなかったけど、ご主人様の血は至るところに落ちていた。つまり、ご主人様は無抵抗だった……。どうして?何故、抵抗しなかったんだろう?それに、わざと人間達を自分の弱点である焚き火の元へ一直線に誘導したのは、どうして?……一体、何のために?』
ご主人様との戦闘の途中で偶然、人間がご主人様の弱点を知ったのかとも考えられるが、一昨日、男達に襲われた女を助け出すときに見せた、ご主人様の優れた身体能力を思えば人間が束になっても、ご主人様に勝てるわけがない。
あの場で勝負は瞬間で着くはずだから、わざわざ場所を川辺に移して、ご主人様の弱点が火だと人間が気付く展開になど、なろうはずもないのだ。……ご主人様が自ら、そう仕向けなければ。
馬が疑問に思っていると、馬の後から遅れて走ってきた女が川辺に落ちていた肉片を見つけ、その前で崩折れて泣き始めた。
「私のせいで天使様が……!ごめんなさい、天使様!ごめんなさい……」
馬は呆然として立ち尽くしていたが、あることに気が付き、黒い肉片を口に含んで飲み込んだ。
「っ!?何をっ!?」
顔を青ざめさせた女が咄嗟に肉片を掴んだことで肉片は千切れ、馬はほんの一口分だけしか肉片を飲み込めなかった。女の手元に残った肉片も飲み込もうとした馬に、女は抜刀し、馬に剣先を突きつけた。
「馬よ!気でも狂ったかっ!お前が喰らったのはお前と私を命がけで守ってくださった天使様の亡骸なのよ!」
言葉が通じないことも忘れ、馬は女に向かって叫んだ。
「ヒン!……そんなことはわかってる!私がご主人様を食べるわけがないでしょ!それにご主人様はまだ死んでないんだから!」
「えっ!?」
肉片の中に消えていきそうな魂を感じ取っていた馬は、目を大きく見開いて驚く女に構わず、泣きながら体内に入れた肉片に向けて必死に話しかけた。
「お願い、ご主人様!早く私の血を吸って!ご主人様は触手を突っ込んで体の中から生き血を吸うのでしょ!ご主人様になら喜んで血だって何だってあげるから!私、ご主人様に頼まれた事、ちゃんとやり遂げたんだよ!偉いねって褒めて。ご主人様、どうか死なないで。お願いだから私を食べてよ……」
邪神の血肉で作られた肉片を飲み込んだことで、人の言葉を話せるようになっていることに気が付いていない馬に女が問うた。
「どういうことですの!?もしかして、これを飲み込んだら私の身の内で天使様は蘇るのですか!?」
馬が女に答えようとしたときだった。何の前触れなしに目の前の景色がグンニャリと歪んだ一瞬後、ご主人様そっくりの姿の邪神が現れたのだ。
「天使様?」
突如現れた邪神をご主人様と勘違いして歩み寄ろうとした女を馬は慌てて引き寄せた。
「違う!あれは邪神よ!今度もご主人様を妻に出来なかったから、また世界を飲み込んで、最初からやり直しするつもりなんだ!」
「やり直し?」
「そうよ!この世界は邪神によって繰り返されてるの!私達は邪神のせいで、何度も同じ一生を繰り返しているのよ!!」
姿かたちはご主人様と同じであれど、大きさはご主人様よりも何倍も大きく、禍々しさは桁違いな邪神が触手を蠢かせながら耳障りな声を発した。
《いつまで経っても生き物の死の匂いも、断末魔の声も聞こえてこないと思ったら、オレの妻はどこにいってしまったんだ?好ましい少女の魂を見つけたから妻に丁度良いと思ったのが、どうやら自分がされて嫌なことはしたくないと本能に抗って誰も喰らわなかったようだな。仕方ない。また妻の肉を喰らって世界を飲み込み、新しい器を作ろう。何回か繰り返せば、嫌でも喰うようになるだろう。さて、妻の肉はどこに落ちているんだ?》
既にいくつもの輪廻を体験したことで神の力の一部が自分の魂と融合している馬は、今回初めて邪神の肉片の一部を飲み込んだことで、邪神が異世界の少女の魂を攫って魔物の体に入れて、この世界に誕生させたことを知った。
「ご主人様は異世界の女の子だったんだ。……そうか、あのときの箒星だ!ご主人様の魂の輝きが彗星に見えたんだ!それにしても邪神は何という酷いことをしたんだろう。自分が創造した世界の生き物ならともかく、異世界の神が創造した世界の生きている人間の魂を攫うのは神の世界ではご法度のはずなのに……」
その知識が邪神が喰らった神によるものだと気づかないままの馬がそう呟くと、邪神のどこにあるかわからない目が馬を睨めつけた。
