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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

眼球男

作者: kuroro

「──そういえば、また出たらしいよ」


喧騒響き渡る昼休みの教室。そんないくつもの会話が渋滞し入り乱れる中、私はチロリと舌先を出して軽く下唇を湿らせると、ちょうど今思い出したかのように口を開いた。

 

「……出たって、例の?」

 「うん。北高の女子が、すみれ公園の近くで見たんだってさ」

 「まじ? すみれ公園って駅の近くじゃん」

 「その子、見ただけで取られてはいないの?」

 窓側後方の机に四つのランチボックスを並べながら、ミカ、アカリ、ナナコの三人が興味津々に尋ねてくる。

 「うん。取られてはないみたい」

 私がそう頷いて答えると、ナナコは箸で厚めの卵焼きをつかみながら、恐怖とも嫌悪とも取れないような曖昧な表情をして言った。

 「そっか。でも、怖いよね。若い女性ばっかり狙って目を抉り取るとかさ。その『眼球男』ってやつ、絶対変態だよ」

 「……確かにね。ところでその『眼球男』、抉り取った眼球ってどうしてるんだろうね」

 ナナコの発した言葉でさらに興味が沸いたのか、ミカはミニハンバーグを口へ運びながら疑問を呟く。私はそんなミカの疑問に対し、フルーツ代わりに入っていたプチトマトを口に放り込みながら適当に答えを返す。

「さぁ。食べてるんじゃない?」

そう言ってプチトマトを奥歯で噛み潰すと、口の中に特有の青臭さが広がった。やっぱり、プチトマトをフルーツとして扱うのはおかしい。帰ったらお母さんにも言っておこう。

 そんなことを考えながら咀嚼を続けていると、左隣に座るアカリが両手で自分の肩を抱いて仰け反った。

 「きもっ! まじむり! ……ってか、サキ。これご飯食べてるときに出す話題じゃないでしょ!」

 「そうだよ。なんで今話すかなぁ」

 アカリとナナコは、まるでやんちゃな幼稚園児でも眺めるかのように、じっとりとこちらに目を向けてくる。その隣ではミカが口元に薄らと笑みを浮かべながら、そのようすを楽しそうに傍観している。

 わたしはそんな三人にそれぞれ目を向けると、諦念の息を吐きながら仕方なく謝罪の言葉を口にした。 

 「ごめんごめん。ほら、私お手製アスパラのベーコン巻きあげるからさ。これで許してよ」

そうして自分のランチボックスから、つまようじに刺さったアスパラのベーコン巻きを二つ取り出すと、二人は「サンキュー」「ありがと」と礼を述べながらそれを受け取った。

 

 ***


 最近、私たちの住むこの街で、とある噂が流れている。都市伝説や怪談といってもいいかもしれない。なんでもその噂によると、日が完全に落ちて辺りがすっぽりと夜の闇に包まれる頃、街のどこかに黒いレインコートを着た怪人が現れ、一人で夜道を歩く若い女性を襲っては、眼球を片方だけ抉り取っていくらしい。そして、その現場には必ず銀のスプーンが目印として置かれてあることから、他の学校では『スプーンマン』だの『匙男』だのと呼ばれているらしいが、私たちの高校では、『眼球を抉り取っていく』という点に着目し『眼球男』と呼び方が統一されている。また、『マン』や『男』など、男性を主張するような呼び方をされてはいるが、実際は「腰の曲がった老婆だった」とか、「ランドセルを背負った小学生だった」とか、あるいは「背中に黒い翼の生えた悪魔だった」など、その容姿はどれもばらばらで、『黒いレインコート』『眼球を抉り取る』『スプーンを置いていく』ということだけが共通している状態のため、一体どれが正しい情報なのかは今のところ定かでないようだ。

……と、如何にもそれらしく語ってはみたものの、私はその噂がすべて完全なるデマであることを知っていた。


 ──何故なら、その噂を考え、この街に住む中高生を中心に広まるよう流したのが、他でもないこの私自身だから。


 もちろん、北高の女子生徒がその『眼球男』を目撃したというのも、真っ赤な嘘だ。

 そもそも、それほど大きくもないこの街でそんな事件が起こっているなら、もっと大々的にメディアに取り上げられているはず。

 それなのにみんな、実在しない怪人に怯え、こうして勝手に噂を伝播している。全く、アカリもナナコもミカも、みんな馬鹿だ。科学が発展して、霊の存在だって否定されようとしているこの時代に、世間の目が厳しくなって子供に話しかけるだけで通報されてしまうようなこの優れた時代に、そんな変出者が実在するわけないじゃないか。みんな、もっと世間に対して懐疑的になった方がいい。

 そもそも、どうして私がこんな噂話を考え、周りに広めようとしたのか。それは単に、日常が退屈に思えてならなかったから。

朝起きて学校に登校し、将来何の役に立つかもわからない授業を受けて家に帰り、そして眠る。

そんな、同じことを繰り返すだけの毎日に私は辟易していた。何か、この退屈な日常をぶっ飛ばすような刺激が欲しかった。

 だから私はこんなくだらない噂話を考え、あらゆる手を駆使して、この噂を街に流したのだ。

そうして、パンケーキにメープルシロップが少しずつ染み込んでいくみたいに、流した噂が少しずつ街に浸透していくのを観察するのは、自分でも驚くくらい胸が躍った。街で偶然すれ違った名前も知らない少女たちが、私が創り上げた妄想に恐怖している姿は、見ていてとても愉快だった。

と、そんなことを心の奥の部分で秘かに思いながら、私はいつものように自然な表情を張り付けて、目の前の三人に目を向ける。

すると、私がさっきあげたアスパラのベーコン巻きを食べ終えたアカリが、「あ、そういえばさ」と舵を切って話題を違う方向へと向けだした。私は、静かに耳を傾ける。

「……数学の園田の噂聞いた?」

「なにそれ?」

ちょうど口の中のものを飲み込んだナナコが尋ねる。

「あいつ、毎晩SMクラブ通ってるらしいよ」

華の女子高生の口から『SMクラブ』なんて単語が出てきたことに笑いを堪えていると、一足早く昼食を食べ終え、ランチボックスをブルーのバンダナで包み始めたミカが小さく口を開いた。

「ふーん。なんか、眼球男より、そっちの方がキモい気がする」

 明らかに園田を教師とは思っていない口ぶりで呟くミカ。それを聞いたアカリはケラケラと笑い声をあげながらミカの意見に共感してみせた。

「確かに。ってか、眼球男の正体も園田だったりして」

 自分から「昼食時にする話ではない」などと言い出しておいて、結局その話に戻ろうとするアカリに、私たちは思わず苦笑を浮かべる。

「でもまぁ、眼球男も園田の性癖も、所詮は噂話だしね。それより今は、夏休みの予定の方が大事でしょ」

昼休みも終わりが近づいてきたということで、ナナコが上手く話を切り上げ、一か月後に迫った夏休みについての話題を持ち出した。

正直、もっと『眼球男』の話で盛り上がるものだと思っていたけれど、まぁ仕方ない。噂は、頭の片隅にひっそりと残るから噂たり得るのだ。今後も噂が廃れず、尚且つ過剰に注目を集めぬよう、情報の流出を上手く操作しなくては──。

そんなことを考えながら、私は窓から差し込む七月の日差しに目を向けた。


 ***


 夏休みまで、残すところあと二週間となった。

 ここ数日、気温が三十度近い真夏日が続いたこともあって、今日は朝から雨が降っていた。曇天の空から零れ落ちる雨の一粒一粒が夏の熱気を孕んでいるせいか、太陽が出ている時よりも二割増しで蒸し暑く感じる。

 どうにかこの蒸し暑さを解消できないものかと、机に隠れて夏用セーラー服の胸元や膝丈のスカートをパタパタと仰いでいると、ちょうど四限終了の鐘の音が構内に鳴り響き、教壇に立っていた担任兼化学教師の椎名先生が授業を閉めに入った。

