15.山の上の喫茶店にて
『その喫茶店は、山の上にある。電車を降りてから少し歩いた場所だ。途中、右手には広く美しい池と日本庭園が広がっている。
店はこじんまりとしていて、白壁と緑の屋根が目印だ。入って左手の奥、ソファ席の窓からはだけ見える、美しい泉がある。曇りの日には翡翠のような色に見えるという。レモネードを頼むのが秘密の合図。翡翠の泉への鍵をもらえる。泉の中に、大切なものを一つ投げ入れれば、縁も悲しさも溶けてなくなるのだ。』
夕璃子は、白壁と緑の屋根の建物の前に立っていた。
カーテンが閉まっていたので定休日なのかと思ったが、中からグレーのエプロンをした男性が顔を覗かせた。男性というだけで先ほどの恐怖が蘇り、一瞬身体が硬くなった。でも、どこか懐かしいほほ笑みと柔らかな物腰を見て、不信感を持つほうが後ろめたく感じられた。
「今日はもうお客さんが来ないと思っていたから閉めようと思ってたんです。こんな立地でしょう、平日はあまり人が来ないんですよ。すみません、どうぞ、中にはいってください」
男性はにこやかにドアを開けてくれる。カフェエプロンが妙に似合わない、細身で色白の、綺麗な顔をした人だった。夕璃子は無事についたことに安堵して、頷き、男性の後に続いた。案内されたのは、まさに翡翠の泉が見えるという席だった。
温かみのある手書きのメニューに目を通す。
ツナサンド、スモークサーモンとディル、玉子サンドの3種のサンドイッチ。ゆで卵がついてくるらしく、喫茶店らしさを感じさせた。夕璃子は「スモークサーモンとディル」と心の中でつぶやく。お店のメニューを再現して作るのが趣味なのだ。
ケーキは日替わりで1種類。今日のケーキはザッハトルテだという。それから飲みものがいろいろ。コーヒーが種類豊富であるほか、ココアやホットミルクといったメニューもあった。そして、こんなときでもレモンティーという文字に心惹かれてしまう自分がいることに気がつき、夕璃子は少し恥ずかしくなった。
目的のレモネードのほか、帰りの体力を残すためにもなにか食べものを注文することにした。せっかくなので本日のケーキをお願いする。夕璃子の言葉に、店の男性は一瞬困ったように眉を下げた。閉める予定だったと言うし、もしかすると、仕込みが終わっていないのだろうか。申し訳なく思って注文を変えようとしていたら、男性は頭の中で計算でもしているかのように一旦目線を外し、「うけたまわりました」と感じよく言った。
長い一日だった。夕璃子はふう、と長く息を吐いた。いろいろなことがありすぎて、少し疲れている。頭もぼんやりしてきたようだ。
そのとき、夕璃子は不思議に思った。窓の外には泉らしきものが見えなかったのだ。そこに広がっているのは、まるで絵の具箱のように花々が美しく咲き乱れる小さな庭だった。あいにくの曇り空で、花の色は少しくすんでみえた。それでも、蝶々がひらひらと飛び回るその空間は、絵画を切り取ってそのまま置いたような非日常感があった。
感動に目を奪われ、手元の水を喉に流し込む。――そして、思わず自嘲する。書き込みは嘘だったのだ。当たり前だ。そんな都合のいい話があるわけはなかった。自分が予知夢を見てしまうこと、そして慧介のように霊感がある人がそばにいること。それらを経て、不思議なことは確かに世界に存在すると信じてしまっていた。
そして、ふと思い出す。ここに来たもうひとつの理由。
それは、電話をすることだった。おばさんの電話を借りれば、慧介には連絡が取れた。彼の番号は頭の中に入っていたからだ。でも、秋奈の番号はわからない。彼女と連絡が取れたら、申し訳ないけれど、バイクに乗せてもらおうと思ったのだ。
とりあえず充電をさせてもらおう。そして、それでも壊れて動かないようだったら、やはり警察に連絡するしかないのかもしれない。
夕璃子はよろよろと立ち上がる。くらりと一瞬めまいがして、身体が重いような気がした。先ほどの恐怖がまだ残っているらしい。――でもこれからは、一人でしっかりと立っていかなければいけない。いつも胸の片隅にあった気持ちと、今日決別するのだ。
夕璃子はふるふると首を振って、厨房に向かった。
「――すみません、ちょっと電源を使わせてもらってもいいですか?」
声をかけながらキッチンを覗いた瞬間、すべてを忘れて意識がクリアになった。足が凍りついたように動かない。店の男性が持っていたのは、調理器具でも食べものでもなく、ロープだった。そして、眼鏡をかけたその顔を見て、ようやく彼に感じた懐かしさの正体に気がついたのだった。




