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元禄浪漫紀行  作者: 桐生甘太郎
長屋人情編
18/57

第十八話 二両のお金

忙しさにかまけ、更新をなまけてしまいました。


今回と次回の話は、一組になると思います。よろしくお願いします!





近ごろ、困ったことがある。


俺はだんだんと家事仕事に慣れてきたので、前におかねさんが言い出した「写し物」という、本を書き写す仕事を始めた。それはそれで初めは草書の読み書きに手こずったりもしたものだけど、「そこでほんの少しばかりお小遣いを稼いだ」という話を、あるお弟子さんにしてしまったのである。


その人のことはおかねさんもあまりよく思っていなくて、それこそ来るたんびに家の様子に文句を言ったりして、俺も「嫌な人だな」と思っていた。そのくせ、「謝礼がよぉ、今ぁ払えねえんで、すみませんが…」と、その時だけかしこまった様子になるのだ。


おかねさんいわく、彼は「いろいろと芸を学んで身を()やす人たち」、つまり「芸狂(げいぐる)い」の口で、名前を「甚吉(じんきち)」さんと言った。


歳は二十歳を超えたばかりくらいに見え、いつも粗末な着物を着ていたけど、なかなか三味の腕はよく声もいい方だったので、稽古の時にはおかねさんも機嫌がいい。でも、甚吉さんが「またまた」謝礼を出し渋ったり、なんでもないことでおかねさんの振る舞いなどに文句を言ったりすると、二人はたまに言い合いになるのだった。


俺も影で甚吉さんには少し厄介なからかわれ方をしたり、たまに金の無心をされたりと、困っていた。


ある時、お稽古の最中に俺が井戸端で洗濯をしていると、今日は何事もなく終わって出てきたらしい甚吉さんが、俺の抱える盥に近寄ってきた。



「よぉ、秋兵衛さんよ」


「甚吉さん」


俺は前にも、「師匠と妙な仲なんじゃねえのかい」としつこく言われたりしていたので、その日も警戒して、あまり愛想よくしないようにと思っていた。


「それにしてもよぉ、おめえさんはいいぜ。稼ぎは全部小遣ぇになるし、暮らしはお師匠が持ってくれてると来たもんだ」


甚吉さんは、袷に綿を入れるお金もなかったのかもしれない。寒そうに木綿もの一枚で擦り切れた帯を締め、しゃがみ込んだ足の上に組んだ足を乗せた。そうして俺を覗き込む。


「は、はあ…有難いです」


俺は、もっともらしく下を向き、洗濯物を擦り続けるしかできることがなかった。


「そうだそうだ。それでよぉ、ここへ来たのはよ、ほかでもねぇ、そのおめえさんの小遣いから、いくらか融通(ゆうずう)してくれねえか、とな…へへっ」


俺が受けていたのは、「ゆすりたかり」だったのだろう。どちらかというと、「たかり」の方だったかもしれない。


甚吉さんは巧みに俺の立場を弱くさせ、そして自分の苦労をそれから長々と語った。



店賃(たなちん)が払えなくて家を追い出されかけた時に、師匠が助けてくれたのを、感謝している”


“今は真面目に働いているけど、駕籠舁(かごか)きは水商売だから、儲からなければ終いだ”



大体そんなような内容だった。


でも俺は知っている。甚吉さんは近所では怠け者という評判で、芸達者ではあるが、働きに出るのは週に三度あるかないからしい。


それも、必要最低限のお金を稼いだら店じまいにして、悪くすればそれをみんなお酒に変えてしまうのだ。


そんなことを、おかねさんがこぼした愚痴や、町内の違う長屋の奥さんたちなどの噂話から聴いた。



ある意味で、そんな暮らしが「江戸っ子」としての到達地点かもしれない。その日暮らしに怠けた仕事、芸も女も好き放題。この上なく刹那的だ。



「で、でも…僕が稼いでいるのはほんの少しで…それでお師匠にご恩返しをと、思っておりますので…」


そう言えば引き下がるだろう、とは思わなかった。こういう人はいくらかあげるまで付きまとうし、よっぽどのことをしなければ離れてくれないのが普通のことだというのは、俺が居た現代でも変わらない。