「今日やった電気分解もテスト範囲だから、しっかり復習しとけよ。それじゃあ日直、号令よろしく」

 起立。礼。ありがとうございました。

 他の授業ではまともにあいさつをしない生徒も、椎名先生の授業に限ってはしっかりと挨拶を返す。それは椎名先生がこの学校で最も若く、顔立ちも整っているからということもあるが、それよりも生徒の興味をひくような授業を積極的に行うように心がけているからというのが一番の要因だろう。椎名先生を苦手とする生徒は少ないように思われる。

そんな色白キューティクルヘアーの椎名先生が教室を後にするなり、アカリ、ナナコ、ミカの三名がランチボックスを持って、いつものように私の席までやってきた。

 「いやぁ、椎名っちの授業はやっぱり面白いね。どっかの数学教師とは大違いだ」

 「アカリ。それ園田に聞かれたら何されるかわかんないよ」

 「ちょっとサキ! 怖いこと言わないでよ。この歳で妊娠とかマジ泣くから」

 「いや、誰もそこまでは言ってないけど」

 半袖から伸びた細い腕を粟立たせ、首をぶんぶんと横に振るアカリに静かに突っ込みを入れる。

 「こら、サキ。アカリをいじめるんじゃないの。それにアカリも、あんまり教師のこと悪く言うもんじゃないよ」

 まるで母親のようにやさしく注意を促すナナコに、私とアカリは間延びした返事を返す。その様子をまたもや傍から眺めていたミカは、私の隣の席から椅子だけを引き寄せ、静かに腰を下ろしながら口を開いた。

 「それより、早く食べよう。五限はあいつの数学なんだし」

 「あー、そうだった。あいつ、いつも教室来るの早いからね」

 そういってアカリが席につき、続いてナナコが腰を下ろした。

 結局、私たちがランチボックスの蓋を開いたのは、鐘がなってから五分が経過した頃だった。


 そうして、昼食を食べながら昼休みの半分を夏休みの予定について話し合っていたところで、ナナコがふと思い出したかのように声を上げた。

 「あっ」

 海用の水着をいつ買いに行くかの話に夢中になっていた私たちは、その声によって一度話を中断し、一斉にナナコの方を向く。

 「どうしたの?」

 アカリが不思議そうにそう尋ねると、ナナコは「本当は朝のうちに話しておこうと思ったんだけど」と言って、あからさまに表情を曇らせた。アカリとミカは、そんなナナコの表情を見てもナナコが何を言おうとしているのか見当もついていないようだったけど、私は彼女の表情を見て、彼女が言わんとしていることがなんとなく理解できた。

「うん。話してみて」

私がナナコに向かってできる限り優しく言葉をかけると、彼女は持っていた箸をランチボックスの上に置いてから訥々と話し始めた。

「実は、例の噂の件なんだけど……」


──ビンゴ。

ナナコが話そうとしているのは、やはりあの『眼球男』の噂についてだ。おそらく、私の知らないところで噂が徐々に拡大し、ナナコの耳にまで届いたのだろう。自分の広めた噂が巡り巡って戻ってくるなんて、まるで飼い主になついている犬みたいじゃないか。噂の内容は物騒だが、なんだかだんだん愛着のようなものが沸いてきた。

それに、食事中にこの話をすることを嫌っていたナナコが話そうとするくらいだから、きっと面白い噂になっているに違いない。

私は口元が緩みそうになるのを何とか抑え、ようやくナナコが話そうとしていることを理解したアカリとミカと共に、その続きに耳を傾ける。

「あのね。今朝、地方ニュース観てたんだけど、また被害者が出たみたい

なんだよね……」

「えっ?」

その声は、意外にも私自身の口から飛び出た。

すると、それまでナナコに集まっていた視線が一斉にこちらに向く。

「あぁ、ごめん。少し驚いちゃって。気にしないで」

そう咄嗟に言葉を返して、引き続きナナコの話に集中しようするけれど、、今しがたナナコが発した言葉が気になって、それどころではなかった。私は一人、考える。


──待て。今、ナナコは何て言ったんだ?

「また被害者が出た」……そう言ったのか? それに「地方ニュースを観ていたら」とも言っていた。だけど、それはおかしい。


……だって、あの噂には〝また〟は無いんだから。

私が創り上げ、私が広めた妄想なのだから。

実際に事件なんて起きるはずがない。


私は一人困惑しながらも、再び話し始めたナナコに耳を傾ける。

「昨日の夜、高瀬森公園で南中の女子生徒が襲われたみたい。バットか何かの硬いもので頭を強く殴られて気絶してる間に、左目を抉り取られてたって」

「……マジか」

昼休みの一際にぎわう教室で、私たちだけの周りだけが、ぐっと温度が下がったように感じられた。

アカリはしばらくそれに続ける言葉を探した後で、ナナコに対していくつか質問を繰り出した。

「そ、それってホントの話? ナナコの作り話とかじゃなくて?」

アカリの『作り話』という言葉に、思わず体がびくりと反応する。

すると、ナナコは「ホントの話」と返すと同時に、自分のスマートフォンを私たちに向けて差し出してきた。

ナナコのスマホのディスプレイには、さまざまなジャンルの記事を読むことができるニュースアプリが開かれてあって、そこには私たちが住む街の名前と『昨夜、高瀬森公園で中学三年生の女子生徒が何者かに襲われ、左眼を摘出された』という記事が書かれてあった。

「本当みたいだね」

少し上ずった声でミカが呟く。

「あと、ここも見て」

そう言ってナナコが指をさして示す部分に目をやると、『現場には銀のスプーンが残されており』という一文がはっきりと読み取れた。

「……ね?」

私たちはそう言って確認するナナコにスマホを返却すると、互いに顔を見合わせて言葉を探った。


……きっと、アカリもナナコもミカも、驚いているんだろう。噂がいよいよ噂じゃなくなってきたことに。頭のおかしい犯罪者が夜な夜な街に繰り出しては、若い女性を襲う場面をリアルに想像しているのかもしれない。端的に言えば、彼女たちは恐怖している。それは私も同じだった。


ただ、私が抱いている恐怖は、彼女たちとは全く質の異なるものだった。


私が生み出し、広めたただの妄想が、今こうして現実に事件として起こっている。

これは何かの偶然だろうか? 私ごときが思いつく噂、別の誰かが思いついて、実際に行動に起こす輩がいてもおかしくはない。

また、さらに偶然が重なって、その事件がこの街で起こる可能性もゼロではない。


しかし、……しかしだ。

そんなこと、現実的に考えてあり得るだろうか?

私の噂をもとに、誰かが行動を起こしたと考える方が、まだ納得がいくんじゃないだろうか?

さらに言えば、面白半分でそのような噂話を生み出し、流してしまった私自身が『眼球男』であるとも言えるんじゃないだろうか?

そう考えると、流石に笑ってもいられなくなる。

「ま、まぁ……、その女の子も命に別状はないって記事に書いてあったし、今頃警察が調査してくれてるだろうから大丈夫でしょ!」

空に浮かぶどす黒い雨雲以上に重く苦しい空気を、撥ね飛ばすようにアカリが口を開く。

気づけば、昼休み終了まで残り五分を切っていて、周りはそそくさと次の授業の準備に移っている。対して、私たちの手元にあるランチボックスの中身は、全員が未だ半分ほど残っている状態だ。

四限が終わった直後の時点では、それなりにお腹がすいていたはずだったのに、今はもうおかずがのどを通らない。

「……とりあえず、話はこの辺にして授業の準備しようか」

「そうだね。なんかごめん。変な話しちゃって」

ミカの提案にナナコが賛同し、申し訳なさそうに頭を下げる。

私はそんなナナコに対して、「私のせいだから謝る必要なんてないよ」とは言えなかった。噂に乗せられて感情を支配されている彼女たちを「馬鹿だ」と見下していた私が、今度は彼女たちに見下されるんじゃないかと思ったら、怖くて怖くて言い出させなかったのだ。

