表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/29

エピローグ ―予感―

 あの誘拐未遂から数年が経った。夕璃子は、今朝、名前を変えた。


 夕璃子は教会の外に立っていた。パイプオルガンと賛美歌の音に混じって、強い海風がベールをはたはたと揺らす音だけが響いていた。


 やけに静かだと思い、夕璃子が隣を見上げると、シルバーのタキシードを着た慧介は、緊張で強張った顔をしていた。眉根が寄って、深い溝を作っている。夕璃子はくすりと笑って、その背中にそっと手を添えた。彼は、はっと我に返り、それから甘やかな笑顔をこちらに向けた。そして、開かれた扉の向こうに呼ばれて、消えていった。





 夕璃子の出番はまだ来ない。思わず小さなあくびをする彼女を見て、隣に立った父は苦笑した。今朝は区役所に行くところから始まり、事故で電車が動かず、式場へタクシーで乗りつけ、――激動の一日だった。でも今日からやっと「森島夕璃子」だ。字面が綺麗で、女優みたいな名前で気に入っている。


「ご新婦さま、ご入場ください」


 プランナーが小声で耳打ちする。開かれた扉の中へ、しずしずと進んでいく。プランナーには、ドレスを蹴り上げるように進むように言われたが、本当にこれで優雅に見えるのだろうか。夕璃子は微笑を貼り付けながら、少し不安に思った。

 懐かしい面々が見えた。バーで仲良くなった浦滝さんに、山道で助けてくれたおばさん、揃いのドレスに身を包んだ秋奈とあやみ。――目まぐるしくいろいろなことが変わった数年間だった。


 夕璃子を攫おうとしていたのは、秋奈の昔の恋人だった。それは本当に偶然だったらしく、秋奈が現れたことに犯人のほうが取り乱していたそうだ。彼は同じ大学の先輩だったが、キャンパスは違う。だから秋奈と夕璃子が親しいことにも気がつかなかったらしい。


 どうして夕璃子が目をつけられたのかは、結局わからなかった。でも、バーで浦滝さんとの会話を聞かれていて、それで計画が立てられたことを警察に告げられ、ぞっとした。あの書き込みまでもが、夕璃子を誘い込む罠だったのだ。


 あれからしばらくは、秋奈とぎくしゃくしてしまった。彼女のほうが気に病んでしまったのだ。なんの責任もないのに――。何年もかけて、元通りとはいかないものの、親しくできるようになった。でも、今になって思うことがある。あの人は、本当は秋奈のことが好きだったのではないだろうか。なにかが違えば、きっと結末は変わっていた。そう思えてならない。



 もっとも予想できなかったのは、東久世あやみと親友になったことだ。

 助けてくれたおばさんが彼女の祖母で、あやみからのメールがなければ危なかったことを知ったときは、本当に驚いた。感謝もした。それがきっかけで、大学で少しずつ話すようになった。意外とうまが合い、学外でも会うようになった。そして、友人として付き合ってみると、あやみは実にストイックで魅力的な女性だった。みっともないと言われたのも、彼女の陰の努力を知ったらなんだか納得してしまった。


 傷ついたのは確かなので、そのことは、はっきりと伝えた。あやみは顔を青くしたり赤くしたりしていて、華やかな美女のそうした様子がなんだか可笑しくて、夕璃子はそれだけで少し彼女を許せてしまった。




 学生時代は化粧っ気がなかった夕璃子だが、秋奈やあやみにメイクを教えてもらってから、すっかりその魅力に取り憑かれていた。少し手を加えるだけで顔の印象が大きく変わる。いろいろな顔になれる。それは楽しくて新鮮な発見だった。


 大学を出たあとは上京して、イメージコンサルタントになった。イメージコンサルタントというのは、骨格や肌の色などから、似合うものや似合わないものを診断して、ファッションやメイクに取り入れていくアドバイスをする仕事だ。


