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本編はこれで完結です。
手術翌日の早朝。病院のベッドの上で目を覚ました私は、自分が人間の姿で鏡に映っていることに悲鳴を上げ、駆けつけた看護師さんがウニョンウニョンでなかったことにパニックを起こし、慌ててやってきた主治医の先生達の顔を見て気絶するという、とても失礼で傍迷惑な大失態を起こしてしまった。
私が落ち着きを取り戻した後、先生や看護師さん達から手術の成功の話を聞かされた私は、早朝に騒いだことを侘び、自分が死んでいなかったことに大きく安堵し、そして何とも奇抜な夢を見たものだと我が事ながら凄く驚いてしまった。
生死の境に立たされた人の話なら、いくつか読んだことがあったが、それらは三途の川を見たとか、お花畑にいたとか、昔に亡くなった自分の近親者が出てきたと書かれていたように記憶していたけれど、自分がウニョンウニョンになっていたなんて話は読んだことも聞いたこともなかったから、どうしてあんな変な夢を見たんだろうと、それがとても不思議だった。
だけど術後の内視鏡検査で使用されるカメラのチューブを見て、それが夢に出てきたウニョンウニョンの触手の色と質感に似ていることに気が付いた私は昔、年配の家政婦さんが、人が夢を見るのは自分の体が起きているときに自分が見聞きしたものの記憶整理を眠っている間に脳がしているからだと教えてくれたことを思い出した。
なるほど。そうであるならば、夢の中のウニョンウニョンが、私がよく病院で見かける内視鏡カメラのチューブにそっくりなのも説明がいくし、ファム先生や馬先生に似た人達……馬先生は馬だったけども……が、夢に出てきていたのも、それが理由だと納得できると思った私は疑問が解消されて、スッキリとした気持ちになれた。
ファム先生と馬先生のふたりは私が入院している病院の専属の医師ではなく、内視鏡を使った手術を得意とするフリーランスの医師として、世界中を飛び回って活躍しているお医者様コンビなのだという。ふたりともどんなに細い血管でも一発で注射針を挿れることが出来、チューブやカテーテルをまるで自分の体の一部であるかのように自在に操ることが出来るのだと評判の名医らしい。
実際、私も自分の人生の中で初めて痛くない注射や内視鏡検査を受けたときは感動し、ふたりに感謝していたから、それが回り回って、あんな変な夢を手術中に見ることになったのかもしれないなと思った。
病院を退院する日。主治医の先生ふたりともが病院の玄関を出たところまで私を見送ってくれて、私にヘリオトロープとカスミソウで作った花束をくれた。
「退院おめでとう」
「ありがとうございます。先生方や看護師さん達、病院の皆さんのお陰で、こうして退院することが出来ました」
「いえいえ。あなたが退院出来たのは、あなたが病気にくじけず真摯に立ち向かったからですよ。私達はそのお手伝いをしただけです。……そういえば退院されたら復学されるそうですね」
「はい、そうなんです。私、将来は誰かの役に立てるお仕事ができるになりたいなと思うようになりまして。夢のまた夢かもしれませんが、そうなりたいので復学したら、今まで以上にもっと勉強を頑張ろうと思っています」
誰にも言っていないけれど、本当は復学するのは不安だった。何故ならあまりにも病弱だったことで、座学の成績は良くても、体育や学校行事で一人だけ特別に対応してもらわねばならなかったり、通院や体調不良で、どうしても欠席や早退や遅刻が避けられないことが多くて、先生やクラスメイト達に迷惑をかけてしまったことがあったからだ。
先生や生徒の殆どは、病弱な体質は持って生まれたものであって、自分がなりたくてなったものではないと理解を示してくれたが、一部の先生や生徒達は、病気ゆえの特別待遇や私の家が裕福であることが気に入らなかったらしく、事あるごとに小言や嫌味を言ってきたり、誰にもわからぬように陰で悪口を言って嫌がらせをして虐めてきたから、正直なところ、私は学校自体にあまり良い思い出がなかった。
でも私が今、こうして生きていられるのは、大勢の人達のおかげなのだ。せっかく助かった命なのだから、これからはもっと大事に自分の人生を生きていきたいし、出来たら私も誰かを助けてあげられるような大人になりたいと手術後に私は強く思うようになっていた。幸い、私が在籍していた学校は私の夢を実現するのに一歩も二歩も近づけるスキルを身につけられるところだったから、私は虐められるのは嫌だけど我慢して復学しようかと悩んでいた。