だから私は代わりに「日本の警察は優秀だからね」なんて、笑って誤魔化してしまった。


そうして、私たちは自分の席に戻ってランチボックスを鞄にしまい込むと、それと入れ替わりで数学の教科書やノートを机の上に並べた。教室前方の扉から、頭を禿げ散らかした小太りの数学教師──もとい園田が入ってきたのは、それから三十秒後のことだった。

園田は両手に抱えていたプリントを教卓に乗せると、一瞬、教室中央の席に座るアカリを強く睨んだように見えた気がした。


***


 その日の夜、私は自分の部屋に籠って、学校でナナコから聞いた話をもう一度調べてみることにした。夢ではないことを確認するために。

ベッドに横になりながら、スマホで『高瀬森公園 少女』とキーワード検索をかけてみると、案の定一番上に昼に見た記事が出てきた。

……やっぱり現実だ。現実だったんだ。

そうして妙な不安感を抱きながらその記事を開いてみると、そこにはやっぱり私が考え、私が広めた噂通りの事件が記載されていた。


『七月十八日(木)午後七時頃、S市高瀬森公園で、学校から帰宅途中だった南中学校三年生の春日井翔子さん(十五)が何者かに鈍器で頭部を強打され、気絶している間に左眼を摘出されるという事件が起こった。現場には銀製のスプーンが残されており、現場付近の監視カメラには黒のレインコートを身に纏った人物が立ち去る様子が記録されていた。

尚、翔子さんは高瀬森公園を散歩中だった通行人の女性に、血を流して倒れているところを発見され、その後すぐに救急搬送されたこともあり、命に別状はないとのこと。しかし、未だ犯人は逃走中のため、夜間に外出する際は十分に注意をしてもらいたいところだ』


 私はその記事を何度か読み返しながら、「どうか、事件がこれで終わりますように。これ以上、被害者が出ませんように」と、ただただそう強く願った。

……そうすることしか、できなかった。

それから私は、スマホのディスプレイの明かりを消してベッドから立ち上がると、そっとカーテンの方に近寄り、覗き見るように窓の外に目をやった。

外はもうすっかり夜の闇で覆われていて、シトシトと降り続いていた雨も既に

止んでいた。


──ただ、どこかから聞こえてくる警察車両のサイレン音だけが、夜の街を濡らすかのようにいつまでも、いつまでも、響き続けていた。


***


 あくる日の朝、私はカーテンの隙間から差し込む日差しで目を覚ました。

未だ眠気の抜け切らない瞼を擦りながら、のそのそとベッドから起き上がる。そうして光の差し込む方向へ近寄りカーテンを開くと、空には一日ぶりに見る青空が広がっていた。

昨晩はずっと胸のあたりを大きな不安感が漂っていて、あまりよく寝付けなかった。

これは、間違いなく居眠りコースだな……。

そんなことを考えながらも急いで身支度を済まし、食卓へと向かうと、テーブルにはいい感じに焦げ目のついたトーストとブルーベリージャムが準備されていた。私は席に着くと、リビングにある三十二型の薄型テレビで朝の情報番組をぼんやりと眺めつつ、ジャムをトーストに塗っていく。両親はいつも朝早くに家を出て会社へ向かうため、リビングにはテレビから聞こえてくるアナウンサーの声と、トーストを齧る音だけが響いている。


 『昨夜二十二時頃、Y県S市の──』


サク。サク。サク。

一口齧るたびに、トーストに塗られたブルーベリージャムの程よい甘さと酸味が口の中に広がっていく。

やっぱり、朝はトーストに限る。「日本人なら米を食え」なんていう人もいるけど、知ったもんか。私はこれからもトーストを食べ続けるぞ。


『椿公園付近の歩道で──』

 

サク。サク。サク。

そうして何度か咀嚼を繰り返していくうちに、だんだんと脳が活発に働くようになってきた。薄らと靄がかかっていた意識がはっきりとしていく。

 私は、それまでトーストに向けていた意識をテレビの方へ向け、残り僅かとなったトーストを口へ近づけると、口の中のトーストをしっかりと飲み込んでから大きく口を開いた。

 そして、勢いよくトーストに齧り付こうとしたその瞬間、私はテレビから流れてきた聞き覚えのその名前を耳にして、あらゆる動きを停止した。


 『市内の高校に通う、タケモトアカリさんが何者かに襲われるという事件が発生しました』


「……は?」

大きく開いた私の口からは、無意識のうちに理解不能の意味を表す言葉が漏れ出ていた。


……今、このアナウンサーは何て言ったんだ? 

『タケモトアカリ』そう言ったのか?


私はトーストに向けていた視線を、テレビ画面の方にゆっくりと移す。

するとそこには、見覚えのある公園と見覚えのある名前が映し出されていた。

「うそ……」

 これまた無意識のうちに零れ出たその言葉を否定するかのように、アナウンサーは淡々と話を続ける。

 『明里さんは背後から鈍器のようなもので頭を強く打たれたあと、左眼を綺麗に抉り取られていており、現在、病院で治療中とのことです。

 S市では、先日も市内の女子中学生が同様の手口で襲われるという事件が発生しており、警察は同一犯のものとして捜査を進めている模様です』

 

 アナウンサーが事件の詳細を話し終えると映像はスタジオの様子に変わり、司会のタレントと犯罪に詳しいコメンテーターが口をそろえて「怖いですねぇ」と難しい顔をし始めた。

しかし、残念ながら彼らが事件に対してどんな感想を抱いたのか、私の耳に届くことはなかった。


……アカリが、そんな馬鹿な……。


頭の中は、耳にした事実を否定することでいっぱいだった。

私は、食器を残りのトーストごとキッチンの流しに置くと、テレビの電源を消し、カバンを持って家を飛び出した。


一刻も早く、自分の目でその事実を確かめたかった。

ひょっとしたら、ニュースで報道されていたのはただの同姓同名で、私の知る竹本明里はいつものようにニコニコと笑みを浮かべながら教室でナナコたちと談笑しているかもしれない。

私の知らないタケモトアカリさんには申し訳ないが、アカリが無事であることを心の底から喜ぼう。


……けれど、そんな淡い希望は学校の正門が見えてきたところで無残にも砕け散った。


「ねぇ、ニュースみた?」

「みたみた! 竹本って二組のでしょ? やばいよね」


「これ、明日からワンチャン休校あるんじゃね?」

「それは神!」

「いや、おまえ、不謹慎だろ」


まるで他人事のように話を続けるゴミ共。それに加えて、カメラやマイクを構えてインタビューを行う、マスコミという名のクズの集まり。


そこには、現代社会が生んだたくさんの悪魔たちが、吐き気を催すような汚い表情を浮かべて佇んでいた。

 私はそんな悪魔たちの間を通って校舎に入ると、そいつらから逃げるようにして教室へと駆け込んだ。

 しかし、安心を求めて逃げ込んだはずの教室も外と変わらぬ地獄だった。

 「……アカリ、アカリが……なんで……どうしてよっ!」

 「少し落ち着こう、ナナコ」

 「落ち着けるわけないじゃない! ……なんで! どうしてアカリなのよ‼ ねぇ、答えてよ、ミカ!」

 自分ひとりじゃ許容できない怒りと悲しみ。そして、犯人に対する強い憎しみ。

 いつも冷静で、物事を丁寧に観察しているナナコが、大きな瞳から涙をとめどなく流し、白く細い喉から何度も何度も嗚咽を洩らしている。

 ナナコだけじゃない。ミカも、それ以外のクラスメイトも皆、信じられないことが実際に起こってしまったせいで、表情がほとんどない。

 「ナナコ、ミカ……」

 私は縋り付くように二人の名前を呼び、近づく。

 「……ねぇ、サキ。どうしよう……。アカリが、アカリがっ!」

 「…………」

 私は子供のように泣きじゃくるナナコに、一言だって言葉をかけることはできなかった。そんな私の代わりに、教室内には始業の鐘の音が響き渡り、同時に教室前方の入り口から担任の椎名先生が教室に入ってきた。