《妻の匂いがするぞ。そうか。愚かにも神の妻を喰らうとはな。万死に値する。喰らい返して妻を返してもらうことにしよう》
絶対的存在である邪神に睨みつけられた馬は生理的恐怖を感じて全身から汗が出て、口から泡を吹き出してきた。しかし負けじと踏ん張り、邪神に会ったら是非とも言いたかったことを言ってやった。
「フン!いつもいつも魔物に夫と思ってもらえない癖に偉そうに言うな!異世界の女の子の魂を無理やり攫う誘拐犯のお前なんか、痴漢、アカン、絶対!を訴えるご主人様が好きになるはずがない!大体、妻となる魔物を生み出しただけで、その後は何も手助けしない相手を夫と思える者なんて、どこの世界にもいないんだから、いい加減に妻を持つのは諦めて、世界を繰り返すのは止めろ!」
《何故それを知っている!?お前は何者なんだ!》
邪神は逆上し、黒い触手を一斉に馬に伸ばす。その動きはご主人様よりも早く、馬の身では到底立ち向かうことは出来ないことはわかりきったことだったが馬に後悔はなかった。
邪神によって攫われた少女であるご主人様が無理やり邪神の妻にさせられることが許せない馬は、この後、何度苦しい死が繰り返されようとも、ご主人様が邪神の妻にならないように毎回、必ず阻止し続けようと心に決め、自らの死を覚悟して、目を閉じた。
《グギャギャギャギャギャギャー!》
突然、耳をつんざくような絶叫が聞こえた。
《火が火が火が火が火が火がー!!》
馬が恐る恐る目を開けると、馬の体は後ろから伸びる触手によって守られ、馬の目の前にいる邪神は炎に包まれ、のたうち回り、もんどり打っているのが見えた。
《グガッ〜!溶ける!溶けてしまうっ!何なんだ!?何故、オレの弱点が火だと知っているんだ、人間!それに、その姿は何だっ!?なんでオレの触手を人間のお前が持っているんだー!》
邪神の言葉を聞いた馬は、即座に後ろを振り返った。馬の後ろにいたのは女だった。人であるはずの女は背中から、ご主人様と同じ触手を生やし、ウニョンウニョンと蠢く触手の先には火がついた枝が何本も握られていた。
「私の天使様を奪おうとする輩に説明してやる義理なんてありませんわ!」
そう言って女が邪神の全てを火で焼き尽くす勢いで火を投げ入れ続けたので、馬は慌てて言った。
「待って!全部焼く前に邪神の身を私に頂戴!」
邪神が消滅したら、この世界も消滅する。そうしたら、もう二度と同じ一生を繰り返すことはないが、それでは邪神に攫われて邪神の血肉で作られた魔物の体に入れられていた少女の魂は助からない。少女を助けるには神が必要なのだ。
「いいの?」
何が、と女は言わなかった。
「いいに決まってる!」
馬が一瞬の逡巡もなく即答すると、女は一度頷き、手にしていた剣で火に完全に包まれ焼け溶けそうな邪神の触手の先を斬り、返す刃先でもう一度触手を振るい斬った。馬は急いで駆けより、落ちた触手の先を飲み込み、顔を上げた。そこには馬と同じように斬った邪神の身を飲み込んだ女が、邪神に止めを刺していた。
「いいの?」
何が、と馬も言わなかった。
「当然!さぁ、私達の天使様を助けに行くわよ。さっさと連れていきなさい」
邪神は火によって消滅した。邪神の肉片を喰らったふたりは、邪神が完全に燃えて消滅した時点で、ふたりでひとつの神となり、互いの心が手に取るようにわかるようになっていた。
「正直にご主人様のいた世界がどこなのかわからないから、ご主人様の匂いを辿って連れて行って下さいとお願いすればいいのに。素直じゃないんだから」
馬はブルルッと身震いし、その背中から触手を生やすと女を掴み、自分の背に跨がらせた。馬に乗った女は手を前に突き出した。すると、ふたりの目の前の景色がグンニャリと歪んだ。
「もう少しだけ頑張って下さいね、ご主人様」
「絶対に助けますからね、天使様」
ふたりはご主人様の魂に話しかけ、ご主人様がいた世界を探すために歪んだ空間に飛び込んでいった。
「……う〜ん。そういや、ご主人様は鋭いだけでなく、邪神が魔物に与えた暴食や他者を魔改造にする本能を完全に抑え込めるほどの強い意志の力を持っておられる人だったからなぁ。もしかしたら神の魔法はご主人様には通じないのかも」
馬が、ご主人様の世界に来るまでのことを思い出して、そう言うと公爵令嬢は心配はいらないと言ってきた。