 自分にはできない、向いていないと、容姿に関することをはなから諦めていたけれど、知ってみると面白かったし、見た目が変わると自信が持てた。大学三年のころ、貯めたバイト代で講習を受けて資格をとり、上京一年目でサロンを開くことができた。大学で学んだこととは関係がなかったので、父とは一度険悪にもなったけれど、今は認めてくれている。


 夕璃子は、かつての自分のように、容姿にコンプレックスがある人に向けたサービスを展開している。SNSで宣伝や集客もできる時代であるのも幸いして、起業二年目にして好評を得ている。


 慧介は今年大学を卒業した。そして、夕璃子を追いかけるように東京に出てきた。案外ストイックなところのある彼は、こつこつと就活を続けて、大企業に入社した。そして、それをきっかけに同棲を始めた。

 二十歳のときに感じていた切なさも不安も、すっかり消えた。激しく身を焦がすような恋心も、実は消えてしまった。パチンとしゃぼん玉が弾けるように。でも、それは決して悪いことではないと思えた。二人の間に残ったのは、ただ穏やかな愛情だけだった。



 挙式を終えて、教会を出ると、鈍色の雲に覆われた夕空が広がっていた。夕璃子がひゅっと息を飲むと、慧介が背中にそっと手を添えてくれた。―― 事件のことは、今でもたまに夢に見る。息苦しくなって叫びながら目を覚ますと、眠そうな目をした慧介が抱き寄せてくれる。それでも、しばらくは涙が止まらない。




 ーーーーー



 あの日、厨房であの男性がしようとしていることに気づいたとき。恐怖に身はすくみ、逃げ出したいのに撃ち抜かれたように足が動かなかった。それでいて身体はどんどん重くなり、気を抜くと瞼が閉じてしまいそうだった。出された水に薬が入っていたのだろう。

 目尻から涙の雫がほろり、とこぼれたときだった。


「――勇貴くん!」


 秋奈の声がした。

 次の瞬間、身体を強く後ろに引かれ、硬い腕に抱きとめられていた。いつも彼がしていた香水のにおいがなかったので、はじめは戸惑い、身が強張った。でも、耳元で、ずっと聞きたかった声が名前を呼んだ。目頭が熱くなり、視界が真っ白に滲んだ。胸の前に回された腕を、夕璃子も強く抱きしめた。




 慧介とは、事件のあと、夜通し話し合った。そして、互いの認識に大きな食い違いがあったことを知った。


「佐藤先生に言われてたのにね。ちゃんと伝えるようにって」

「――悪かった。俺の中では、……その、告白をしたつもりだったんだ」

「私は、ひとこと、好きって言ってほしかった。付き合ってほしいでも良かったの。わかりにくいよ」


 そう言って夕璃子は、慧介の頭を小突いた。


「自分からは言い出せなかったの。言ったら終わりのような気がしたし、慧介に望まれているんだって、実感したかった。くだらないプライドでしょう」


 夕璃子は自嘲する。

 答えはずいぶん前に提示されていたのだ。佐藤によって。わかっているつもりで、自分たちは実は聞き流していたのかもしれない。


「夕璃子」


 慧介が、姿勢を正して言った。


「すきだ。つきあってくれ」


 夕璃子は思わず吹き出す。


「棒読みで全然ロマンチックじゃないなあ」


 二人は笑い、互いをかたく抱きしめあった。


「――私も好きだよ、慧介のこと。高校のときから、ずっと、ずっと」


 腕の中に囚われたまま、夕璃子はつぶやいた。想像していた以上に勇気が必要で、くすぐったくて、温かく、――心から吐き出してしまえば、なんということのないただの言葉だった。

 どちらからともなくキスをして、二人でみっともなく泣いた。そのとき、夕璃子はふと思ったのだ。きっとこの人と添い遂げるのだろう。


 それは、予知夢を見なくても確かな、――予感だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