 「……とりあえず、みんな席に着け」

 明らかにいつもと雰囲気の違う椎名先生の言葉に、私たちは静かに従う。

 「みんなも知ってる通り、昨夜竹本が何者かに襲われた。現在、病院で治療中だそうだ」

 窓の外では、他の先生たちがマスコミの対応に追われ、教室では何人かのすすり泣く声と時計の秒針が時を刻む音だけが響き、空は真っ青に晴れ渡っているにもかかわらず、室内は暗く落ち込んでいる。

 「いろいろと思うことはあると思うが、とりあえずみんなは授業にだけ集中してくれ。冷たい奴と思われるかもしれないが、どうか頼む」

 正直、こんな時までくだらない授業をする必要がどこにあるんだとは思ったが、それ以上に私は自分自身が起こしてしまった、あまりにも重すぎる罪について考えるので忙しかった。


 まさか、ただの退屈しのぎと考えていた噂が、現実のものになるだなんて思いもしなかった。

一昨日の女子中学生に続いて、アカリの人生までめちゃくちゃにしてしまった。

犯行を行ったのは『眼球男』を模倣した犯人だとしても、そもそもの現況を作ったのはこの私自身だ。

 耐えられない。こんな罪悪感には、私は耐えられない。

 今すぐ誰かに打ち明けたい。胸に溜まるこの感情を、誰かに半分持ってもらいたい。


……もう、怖いなんて言ってられない。

次の犠牲者が出る前に、私自身の手で何とかしなくては──。


私は鉛のように重く沈み込む雰囲気の教室で一人、静かにそう決心した。

 

***


 放課後にもなると、校内には普段と変わらぬ雰囲気が流れ始めた。特にアカリと接点のない生徒からしてみれば、まぁ、当然の結果だろう。

 朝、校門の前にしつこく張り付いていたマスコミ関係者たちは、教師の尽力が功を奏したのか綺麗にいなくなっている。

 私は、そんないつも通りの日常が流れ始めた校内の様子を、今は全く使用されていない、とある空き教室の窓からぼんやりと眺めていた。

時刻は午後五時を少し過ぎたところ。部活動に所属していない生徒のほとんどは、もうすでに帰宅し、校内に残っている生徒は残り僅かだろう。

そんなことを考えながら、空き教室の黒板上部に掛けられているアナログ時計に目を向けていると、カラカラと小気味のいい音を立てながら教室前方の扉が開かれ、外から一人の女子生徒が教室へ入ってきた。

 「ごめん。待った?」

 彼女はそう言うと、小さな笑みを浮かべながらこちらに向かって足を進める。

 「ううん。大丈夫」

 「そう。なら、良かった」

 彼女──ミカは、そうしてほっと安心したように目をそっと閉じると、私の向かいの席に腰を下ろして再び口を開いた。

 「それで? 話っていうのは何? アカリのこと?」

 「うん」

 「そっか。ナナコは呼ばなくて良かったの?」

 「……きっと、ナナコが一番ショック受けてるだろうから、これ以上背負わせたくなくて」

 その言葉の半分は本心だったけど、残りの半分は言い訳だった。

 誰かにすべてを話す決心はついたけど、それを複数の人物に伝えるのは、やっぱり怖かった。

 だから私は、幼稚園に入る以前からお互いのことをよく理解し合っているミカにだけ、真実を話すことに決めた。

 「あのね、ミカ」

 「うん」

 私は、震える唇ですべてを語る。

 「……あの噂、全部嘘だったんだよ」

 「嘘?」

 「黒いレインコートを着た怪人が、女の子を襲って眼球を奪い去っていくっていうあの噂、全部私が考えて、私が流したんだよ」

 今、ミカがどんな表情をしているのか、俯いている私にはわからない。ただ、彼女が静かに私の話に耳を傾けているということはわかる。

だから私は、ミカが何かを言う前に全てを語り終える必要がある。

 「最初はただの退屈しのぎのつもりだったんだ。私が考えて流した適当な噂に、街の人が本気で怯えている姿が滑稽で、愉快で、面白くて、それで……」

 私は続ける。

 「だから、まさかこんなことになるだなんて思ってなかったんだ。……でも、中学生が、アカリが襲われて、なんとかしなきゃって思って……ごめん。謝って済むことじゃないのはわかってる。でも、もうどうしようもなくて、一人で抱えきれなくて……本当にごめん」

 言葉を発しているうちに、私の瞳から涙が零れ落ちた。

 自分がどうして泣いているのかわからなかった。

 悲しいのか、悔しいのか、それともまだ怖いのか。わからなかった。

 だけど、一度溢れ出した涙はなかなか止まってくれなくて、最後には子供のように泣き声まで上げてしまった。

 いや、〝子供のように〟ではない。私は、子供そのものだ。悪戯がばれて、大人に叱られようとしている子供となんら変わりはない。

 なんて情けないんだろう。なんて愚かなんだろう。

 ……きっと、ミカも呆れてるんだろうな。

 そんなことを思って嗚咽を洩らしていると、正面に座るミカがぐっと腕を伸ばして机越しに私をそっと抱きしめた。

 「大丈夫。大丈夫だよ、サキ」

 「ミカ……」

 「悪いのは、その『眼球男』だよ。サキは何も悪くない」

 それが本心かどうかはわからなかった。だけど、その言葉は驚くくらいに優しくて、穏やかで、私は罪悪感ごとミカによりかかってしまいそうになった。

 「……私が、私があんな噂を流さなければ、こんなことにはならなかったのに……! 私のせいで、アカリが……‼」

 「ずっと一人で抱えてて、辛かったね。……もう、大丈夫だから」

 私は厳しく叱ってもらいたかった。怒ってもらいたかった。軽蔑してほしかった。

 それなのにミカは、そんな私を「悪くない」といって慰めてくれた。

 私はそんなミカに対して「どうして」とは聞けなかった。代わりに、私は自分の覚悟を伝えた。

 「……私が、犯人を捕まえる」

 「サキが?」

 これはケジメだ。自分が犯した過ちに決着をつけるには、もうこれしかない。

 「でも、危ないよ。警察に任せておいた方がいいよ」

 ミカは、不安そうに眉を下げて言う。私はそんなミカの言葉の意味を十分に理解しつつも、静かに首を横に振る。

 「……確かに、ミカの言うことは正しい。ただの女子高生が、性別も顔も体格も知らない犯罪者を捕まえられるはずがない。仮に犯人を見つけ出したとしても、返り討ちに合うのは目に見えてる。……それでも、これは私がやらないといけない。無関係の人が襲われているのに、自分は人に任せて隠れることなんてできない」

 そもそも、警察にすべてを話したところで信じてもらえるわけがない。

突然女子高生がやってきて「私が噂を創って流しました」なんて言い出したら、それこそ頭のおかしい少女として取り調べを受けることになりかねない。

だから、やるとすれば現行犯で逮捕するしかない。何とか、自称『眼球男』の正体を突き止めて、警察に連絡するしか方法はない。

そんなことを考えていると、ミカが私の両手をそっと包み込むようにしながら、小さく口を開いた。

 「それじゃあ。私もやるよ」

 「えっ」

 私の口から、困惑の声が零れる。

 「犯人捜し。私にもやらせて」

 ミカは私の目をじっと見つめながら静かに、だけど反論を受け付けないような強さでそう言った。

 「サキを一人になんてできない。それに、一人より二人の方が犯人捜し捗るでしょ?」

 「でも……」

 本当なら、危ない目に合うのは私だけにしたい。関係のないミカを巻き込みたくはない。もし、アカリに続いてミカまで襲われてしまったら、私は……。

 そこまで考えてもう一度ミカに目を向けるけれど、彼女の瞳は変わらずまっすぐに私の方を向いていて、何を言われても答えは変わらないと訴えかけているようにも見えた。

 私は手の甲で涙を拭い取ると、短く息を吐きだしてからようやくミカに言葉を返した。

 「わかった。……でも、一つ約束して。もし、危ないと思ったらすぐに逃げるって」

 するとミカは、満足そうに笑みを浮かべながらこう答えた。

 「うん。約束する」


 こうして、私たちは早速今夜から犯人捜しを始めることにした。

 それにあたってまず初めに行ったのが、自称『眼球男』が次に訪れる場所の推測だった。

 しかし推測とはいっても、流石にデータが少なすぎる。

最初の事件が起こったのが『高瀬森公園』。そして、今回の事件が起こったのが『椿公園』。どちらも、特別人通りが少ないというわけではなく、街灯だってそれなりに設置してあるから人目につきにくいということでもない。監視カメラだって、しっかりと備え付けられてある。共通点と言えば、そのくらいのものだ。

