8.忍び寄る危険
夕璃子は、賭けに負けた。
20歳の誕生日までに好きだと言ってもらえたら。あの朝、慧介が目を覚ましたら。そういうふうに自分で勝手な言い訳を設定して、離れない理由を作ってきた。でも、ことごとく負けてしまった。
慧介から好きだという言葉は引き出せなかったし、あの朝、彼が目を覚ますことはなかった。夕璃子自身では、きっともう、この気持ちをなかったことにすることはできないだろう。
言葉がないまま続く関係は虚しい。これまでに付き合った恋人たちと過ごすときは、いつも楽しくて、別れるときは少し寂しいだけだった。でも、慧介と一緒にいると、いつでも胸が痛い。あらゆることが不安になった。
もしも好きだと告げて笑われたら。
慧介が他の人に目を向けてしまったら。
たとえば事故などで彼を失ってしまったら?
一緒にいる時間が幸せであればあるほど、同時に激しい苦しさが胸を突き上げてくる。好きでい続けることに、夕璃子は疲れ切っていた。だから、手放してしまおうと思ったのだった。
バス停を降りてから、ずいぶんと歩いたような気がする。
秋の初めとはいえ、夕璃子はわずかに汗ばんでいた。リュックからタオルを出して、額の汗を拭う。喉が乾いたけれど自動販売機も見当たらない。
やがて、件の池の横に差し掛かった。夕璃子の胸はどきどきと嫌な音を立てていた。先ほどから、黒い車がのろのろと横をついてくるのだ。追い越しては止まり、止まっては動き出す。そのくり返しだった。
かと言って、戻る先は人気のない山道だ。このまま進んだほうがまだましだろう。そのとき、右手に小さな地蔵があることに気がついた。赤いよだれかけをしたその石像は、愛らしい子どもの顔をしている。
夕璃子はふと、まだ食べていない弁当のことを思い出した。
「お地蔵さん、ルールはわからないから、違ったらごめんなさい。よかったらこれをどうぞ」
夕璃子は地蔵に弁当をそなえ、手を合わせる。
――通らせてもらいます。もしなにかあったら、助けてください。
いまだに残る、朝の余韻を思い出すと、首元がきゅうっとうすら寒くなる。
柄にもないと思いながら静かに祈りを捧げ、そのまま置いておいても迷惑だろうと、弁当を包みに戻して持ち帰ることにした。
しばらく歩くと、日本庭園が見える場所にたくさんの車が止まっていた。人々はそこで車を降り、写真を撮っているようだ。その中には先ほどの黒い車もあった。夕璃子はほっと胸を撫で下ろす。
――よかった、思い過ごしだった。夢のことがあるからって、自意識過剰になっていたのかもしれない。
そうして自分を恥じた。
年配の夫婦がほとんどのその中に夕璃子も混じって、日本庭園の写真をスマートフォンにおさめる。黒い車が道の向こうに消えていくのが見えた。
しばらくして、夕璃子はふたたび歩き出した。
そのとき、ポケットの中の携帯が震えた。秋奈からだった。
「もしもし、秋奈ちゃん?」
『夕璃子! あんた今どこにいるの?』
「紫望山だよ。山の上に喫茶店があって、そこに向かってるところ。でもどうしたの? なにかあった?」
『それが、モリリンが――』
そのとき、誰かが夕璃子の肩を掴んだ。夕璃子は悲鳴を上げ、携帯電話を取り落した。