「確かにご主人様が元の世界に戻ってきた直後は、邪神によって魂を魔物の体に入れられていた影響のせいなのか、魔法が効かず、私達の本当の姿が見えて戸惑われていたようだけれども、一日経った後は私達や私達が配下にした人間のことも、キチンと人間に見えておられたようだし、大丈夫だと思うわ」
「……うん、そうだよね。大丈夫だよね」
馬が安堵していると、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきて、それを聞いた公爵令嬢が言った。
「それにしても先程は危なかったですわね。まさか暴走車が来るなんて……想定外でしたわ。元々、ご主人様はあの手術で亡くなって、私達のいた世界とは別の世界に転生する運命だったのを、邪神が横から攫い、私達がご主人様を助けるために死ぬ寸前だったご主人様の魂に神の力を注ぎ続けたことで、主人様の死は回避出来たと思ったのですが……。私達の留守の間の警護をもっと増やしておくべきかもしれませんわね」
ご主人様を心配する公爵令嬢の言葉に馬も同意した。
「その方がいいだろうね。ご主人様の運命が変わって、私達とご主人様の間に絆が生まれ、ご主人様の転生先は私達の世界に一応は固定されたけれど、本来の転生先だった異世界の神がご主人様を諦めるとも思えないから、増やしておいた方が安心出来るね」
神となってから知ったことだが、清らかな魂は総じて神に好かれやすく、寿命を終えて転生することになった際には色んな世界の神から引く手数多になるらしい。その中でも自分の利には無頓着だが他者を助けるためなら自身の身命を賭けてしまうような気概がある清らかな魂は特に人気が高く、大昔には魂が天寿を全うするのが待てず、強引に生を終わらせ、無理やり自分達の世界に転生させようとする神もいたらしい。
現在は清らかな魂が天寿を全うするまで手出しせずに待つという取り決めが神々の間にあるらしいのだが、邪神のような例もあるから油断はしないほうが賢明だろう。幸い、ふたりの触手は邪神のものよりも優秀で、魔改造して配下となった者の体に自分達の触手を植え付けることが出来た。
だからご主人様と離れ離れになっても、ふたりは配下を通じて、ご主人様のことを全て把握出来るし、ご主人様を守るために必要だとふたりが判断した場合、触手を植え付けた配下を使って、その都度、配下の周囲にいる者達を魔改造して配下にすることも可能だった。
ふたりは自分達が配下にした人間達に、ご主人様の警護をするための人員を増やすよう命じた後、変身を解いた。ご主人様の世界に来たときと同じように公爵令嬢を背に乗せた馬は、彼女に言った。
「さぁ、さっさと行って、さっさとご主人様のところへ戻ってこよう」
「その気持ちはよくわかりますが、何と言っても、ご主人様が天寿を全うされた後に転生されてこられるのですからね。転生して良かったとご主人様に心から思っていただけるような素敵な世界にしなくては。特にゴミクズ共への復讐……コホン、失礼。特にお掃除は念入りにせねば」
公爵令嬢は落ち着いた口調で話しているが、その後ろにある触手は、彼女が内に秘めている怒りに連動しているのか、激しい動きで蠢き出した。
「うわっ!?危ない!王子達にムカついているのはわかるけど、そこで暴れると落ちるわよ。それにしてもお掃除……ね。綺麗好きなご主人様に仕える私達にピッタリの言い回しだね」
ふたりのご主人様は魔物であったときも川で体を洗ったり、衣服や食器を洗ったりしていたから、綺麗好きなのは確かだろう。馬が褒めると公爵令嬢はニコリと笑い、手を前に突き出し、空間を歪ませた。
「そう言ってもらえると光栄だわ。向こうについたら私は直ぐにお掃除に取り掛からせてもらうから、あなたも、そのつもりで手を貸してくださいな」
公爵令嬢が掃除しようと思っている相手は、馬の敵でもあり、何よりもご主人様に刃を向けた者達の雇い主でもある。手を貸さないなどと馬が考えるはずもない。
「勿論。ご主人様に気に入ってもらえるように、しっかりお掃除を手伝うわ」
馬は自分の触手を出し、公爵令嬢が落ちないように固定してから地面を蹴り飛び込むと、自分達の世界に向かって駆け出していった。
【完】
※馬視点はこれで終わります。