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12.森島慧介の怠慢

 美術教師の佐藤が死んだのは二年前の夏の終わり。森島慧介が浪人生活をしていたころだ。


 佐藤のアパートには縁側があった。

 彼のことを思い出そうとすると、いつも浮かぶのは丸眼鏡をかけて、何やら本を片手にそこで将棋を打っている姿だった。一人でやって楽しいのかと問うと、佐藤はじゃあ一緒にやってくれと笑う。慧介には将棋の経験がなかったので、首を振った。


 慧介は、そのことを今でも後悔している。わからないのならば、佐藤に教えを乞えば良かったのだ。





 遠方の大学へ進学するのを親に反対されていた慧介は、佐藤のアパートで日中を過ごすことが多かった。子どものころから、幽霊の類を見たり、予言めいたことを口走ったりする慧介を両親や兄たちが気味悪がっており、もともと折り合いが悪かったこともある。家は慧介にとって安心できる場所ではなかった。

 だから、図書館でたまたま再会した佐藤が「うちへ来たらどうだ」と、声をかけてくれたのは僥倖だった。


 定年を迎えていた佐藤には、学校にいたときの偏屈な芸術家然としたところが見当たらなかった。もともと、慧介や夕璃子の前では優しかったが、今ではどこにでもいる弱々しく気のいい爺さんという感じだった。




「森島は、石倉をどう思っているんだ」


 あるとき、佐藤がぽつりとこぼした。慧介は狭い台所に立ち、卵を溶いているところだった。


「そんなこと、こっ恥ずかしくて言えるかよ」

「せっかく受かっていた大学を蹴ってまで、あの子と同じところに行くんだろう。どうしてあの子が受ける大学を知らなかったんだ? 聞かなかったからだろう」

「――地元を離れるなんて思わなかったんだ」


 ぷいと顔を逸らす慧介を、佐藤は手のかかるいたずらっ子にするようなほほ笑みで見つめた。

 慧介は佐藤のほうに向き直らず、視線を手元に落とした。日中一緒に過ごさせてもらう代わりに、慧介は料理を提供することにしていた。


 今日は海老とレタス、卵のチャーハンに、にんにくを利かせたわかめスープだ。

 炊きたてのごはんは必要な分だけ器によそってフライパンのそばに置いておく。レタスはちぎり、冷凍のエビは一度火を通しておいた。それから調味料も計量してまとめておく。チャーハン作りで大切なのは流れるようなスピードだ。


 よく熱したフライパンに油をひいて、卵を流し込む。まだほとんど生の卵の上に、温かいごはんを入れる。この工程はとにかく手早く行うのが大事だ。他の材料も加え、炒め合わせていく。醤油を加え、最後に酒をほんの少し加えて蒸らすようにする。

 そうすると、べたつかず、ぱらりとしたチャーハンができあがるのだ。




「おまえは、昔の私のような後悔をするなよ」


 佐藤は噛みしめるように言うと、仏壇の遺影に顔を向けた。


「気持ちを伝えないのは、怠慢なんだ」


 そこにあったのは写真ではなく、精緻に描かれた肖像画だった。亡くなったと聞いている年齢ではなく、彼のなかに一番印象的に残っている時代を思い出して、佐藤自身が描いたのだと思われた。髪の毛一本まで、丁寧に描かれていた。


「チャーハンできたぞ、佐藤センセ」


 慧介はほかほかと湯気の立つ料理を、使い込まれた丸い卓袱台に並べた。





 その朝も、いつもと同じように佐藤のアパートへ向かった。

 何度インターホンを鳴らしても返事がない。郵便受けから覗くと、室内で佐藤が倒れているのが見えた。すぐに大家と救急車を呼んだけれど、間に合わなかった。



 佐藤には頼れる親戚も子どももいなかった。弁護士だと名乗る人から、ささやかな遺産があると告げられたときは驚いた。辞退しようと思ったが、学費と生活費に充ててくれと、いつ書いたのか、震える文字の手紙も残されていた。慧介はその夜、ひと晩中泣いた。

 今さらになって佐藤の言ったことが深く突き刺さった。確かに怠慢だった。伝えることが大切なのは、恋愛に限らない。もっと伝えるべきだったのだ。佐藤に、感謝の言葉を。




 慧介は翌日から工事現場での仕事を始めた。身体を動かしていると、あの朝、佐藤の亡骸を見つけたときの衝撃や後悔を忘れられた。

 遺産には手をつけないことにした。幼なじみの紹介でホストのバイトも始めた。気がつくとずいぶん垢抜けていた。昼間は勉強に打ち込み、夜は仕事をする。そんな生活を一年ほど続けて、無事に大学に合格した。


 同級生の友人の友人……と、伝手をたどって、ようやく石倉夕璃子の電話番号を得られたのは三月に入ってからだった。メモを何度も握りしめた。すぐにはかけられなかった。気味が悪いと思われそうで、不安だったのだ。そして入学式の日、ようやくここまで来られたという勢いに助けられて、正門の前で電話をかけた。


 しばらくすると、風で髪を見出した、化粧っ気のない女が自転車で坂道を登ってきた。彼女は桜吹雪に包まれており、さながら映画のワンシーンのようだった。餅みたいにうまそうな頬が、高校のころと変わらないのが嬉しくて、慧介は精一杯の告白をした。


「おまえに会うために来た」と。

 

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