そんなとき、どこで私の手術が成功したのを聞きつけたのかは知らないが、学校長自ら私に復学を打診する連絡があったと両親から聞いた。その際の世間話で、私の入院中に私を虐めていた先生が病気療養で退職し、生徒達は素行不良でそれぞれが別件で警察に補導され、皆が退学になったという話が出たと両親から聞かされて、私はとても驚いた。
単なる偶然か、因果応報という言葉通りに、人を苛める行為をした報いを彼らが受けただけなのかはわからないが、とにかく復学に対する不安が払拭されたのも確かなので、もう一度頑張ってみようという気持ちになって復学する決心がついたのだ。
「あなたは努力家ですし、不屈の精神の持ち主ですから、きっとなりたい自分になれると私が保証しますよ!」
「ハハハ。買いかぶりですよ、馬先生。私は不屈の精神なんて持っていません。大きな夢を語ってしまいましたが、何せ私は痛いのが大嫌いな弱々メンタルの持ち主なんですから」
夢では馬の姿だったけど、本当の馬先生は茶髪に黒目がちの瞳がキュートな人間のお医者さんだ。……まぁ、夢の中に出てきた馬と同じで、人懐っこいというか、心配性というか、手術が終わった後も私の後をついて回っては、よくファム先生や他の看護師さん……勿論、人間の看護師さん達だ……に仕事が先だと怒られていたけれど。
「……本当の弱々メンタルの持ち主は、あんなことはしないと思いますがね」
「?なんですか、ファム先生?」
「いいえ、何も。困ったことがあったら、いや、無くてもいいですから、いつでも私に連絡してくださいね。あなたの憂いは私の憂い。私の幸いはあなたの幸いなのですから、どんな悩みでも私が対処してみせますから」
「あ、ありがとうございます、ファム先生。あの、私そろそろ迎えの車が来ると思いますので、これで失礼させていただきます」
ヒャ〜!社交辞令だとわかってても、ファム先生の言葉の表現が大げさ過ぎて私は聞く度に赤面してしまう。夢では美しい公爵令嬢だったファム先生は現実の世界でも、その美貌は同じで、夢に出てきた彼女と同じくらい大げさな言葉表現をするお医者さんだった。
だからなのか、他の看護師さんや患者さん達からは、まるで姫に忠誠を尽くす女性騎士みたいで素敵!とキャーキャーと持て囃されていたけれど、その度に馬先生が自分のほうが姫に忠誠を尽くす女性騎士に相応しいはずだと割り込んできて、ふたりの言い合いがところ構わずに始まるので、その度に看護師さん達に煩いと叱られていた。
実はふたりは仲良しなのではないかと私は思っているが、それを言うとふたりから全力で否定されるので、言わずに心のなかだけで思っておくことにしているのは、ふたりには内緒だ。
私はふたりの先生に頭を下げて別れの挨拶を済ませた後、会釈してから後ろを向いて歩きだした。すると遠くの方から凄いスピードを出していると思われる車のエンジン音が後ろの方から聞こえてきた。
「危ないっ!」
危険を知らせる馬先生の声に、慌てて後ろを振り向く。一瞬、何かが私の目の前を素早く横切ったと感じたのだけど、瞬きした次の瞬間には、そこには何もなかった。
「ん?あの、馬先生。何が危ないのですか?」
「あっ。それは……。すみません。私の勘違いでした。何も危なくありません。だけど何かあってはいけないので、お迎えの車が来るまで一緒にいさせてください」
「?……はい。ありがとうございます」
馬先生は何を勘違いして、あんなにも焦った声を出したのだろうか?私はキョロキョロと辺りを見回してみたが、私が見える範囲では何も危なそうなものは見当たらない。
暫くして目の前の道路を消防車と救急車がサイレンを鳴らしながら横切っていった。どこかで事故か何かが起きたのかもしれない。私が車が走っていった方を眺めているとファム先生が声をかけてきた。
「どうしましたか?あっ、もしかして私と離れるのが淋しいのですか?安心してください。私の愛は世界も時も超えるほど強く深いのです。少し離れたぐらいで私とあなたの絆が揺らぐようなことはけしてありません。私のあなたへの尊敬と愛情は永遠に変わらないと、私の女神であるあなたに誓います」
「ハ……ハハハ。そうなんですね。ハハハ……?」