 私たちは真っ赤な夕陽が差し込む静かな教室で、向かい合いながらスマホの地図アプリを開いて犯行の起こった場所にピンを立てていく。

 「どっちも公園で犯行が行われてるけど、これには何か意味があるのかな」。

 「どうだろ。正直、この二件だけじゃ何とも……」

 私は「うーん」と唸りながら首を傾げるミカにそう返すと、机の上のスマホに目を向ける。

私たちの住むこの街には、『公園』と名前の付く場所が五か所存在している。

 『高瀬森公園』、『椿公園』、『河南公園』、『かもしか公園』、そして『すみれ公園』。

 それらの公園はそれぞれ街を囲むように存在していて、今回眼球男が現れた二ヵ所は一キロメートルも離れていない位置にあった。

 もし、眼球男が『公園』に拘って犯行を行っているのなら、今夜あたり、まだ犯行が行われていない三か所のうちのどこかに現れるはず。すでに犯行の起こった現場には、そもそも近づこうとする人がいないだろうし、何人もの警察官が見回りをしているわけだから候補から外してもいいだろう。

 しかしそれでも、どこか一か所に絞り込むことはできない。せめて、何か法則のようなものを見つけられれば……。

 そんなことを考えながら、スマホに表示された地図を睨んでいると、突然ミカが小さく声を上げた。

 「あっ」

 「……どうしたの? 何かに気が付いた?」

 「ううん。気が付いたってほどじゃないけど、ネットの掲示板とかに目撃情報とか書かれてないかなって思ってさ」

 ……掲示板。確かに、それは盲点だった。

 この眼球男の噂は、私が思っていた以上に濃く早く街に広まった。それなら、ネットの書き込みやSNSで何か情報が書かれていてもおかしくはない。

 「……うん。調べてみよう」

 そう言って私たちは、それぞれ手分けして『眼球男』に関する書き込みサイトやSNSでの情報収集を開始した。すると、五分もしないうちに「眼球男らしき人物を目撃した」という書き込みを発見した。

 けれど、ネットの書き込みなんていうものは、その大半が出まかせだ。そもそも、その噂自体、私が勝手に考えて流した出まかせだったのだから。それでも、今はそんな書き込みに頼らざるを得ない状況に陥っている。

 私は早速その書き込みがされているページを開くと、ミカにも見えるようにスマホを傾けて読み上げる。

 「『一週間くらい前に、河南公園で目玉が繰り抜かれた猫の死骸見つけたんだけどさ、これって眼球男の仕業じゃない?』……だってさ」

 「河南公園……」

 ミカは少し吊り上がった切れ長の眼をそっと細めて呟くと、自分のスマホで何かを検索しはじめ、それからしばらくして「やっぱり」と小さく声を洩らすと、自分の呟きを投稿できるSNSのホーム画面を私に向けた。

 「多分、その書き込みがされたのと同じ日に、それと同じこと呟いてる人がいる」

 私は、検索エンジンに「河南公園 猫」と入力されたその画面に目を向けると、そう言ってミカが示す呟きに注目する。

 「ホントだ。書いてある」

 そこには確かに、ネットの書き込みサイトに書かれていた内容と同じことが書かれてあった。それも一人や二人じゃない。複数の人物が、同じ日に同じ場所で、眼球を抜き取られた猫の死骸を発見したと呟いている。

 「これが本当に眼球男の仕業なんだとしたら、やっぱり何か法則があるのかもしれないね」

 「うん。きっと何か──」

  そう言葉を言いかけたところで、私はふとあることに気が付いた。

 「……サキ?」

 私は、そう声をかけるミカに返事を返すのも忘れて、今一度地図アプリを起動させる。

そうして、ピンの立った高瀬森公園と椿公園に加えて、書き込みにあった河南公園にピンを立てた。

 「……そっか。そういうことか」

 「何かわかったの?」

 私は、顔をあげて尋ねてくるミカに開いた地図アプリの画面を見せると、人差し指で地図を指し示しながら説明を始めた。

 「ネットの書き込みやSNSの呟きを見る限り、眼球男の最初の犯行が行われたのは、この『河南公園』だよね」

 「うん。ひょっとしたら、その前にもどこかで事件を起こしてるのかもしれないけど、調べた限りはそうみたい」

 私はミカの返答に頷きながら、話を続ける。

 「それで、次に事件が起こったのが高瀬森公園で、さらにその次が椿公園」

 私はそう言って、眼球男が現れた場所をゆっくりと指でなぞっていく。

 するとミカも、眼球男が犯行を行う場所の法則に気が付いたのか、「なるほど」と呟いて微かに笑みを浮かべた。

 「──そう。眼球男は、街にある公園を時計回りに周って犯行を行ってる」

 私は一度スマホを机の上に置き直すと、ピンの立てられていない『かもしか公園』と『すみれ公園』にも同じようにピンを立て、地図を眺める。そうして、街に存在する五つの公園を線で結ぶと、ちょうど五角形が出来上がる。『河南公園』は街の南西に位置し、『高瀬森公園』は街の北西に。そして、アカリが襲われた『椿公園』は街の北に位置している。

 ひょっとしたら、ただの偶然かもしれない。本当は法則なんて存在しないのかもしれない。

 それでも、何の手掛かりもないよりは何百倍もマシだと思った。

 そうして、私たちはスマホの画面から静かに顔を上げると、夕陽に照らされて赤く染まる互いの顔を見合わせて言った。

 「それじゃあ、今夜は『かもしか公園』に現れるかもしれないんだね」

 「うん。法則が正しければ……だけどね」

 

その後、下校時間が近づいていたということもあり、集合場所や時刻などを確認した私たちは荷物を持って校舎を後にすると、それぞれの自宅に続くアスファルトの上を歩きながら、眼球男をおびき出す作戦について話し合った。また、明日は土曜日で学校が休みのため、くれぐれも巡回中の警察に補導されないように注意しながら、明け方まで公園を見張るということに決めて、私たちは別れることにした。

 

「それじゃあ、サキ。また後でね」

 「うん。また後で」

 そうして互いに手を振り合ったのち体を自宅のある方へ向けると、私の足元からは黒々とした深い色の不気味な影が長く伸びていた。

その影には目も口も無いはずなのに、何故だか私には、それがニタニタと嫌な笑みを浮かべているように見えて仕方がなかった。


***


 休みが明けて迎えた月曜日。

 

 いつも通り朝食のトーストを齧りながらテレビの情報番組を眺めていると、名前の知らない女性アナウンサーが、とある有名企業が脱税行為を行ったと報道していた。

画面には、脱税を行った会社の社長だという五十代くらいのおじさんが、報道陣に囲まれながら無表情で固まっている姿が映し出されている。

スタジオでは、司会者とコメンテーターが顔を見合わせて「困りますよねぇ」だの「いい加減にしてほしいですよねぇ」だのと言い合っている。

そうして、三分ほどでその話が終わると、女性アナウンサーは人格が変わったみたいににこやかな笑みを浮かべて「パンダの赤ちゃんが産まれましたー」なんて話をし始めた。

あれからまだ一週間も経っていないというのに、先週あれだけ大騒ぎされていた『眼球男事件』については、一切触れられることがなかった。まるで、最初からそんな事件起こっていなかったみたいに、つぎつぎと話が進んでいく。

