14.大崎秋奈の失恋(2)
夕璃子の家には何度か来たことがあったが、秋奈は通学組で自宅が近いので泊まったことはなかった。
生活感のあまりない、清潔感があってシンプルな部屋は、彼女の印象によく合っていた。家具はベッドとテーブルに小さなテレビしかなく、日用品やテキストなどは備え付けの収納にきっちり整理されてしまわれていた。実家の自分の部屋は、子どものころから集めてきたぬいぐるみやカラフルな雑貨で溢れているので、最初は不思議に思ったけれど、慣れてくるととても快適だった。
「ごはん作るから、ちょっと待っててね」
彼女は白いエプロンをつけて、髪の毛を後ろでひとつにくくった。丁寧に手を洗って、冷蔵庫から食材を出して、ワゴンに並べる。
秋奈は、夕璃子が出しておいてくれた数冊の雑誌をぱらぱらとめくりながら、寝転んでいた。
ベランダの網戸から、夏のむっとした空気が吹き込んでくる。空はまだ明るく、薄い青色の中に少しずつ金色が混じってきているような感じだった。蜩の声が物悲しく響いていて、せり上がってくる涙を手の甲で乱暴にぬぐった。
手慣れた様子でどんどんおかずが出来上がっていく様子は、さながら魔法のようだった。その夜のメニューは肉豆腐に春菊のナムル、ブロッコリーとトマトの和え物、かぼちゃサラダだった。せっかく誘ってくれたのだから話そう――そう思うものの、何から切り出していいのかわからず、他愛もない会話が続いた。
「人と一緒にお風呂入るのって抵抗ある?」
夕食のあと、洗いものをしながら夕璃子が尋ねた。彼女の家から歩いて五分ほどのところに銭湯があるのだと言う。彼女が用意してくれたタオルや着替えを持って、銭湯に向かった。
時間は20時を少し過ぎたくらいだったが、さまざまな年代の人がいて、銭湯はずいぶん混んでいた。
家族旅行で温泉に行ったことはあったけれど、銭湯に入るのは初めてだ。ただ広いだけのお風呂だと思っていたのだが、そうではなかった。電気風呂やサウナ、露天風呂にジェットバスなどいろいろあってわくわくする。
汗を流して、熱いお湯に浸かると、張り詰めていた気持ちも身体もすっきりしていくのを感じた。
番台でコーヒー牛乳を二本買って、ごくごくと飲み干すころには、自分の過去のことも、彼のことも、すべて話し終えていた。すべてのお風呂を堪能すべく長湯をしてしまい、ふたりとものぼせていたけれど、それも楽しかった。
そして、ずいぶんと心が軽くなっているのを感じた。
同じ話を、すでに姉や妹にはしていたけれど、そのときは逆に心が冷えた。二人から返ってきたのは辛辣なアドバイスだったけれど、夕璃子は時折相づちを打ちながら、寄り添うように聞いてくれたからだったのだと思う。
夕璃子の家に戻る途中で、コンビニに寄った。秋奈はビールを、彼女はジンジャエールを買った。それから、ダイエットをはじめてから食べずにいたポテトチップスを3袋に、ショートケーキもカゴに入れた。――でも、レジに並ぶ前に、結局ポテトチップス1袋だけにとどめた。岡崎とがんばってきたダイエットがすっかり習慣になっているのを感じて、悲しくなった。
秋奈がラグの上でぬいぐるみを抱きしめながらごろごろしている間に、夕璃子は手早くおつまみを何品か作って持ってきた。
「ピザ?」
「そう。餃子の皮にね、具材をいろいろ乗せて、トースターで焼くだけなの。パリパリしておいしいでしょう?」
そう言って彼女はおっとりとほほ笑んだ。
餃子ピザにはいずれもチーズがたっぷり乗っていて、ピーマンとコーンとトマトケチャップ、焼き鳥とコーン、チーズだけが乗っていてはちみつがかかっているものの三種類が用意されていた。
それから、ポテトチップスのポテトサラダ! 半分分けてほしいと夕璃子がいうので、なんだろうと思っていたけれど、荒く砕かれたポテトチップスをマヨネーズで和え、塩と胡椒で味つけしたもののようだった。ツナとコーンが入っていて、塩気があっておいしかった。
小さなピザをさくさくと頬張りながら、ビールをごくごくと流し込む。夕璃子はその様子を眺めながら「私も早くお酒が飲みたいな」と言った。
「私、地元で好きな人がいたんだ。なんとなくうまがあって、よく一緒にいた人。でも、告白する勇気が出なかったし、向こうがどう思っていたのかはわからなかった。そうしているうちに、同じクラスの子が彼を好きだと知って。いろいろあって、疲れちゃって。遠くの大学を選んだの。――今は彼氏もいて楽しいんだけどね」
田園地帯を進んでいく。大きな池の横を通り抜け、東久世あやみが言っていた“死角”に差し掛かる。慧介の身体が強張った。
――あのとき話していた“好きな人”は、慧介のことだったはずだ。
ああ言って笑った夕璃子の顔が、本当はさみしげだったのに、秋奈は気づいていた。それに、森島慧介が入学してきて、お酒が飲めるようになってからは、彼のいない日に一人でバーに通っていたことも。どうしてもっと聞かなかったのか。そう思うとやるせない気持ちになった。それに、慧介の鈍さにも苛立ちを覚えた。
「どうして夕璃子と付き合わないの?」
――そんなに取り乱すくらいなら。森島慧介からは返答がない。同じことをくり返し問おうとしたところ、彼はやっと口を開いた。
「――いや、付き合ってるよ」
彼は、質問の意味がわからないといったふうに答えたのだった。