「そこを曲げて!なんとか頼むよ!これじゃあ俺ぁ、また追い出されっちまう!」


甚吉さんは手を合わせて俺を拝み、ぺこぺこと頭を下げた。


“仕方ないなあ…まあ、いくらかあげて、「次からはいけませんよ」と言うしかないか…”と、俺がそう思っていた時だ。



「甚吉っつぁん。お前さん、何してんだい?」


気が付くと、俺たちのそばにおかねさんが立っていた。俺の洗濯の帰りが遅かったからか、稽古のあとのお茶を煎れに戻らないからだったのか。でも、それより何より、おかねさんは口を一文字に引き結び、眉を吊り上げて、じっと甚吉さんを睨んでいた。それは、俺のことすら見えてもいないようだった。


「あ…し、師匠…なんでもねえでげす。今、秋兵衛さんにご相談をですね…へへっ」


“都合が悪い時に笑ってごまかそうとしても、相手がこれだけ怒っていたらもう無駄なのだな”と、俺はその日知った。


おかねさんは「銭のことかい」と言い、まだ甚吉さんを睨む。甚吉さんが極まりが悪そうに「ま、まあ…」と言うと、おかねさんは何も言わずに家の中に引き返し、すぐに戻ってきた。


そして俺たちのところに戻ってきた彼女は紙包みを握っていた。でもそれが見えたのはたった一瞬で、おかねさんはそれをいきなり、甚吉さんの顔めがけて思い切りぶっつけたのだ。


「イテッ!!何すんでぃ!」


甚吉さんはあまりのことに叫ぶ。俺が慌てながらも地面を見ると、ぶつけられて破けた紙包みの中身は、なんと(きん)のお金だった。


「そら!持っておいき!お前さんはそれで破門(はもん)だよ!」


甚吉さんはしばらくお金を拾おうかどうしようか迷っていたようだったけど、舌打ちをすると立ち上がって、猛然とおかねさんに怒鳴りつける。そこから、長屋じゅうが揺れるような喧嘩が始まった。


「何すんでぃ!渡すならもう少しやさっしく渡したらいいじゃねえか!」


「ぜいたく言うんじゃないよ!も少し稼いでからお言い!」


「女のくせに生意気言いやがって!」


「生意気!?生意気だって!?そんならお前さん、師匠の下男から銭をゆすり取ろうとするお前さんはなんだい!?それを拾ったらとっとと出ておいき!影覗きもしたら承知しないよ!」


そこまで言われて甚吉さんは何も言えなくなり、投げつけられた一分金(いちぶきん)の中からいくらかをさっさとかき集めると、「二度と来るか!性悪(しょうわる)め!」と捨て台詞を吐き、木戸を蹴破っていってしまった。



俺は江戸っ子の気性の激しさに驚いていたが、でも、心配もしていた。だってあのお金は。



「おかねさん…あのお金は、もしもの時のためにって…」



前におかねさんが、「雨降り風間と言うからね、何かの時のためにこうして二両は取ってあるのさ。人に言っちゃならないよ」と言って、小さな金貨がまとめて包んである紙包みの中を見せてくれたことがある。彼女はそのあとすぐにお金を包みなおして、小さな仏壇の奥に隠していた。多分、甚吉さんに投げつけたのはそのお金だったんだろう。


おかねさんは俺を見ずに、つまらなそうに「フン」と鼻を鳴らすと、さっさと家の中へ戻ろうと(くびす)を返した。


「いいんだよ。これで追っ払えたんだ。もう日も暮れる。早く終わらしな」


俺はそれを聞いて、もうほとんど終わりかけていた洗濯を済ませ、おかねさんの家に戻った。






火鉢の脇へ俺たちは座り、おかねさんは寒そうに手をあぶって、俺はお茶を煎れる準備をしていた。鉄瓶が震えて、湯がたぎる音がしている。


薄くて青白い湯のみにお茶が注がれると彼女はそれを受け取り、ひと口ふた口飲んでから、ちゃぶ台へ放ってしまった。そこから彼女の、長い、長い、身の上話が始まる。







つづく

お読みくださいまして、有難うございました!

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