私は、二人も犠牲者を出したあの事件が、すでに過去のものとされていることに恐怖感のようなものを抱きながら、トーストを口に詰め込んだ。


先週の金曜日、私とミカは予定通り眼球男の正体を突き止めるため、お母さんにもお父さんにも内緒で夜のかもしか公園へと足を運んだ。

眼球男をおびき寄せる作戦として、私が囮になって比較的人気のなさそうなところに移動し、そこに怪しい人物がやってきたところを近くの木の陰に隠れていたミカが確認して警察に連絡するという方法を採用することにした。

──しかし結果から言うと、その作戦は不発に終わった。

何故ならその日、眼球男はかもしか公園に現れるどころか、犯行を行わなかったのだ。翌日の新聞には、街はずれで小さな交通事故が起こったくらいのことしか書かれておらず、新たな犠牲者が出なくて良かったと安堵する反面、どうして犯行をストップしたのかという疑問が私の心にいつまでも残った。何か犯行を行うルールや法則がほかにもあるんだろか、なんて考えてみたけれど、さらに次の日も、そのまた次の日も同じように張り込みをしてみたものの、眼球男が私たちの前に現れることはなかった。

眼球男自身、自分が思っている以上に世間に注目されて怖気づいたのか。それとも、人間らしい罪悪感でも芽生え始めたのか。犯行を辞めた理由は定かではないけれど、どうかこのまま、何事もなくいつも通りの日常に戻ってくれたらと、そんなことを思った。


そして、今朝。

眠たい目を擦りつつも何とか学校へと到着し、靴を履き替えて教室へ向かうと、そこにはやはり、日常とはかけ離れた鉛のような重たい空気が漂っていた。

世間は日常を取り戻しつつあっても、私たちがそれを取り戻すのはまだだいぶ先の話になりそうだ。

また、教室にはアカリに加えてナナコの姿もなく、ただ一人、ミカが自分席について文庫本を開いているだけだった。私は怠さの残る体を引きずるようにしてミカの元へ近づく。

「おはよ」

「うん。おはよう。……あれから、眠れた?」

開いていた文庫本を閉じ、そう尋ねてくるミカに首を振って答える。

「ううん。ぜんぜん。これは授業どころじゃないかな」

「そっか。辛かったら、保健室行ってね」

「うん」

 ただそれだけを返すと、私は眼球男のことも、アカリやナナコのことも話題に出さず、自分の席へ向かって静かに腰を下ろした。

 そうして鞄を机の脇に掛け、腕を枕にして机に突っ伏すと、机から仄かに陽の香りが漂ってきた。手首のあたりがじんわりと暖かくて心地いい。それに、窓際の席ということもあって空の青と雲の白がよく見えて綺麗だ。

 ……それなのに、私の心は氷か泥が張り付いたみたいに冷たくなっている。胸のあたりをずっともやもやしたものが蠢いていて落ち着かない。

 私は自分の腕の中でそのもやもやの理由をゆっくりと考えながら、静かに重たい瞼を閉ざした。


 ***


 結局、私の予想通り、午前中はほとんどを寝て過ごすことになった。

 昨日……というか、今日の明け方まで張り込みをしていたんだから、眠ってしまうのも仕方がない。寧ろ、朝まで活動していたにも拘らず、普通に授業を受けているミカが異常だ。だから、何限目かは覚えていないが、椎名先生に散々注意されても起きようとしなかった私は悪くはない。

 そんなことを思いながら、現在私は貴重な昼休みの時間を削って、椎名先生に頼まれた書類を職員室から化学準備室へと運んでいる。なんでも、授業を真面目に聞いていなかった罰らしい。私は、なぜ係りの生徒にやらせないのかと多少の不満を抱きながらも、積み重なった書類を抱えて先生の後ろについて歩く。

 「おーい、急いで運ばないと本当に飯食う時間なくなるぞー」

 「そんなのわかってます」

 だけどまぁ、椎名先生だからこそこんな罰で許してくれるけど、これが他の先生だったら居残りは確実だろう。そう考えると、これはどちらかと言えばラッキーなのかもしれない。

 最近、嫌なことが続き過ぎているせいか、こんな些細なことでも幸福に思えるようになってしまっている自分にほんの少しの恐怖を感じながらも、私は椎名先生の後についてなんとか化学準備室までやってきた。

 そうして部屋の中へ入ると、嗅いだことのない奇妙な匂いが私の鼻腔をかすめた。実験か何かに使う薬品の匂いだろうか。あまり長居して制服に匂いが染みつくのも嫌だし、書類を置いたらさっさと教室に戻ろう。

 そんなことを考えながら、両手に抱えた書類を部屋の中央にある長机へと乗せると、部屋の奥にあるガラス棚に体を向ける椎名先生に声をかける。

 「それじゃあ、私、教室戻りますので」

 そう言ってこちらに背を向ける椎名先生に軽く頭を下げ、廊下に向かって足を進めようとしたところで、先生に呼び止められた。

 「あー……ちょっと」

 私はあからさまに肩を落として振り返る。

 「……まだ、何かあるんですか?」

 勘弁してください。疲れて眠いんです。午後の授業は受けずに早退しようと考えているんです。

 そう言いたいのをぐっと堪えて恐る恐る尋ねると、椎名先生はガラス棚の引き出しをゴソゴソと漁りながら、少しためらうように小さく口を開いた。

 

「……お前。金曜の夜、何してた?」


 一瞬、背筋を冷たいものが駆け抜けた。

 それまで感じていた眠気や疲労が、それ以上の〝何か〟によって押しつぶされた。

 私は震える唇を軽く舌で舐めて湿らせると、動揺を表に出さないように注意しながらその質問に答えた。

 「何って……、家にいましたよ?」

 「……そうか。なら、いいんだ」

 「話はそれだけですか? それじゃあ、私、行きますね」

 「あぁ。手伝ってもらって悪かったな」

 私は、そう言って口元に笑みを携える椎名先生に再び頭を下げると、顔を隠すように背を向けて化学準備室を後にした。

 

 どうして、先生は私に金曜日の夜のことについて尋ねてきたんだろう。

 どうして、他の誰よりも生徒のことを考えている椎名先生のことを、恐ろしいと思ったんだろう。

 どうして、先生が漁っていたあのガラス棚の引き出しに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 考えすぎかもしれない。思い違いかもしれない。

 それでも、私の中にたった一瞬だけ生まれたその疑心は、教室についてからも、午後の授業が始まってからも、消えることはなかった。


***


 とてつもなく長いように感じた七月がようやく終わりを告げ、今日から八月に入った。

 また、それと時を同じくして、約四十日間に渡る夏休みが幕を開けた。

 紺碧の空には綿あめやソフトクリームを想起させる積乱雲が浮かび、燦燦と輝く真夏の陽光は、木々の蒼い葉を透かして葉脈を露わにさせている。周りに耳を傾ければ、聴こえるのは騒々しい蝉の大合唱と部活動に励む生徒たちが奏でる青春のオブリガートだけ。それ以外、木々の枝や葉が風で擦れる音も、ノートの上をすらすらとシャープペンシルが走る音も、どこかの誰かが憂鬱な溜息を溢す音も一切聴こえない。

 私はそんな夏の音を肌で感じ取りながら、本来立ち入りが禁止されている屋上に上って、どこまでも澄み渡る街の景色を眺めていた。

 

 『眼球男事件』最初の被害者が現れてから、今日でちょうど二週間。

そして、今日までの間で眼球男に襲われた被害者の数、〝三名〟。

 私とミカが眼球男の正体を突き止めようと行動を開始してからの一週間、眼球男はパタリと犯行を辞めた。そのせいか、メディアだけでなく、事件が起こったこの街からも『眼球男』の存在は忘れ去られようとしていた。それでも、警察の捜査は引き続き行われ、犯人の手掛かりになる情報の収集などに力を入れていたが、犯人──もとい『眼球男』が捜査の網に引っかかることはなかった。