う〜ん。ファム先生の声音が真に迫りすぎていて、単なる社交辞令が、一瞬本気かと思えてしまうものに聞こえるから、返事に困ってしまうな。それにしても、さっきのアレは何だったんだろう?ちょっとだけ夢で見たウニョンウニョンの触手に見えたような気がしたと思ったのだけど、周りには先生達しかいないし……。うん、きっとアレは私の気のせいだ。あっ、迎えの車が来た。
「お父さん、お母さん。お迎えに来てくれてありがとう」
「遅くなってごめんよ。つい、さっき暴走者の事故があったらしくて回り道をさせられたんだ」
「心配させてごめんね。……先生方、この度は娘を助けていただきまして、本当にありがとうございました」
信じられないことに私の手術が成功した後、何故か両親は夫婦仲が良くなっていて、それぞれの恋人とも別れたようで、二人揃って毎日、お見舞いに来るようになっていた。
学校のことと言い、両親のことと言い、あんまりにも私に都合が良すぎることが立て続けに起きるから、私はまだ夢の中にいるのかと思って妙な気持ちにはなったけれど、日を重ねても両親の顔に嘘は感じなかったし、悪いことの後には良いことが必ず訪れるものだと年配の子守役が別れ際に言っていたことを思い出したので、それを信じて素直に喜ぶことにした。
両親と一緒に車に荷物を乗せ、私も後部席に乗り込んだ後、運転席に座ったお父さんが、私が先生達に最後の挨拶が出来るようにと、車の窓を開けてくれた。
「お見送りしてくれてありがとうございました」
「いえいえ。気をつけて帰ってくださいね」
「私達はこの後、故郷でやらねばならないことがありますから、暫くの間はここに来ることが出来ませんが、私達があなたの主治医であることは生涯変わりません。必ずまたお会いしましょう。……あっ、そうそう。もし退院後に気になることや体調に何かありましたら、直ぐにこの病院に連絡を入れてくださいね。ここの病院の医療従事者達は皆、私達が直接指導しておりますので、注射だろうが内視鏡チューブだろうが、あなたに痛い思いは二度とさせないはずですから」
「はい。そうさせてもらいます。本当にありがとうございました。先生達もお気をつけて、故郷に帰ってくださいね」
お父さんが車の窓を閉め、車をゆっくり動かせる。私は見送る先生達に向かって手を振った。暫く行った先の道路で事故処理のための交通整理が行われていて通行止めになっていた。お父さんが別の道を通るために引き返すと言って、車を方向転換させたので、もう一度病院の前を車が通ることになった。
きっと先生達はもう病院の中に戻っていて、私を見送ってくれた場所には立っていないだろう。でも、もしも、まだ、そこに先生達が立っていたら、先生達が私に気が付かなくとも感謝の気持ちを込めて、もう一度会釈して手を振ろう。そう思って私は病院の方を見た。あっ、先生達がいるのが見え……。私は振り上げた自分の手を思わず止まってしまった。
「えっ?!」
先生達の後ろにありえないものが見えた気がして、私は慌てて目をゴシゴシと擦って、もう一度先生達を見てみることにした。先生達も私の乗った車が引き返してきたことに気づいたらしい。微笑みを浮かべ、手を振ってくれている先生達が一瞬だけ見えて、あっという間に見えなくなってしまった。
さっきのは何だったんだろう?私が窓を向いたまま呆然としていると両親が私に声をかけてきた。
「久しぶりの外だから疲れたのかい?」
「疲れたのなら、どこかで車を止めて休憩にしましょうか?」
「ありがとう。お父さん、お母さん。私はまだ大丈夫よ」
「そうかい?それならいいけれど、疲れたら直ぐに教えるんだよ」
「親子なんだから遠慮せずに、直ぐに言ってね」
「うん、ありがとう」
手術が成功してから、まるで人が変わったように優しくなった両親には、そう返事したものの、もしかしたら私は早々に疲れてしまったのかもしれない。そうか。久しぶりに外に出たから疲れているだけなんだ。私は理由を知って密かに安堵した。そうか。疲れて見間違えたのだろう。
だから先生達の後ろに一瞬、アレが見えたのは、……きっと気のせい。
【完】
ここまで読んでくれて有難うございました。本編はこれで終わりですので、一旦完結とさせていただきます。おまけで公爵令嬢と馬視点のお話を書くつもりです。書け次第、また投稿しますので、そのときはどうぞよろしくお願いいたします。