 そんな『眼球男』による新たな被害者が出たと私が知ったのは、つい三日前のことだった。

 被害者は市内の病院で働く二十代の看護婦で、会社からの帰宅途中、かもしか公園を

 横切ろうとしたところを襲われた。今回も被害者女性からは片方の眼球が抉り取られていて、現場には同じように銀のスプーンが残されていたらしい。

 私は、またあの怪人が誰かを襲ったと知ったとき、自分の中身がすべて抜け落ちてしまいそうになるほどの脱力感に襲われた。

 もう、決して被害者は出させないと誓ったはずなのに。犯行場所だってわかっていたはずなのに。それなのに、犯人の正体を掴めなかった。

……いや、今の言い方だと少し語弊がある。

 犯人、つまり私が生み出した『眼球男』を自分で演じている人物には心当たりがある。

 今日は、それについてミカに相談するため、わざわざ夏休み中で校内に生徒が少ない学校を訪れているのだ。図書館とかファミレスとか、他にも集まる場所の候補はいくらかあったけど、やっぱり誰に聞かれないような場所と言ったらここしか思い浮かばなかった。

 私は、グラウンドでバッティング練習を行う野球部員の威勢のいい掛け声に耳を傾けながら、屋上に設置されいている落下防止用のフェンスに背を預け、グラウンドを見下ろすように私の隣に立つミカに向かって話す。

 「呼び出してごめん。メールとかチャットも考えたんだけど、やっぱり会って話したくて」

 「大丈夫。気にしてないよ」

 ミカはそう言って首を左右に軽く振ると、柔らかな笑みを浮かべて尋ねた。

 「それで、話っていうのは?」

 「……うん」

 私は一度、自分の足元に出来た水溜りのように黒く丸い影に目を向けると、小さな呼吸を何度か繰り返したあとで、それに答えた。

 「……眼球男の正体さ、椎名先生かもしれない」

 「どうしてそう思うの?」

 ミカは私の口から出た意外な名前を聞いて少し驚いたように目を見開くと、少し考え込むような顔をして再び尋ねた。

私はそんなミカに向かって、そう考えるようになった理由を他の誰にも聞かれないように恐る恐るゆっくりと、そして静かに話した。

椎名先生に、金曜の夜について訊かれたこと。なぜか先生を怖いと感じてしまったこと。化学準備室のガラス棚に銀のスプーンがいくつも入っていたこと。

それらを話し終えたところで、ミカは再び考え込むように口を閉ざした。

ちょうど、グラウンドの方からは金属バットに硬球が当たって跳ね返る爽快な音が聞こえてきた。野球のことはあまり詳しくないけど、これが試合ならきっとホームランだろう。

そんなことを考えながらミカからの言葉を待っていると、ミカは私と同じようにフェンスに背を向けると、体を預けるように寄りかかりながら口を開いた。

「ねぇ、サキ」

「うん」

「仮に椎名先生が眼球男だったとして、サキはどう決着をつけようと思ってるの?」

……決着。この事件の……そして、私が生み出した怪人に対する決着。ミカはそれを訊いている。

私は、足元に向けていた視線を濁りのない紺碧の空へと向け直すと、夏の青色を目一杯吸い込むように体内に空気を取り込んでから答えた。

「多分、警察に先生のことを話しても、まともに取り合ってくれないと思う。……だから、今度こそ私が決定的な証拠を見つけて、この事件を終わらせる。もう、誰も襲わせない。今日からでも、先生の行動を監視しようと思ってる」

あの椎名先生が、街で残虐な犯行を繰り返し行っている眼球男であるという確証はない。あるのは、拭い切れない疑念だけ。

だけど、そんな些細な疑念でさえ、放っておくことはできない。少しでも、怪しいところがあるなら、調べないわけにはいかない。

私は落下防止用のフェンスから背中を離すと、隣に立つミカに体を向けて言う。

 「ミカ」

 「うん」

 「本当なら、こんなことにミカを巻き込みたくなかった。ナナコも、そしてアカリも。

 ……でも、お願い。どうか、私に協力して。一緒に眼球男を捕まえて。私が犯してしまった罪を償わせて。……私を助けて」

 親友の命を危険にさらすようなことをお願いするだなんて、こんなの友達失格だ。

 もし、この事件が終わったなら、アカリとナナコにもすべてを話そう。それで嫌われるようになっても仕方がない。私に課せられたなのだと認めよう。

 私は頭を深く下げながら、ミカの返答を待つ。

 すると、五秒もしないうちにミカの口が開いた。

 「うん。わかった。私がサキを救ってあげる。……だから、顔を上げて」

 「……ミカ」

 「一緒に、眼球男を捕まえようね」

 そう言ってミカは、目を細めて悪戯を認めた子供を許すように穏やかな笑みを浮かべると、両手を広げるようにして私を優しく抱きしめた。

 

そんなミカの制服や長い髪の先からは、夏の澄んだ匂いとは異なる、心が安らぐような甘い安心の香りが微かに漂っていた。



*** *** ***



──今度こそ私が決定的な証拠を見つけて、この事件を終わらせる。


私の隣でそう強い覚悟を口にする彼女を見て、思わず口元が緩んだ。

決して人一倍勇気があるわけでも、恐れを知らない命知らずなわけでもないにも拘らず、自分の意志でそう決め、覚悟を口にする彼女は、とても愛らしく見えた。


……ねぇ、サキ。私の可愛い可愛いサキ。

今ここであなたに「私が眼球男だよ」って告げたら、あなたは一体どんな表情を見せてくれるのかな?

驚く? 怒る? それとも悲しむ?

きっと、どれも可愛らしい表情なんだろうね。


……あぁ、言ってしまいたい。

ホルマリンで満たされたガラス瓶に入った、三人と一匹の眼球を鞄の中から取り出して、彼女の前で蓋を開けてみたい。

「眼球を抉り取るのって、結構難しいんだよ」て言って、驚かせてみたい。


だけど、それはまだダメ。これからもっと、サキの絶望する表情を観察するためにも、我慢しなくちゃ。

私は自分の中に湧き上がる欲望を何とか鎮めると、すぐ目の前に犯人が立っているだなんて思ってもいないサキの話に静かに耳を傾けた。


***


 私が初めて『眼球男』の噂を耳にしたのは、六月の終わりのことだった。

 市内の中学校に通う妹から、最近街で可笑しな噂というか、都市伝説のようなものが流行っていると教えてもらった。なんでも、夜な夜な黒いレインコートに身を包んだ怪人が街のどこかに現れ、若い女性から眼球を片方だけ抉り取っていくらしい。また、現場には必ず銀のスプーンが残されていて、街の中高生の間では結構有名な話になっているようだった。

 その噂を妹から聞いた翌日、昼休みの教室で昼食を食べていると、サキが私たちに向かって妹と同じ話をし始めた。

駅前に出たらしい。商店街にも出たってさ。あと、公園にも出たって聞いた。

まるで、宝くじでも当たったみたいに楽しそうに話すサキを見て、私はその噂が嘘であることに気が付いた。

 きっと、サキは気づいていないんだろう。

 自分が嘘をつくとき、決まって唇を舐める癖があることに。


 それは、私だから気づいた嘘だった。アカリもナナコも知らない。

 幼い頃からサキを見続けてきた、愛し続けてきた私だからこそ気づくことが出来た嘘だった。

 私には全部分かっていた。その噂を考え、街に広まるように流したのがサキであることも、同じことを繰り返すだけの退屈な日常に刺激を求めていたことも、噂を信じて怯える私たちを見て、優越感に浸っていることも。

 全部全部、分かっていた。そして、そんなサキが大人に隠れて悪戯をする子供みたいに見えて、心の底から愛らしいと思った。

 

 その日の夜、私は部屋でふとあることを思いついた。

 ──もし、自分の流した噂が現実のものになったと知ったら、サキはどんな反応を見せてくれるんだろう。

 自分が生み出した架空の怪人が、実際に街の人を襲ったと知ったら、一体サキはどんな顔をするんだろう。

 きっと驚いて、後悔して、絶望して、私に助けを求めてくる。

「どうしようミカ」「助けてミカ」……って。

 その時のサキの表情を想像するたびに、体が熱くなった。体のいろんな部分が疼いて、感情が抑えられなかった。

 そして、私はその日から、眼球男になるための計画を秘かに考え始めた。


まず私は、ネットの通販サイトで黒いレインコートと警棒、それから銀のスプーンを数本購入した。レインコートはともかく、警棒とスプーンが思ったよりも高くて、貯金の半分ほどを使うことになってしまったけど、サキのことを考えれば惜しくない出費だった。

次に、私は実際に眼球を抉り取る練習を行った。最初のうちは実験に野良猫を使おうと試してみたけど、これが案外難しい。黒いレインコートを羽織っているからか、それとも私の本性に気付いているからか、そもそも猫が捕まらない。こっそり後ろから近付いても、発達した動物の感覚器官によって逃げられてしまう。

だから結局、最初の一匹を捕まえるまでに一週間もの時間がかかってしまった。

また、猫の捕獲とは別に『眼球を抉り取る』という行為自体も、なかなかに難しい作業だった。

……でも、これは仕方がない。

だって今まで、猫でも人でも、眼球を抉り取ろうだなんて考えたこともなかったんだから。

そうして、猫での実験を終えた私は、ターゲットを猫から人間に変えるための前準備として、犯行予定の現場の下調べを行った。

 人通りが少なくなる時間帯。監視カメラの位置。そして、逃走経路の確認。

 どれも入念な準備を行い、頭の中で何度も何度もシミュレーションを重ねた。

すべては、サキの反応をより近くで楽しむため。そして、彼女の支えに……唯一の理解者になるために──。

こうして私の立てた計画は完成し、準備はすべて整った。

 

そして迎えた七月十八日。

私は女子高生の「吉田美香」から、街を騒がす怪人──眼球男に成り代わると、黒いレインコートを身に纏い、袖口には警棒を、ポケットには銀のスプーンを忍ばせて、最初の犯行現場に選んだ『高瀬森公園』へと赴いた。すると目の前には、妹と同じ学校の制服を着た少女の姿が。

私はその、名前も知らない少女の小さな後姿を見て、自分の口元が徐々に緩んでいくのを感じ取った。


……うん、決めた。最初はあの子にしよう。


街灯が照らすアスファルトの上を静かに進み、警棒を持った右手にギュッと力を込める。

これから何の罪もない少女を襲うというのに、私の胸の中には不思議と不安も恐怖も罪悪感もなかった。あったのは、サキへの強い想いと好奇心だけだった。私はそこで初めて、自分が他人とは明らかに異なっている。端的に言えば、狂っていることに気が付いた。

そして、少女との距離が残り三メートルというところまで近づくと、私はコントロールの効かなくなった自分の胸の高鳴りに合わせて駆け出し、少女の頭めがけて思い切り警棒を振り下ろした。悲鳴は上がらなかった。代わりに、低くて鈍い音が右腕を伝って私の鼓膜に届いた。

その後、頭から血を流して倒れる少女から眼球を一つ抉り取るまでに、三分もかからなかったと思う。

人間相手に眼球の摘出を行うのはそれが初めてだったけど、なかなかスムーズに行えたこともあって気分は最高だった。

 私は眼球を抉り取るときに使用したスプーンを、倒れている少女の横へ置くと、抉り取った眼球をガラス瓶に入れて持ち帰り、日付が変わる頃までずっとそれを眺めて過ごしていた。


 そして、その翌日。

 街に住む女子中学生が襲われたというニュースは、私が予想していたよりも早く皆に伝わった。昼休みにナナコの口からその話が出た時には、思わずにやけてしまいそうになった。

そして、肝心のサキはと言えば、ナナコの口から出た話がまだ完全に真実であるとは思っていないようで、酷く困惑している様子だった。


……ねぇ、サキ。あなたは今、何を考えているの? もしかして、何かの偶然だと思ってる? 自分と似たような考えを持っている人が勝手に起こしたものだって、そう思ってるの?

私は悟られないようにそっと彼女の横顔を眺めると、心の中でそんなことを語りかけた。それと同時に、次のターゲットも決まった。

その日の夜、私は公園近くの公衆電話を使って彼女──竹本明里を夜の椿公園へと呼び出すと、一度目と同様に警棒で頭を殴って気絶させて眼球を抉り取り、スプーンだけをその場に残して帰った。

被害にあったアカリ自身、まさか私が眼球男だなんて思ってもいないんだろうな。

今度、何食わぬ顔をしてお見舞いにでも行ってあげよう。一応、アカリはサキの大切な友達なんだから。


そして次の日。

私が学校に登校すると、サキはまだ学校には来ていなくて、代わりにナナコが自分の席に座って涙を流していた。嗚咽混じりに「どうしてアカリが」と何度も繰り返すその姿を見て、私はとりあえず、悲しんでいるような表情を作って「ひどいよね」だの「許せないよね」だのと慰めの言葉をかけることにした。

そんな心にもない言葉をかけ続けて十分ほど経過したところで、まるで地獄の様子でも眺めているかのような表情のサキが教室へとやってきた。


……あぁ、そっか。サキは自分の大切な友達が酷い目にあったとき、そんな顔をするんだ。知らなかったな。……でも、そんな顔のサキもすごく可愛い。

きっと今、罪悪感で押し潰されそうなんでしょ? 今すぐ誰かに告白したいんでしょ? 自分の犯した罪を、裁いて欲しいんでしょ?


わかるよ、サキ。あなたの考えていること全部。その表情を見れば、すぐにわかる。

……だから、頼ってもいいんだよ。私を。

私だけが、あなたの味方になってあげられる存在なんだから。


そんな私の心の声が届いたかのように、サキはその日の放課後、誰のいない空き教室に私を呼び出し、すべてを告白した。

自分が面白半分で噂を創り上げたこと。それを街に流して広めたこと。自分の創った噂話に怯える世間を、心の中で嘲笑っていたこと。

 私はそれらのことに対して、たった今初めて知ったかのような素振りを見せ、その上で彼女を受け入れた。「大丈夫だよ」「サキは悪くないよ」と、どこまでも優しい言葉で彼女を包み込むようにして。

 サキは私の望み通り、私を頼ってくれた。それが何よりも嬉しくて、幸福感で頭の中が満たされていくようだった。

 だけど、彼女が眼球男を捕まえると言い出したのには少し驚いた。まさか、サキにそんな勇気があるとは思っていなかったから。私は「危ないよ」と声を掛けた。もちろん、そんな言葉でサキの考えが変わらないことはわかっていたし、そもそも彼女を引き留めようだなんて最初から考えていなかった。ただ、表向きはサキの親友なのだから、それくらいのことは言っておかないといけないと思っただけ。だからこそ、私は彼女の親友として、また唯一の理解者として、彼女の手伝いをすることに決めた。

 サキが夜の公園の見張りを開始してから、眼球男による犯行が行われなくなったのは、つまりはそういうことだ。同様に、私は眼球男の噂の消失を機に、サキが見張りを中断するということを知っていたから、こうして犯行を再開したのだ。

 また、サキが椎名先生を疑うように仕向けたのも私だった。

 椎名先生がサキに対して意図の見えないような質問をしてきたのは、彼女が夜の公園の見張りをしている間、私が椎名先生に「サキが真夜中の公園で、噂の犯人逮捕に向けてのパトロールをすると言っている」と連絡をしたからだ。先生は、高校生の夜間外出について注意しようとしただけで、この事件とは全くと言っていいほど関係していない。

 サキが化学準備室で見たという銀のスプーンについてもそうだ。あれはただ単に、化学の実験で使用するためのものであって、眼球男と深い関係があるわけじゃない。

 それをサキは、面白いほど都合よく勘違いしてくれた。椎名先生こそが、眼球男である信じ、調査しようとしている。

そんなサキが、私にはどうしようもなく愛おしい存在に思えてならなかった。

 私は「犯人捜しを手伝ってほしい」と深く頭を下げて懇願するサキを、自分でもわかるほどに恍惚とした表情でじっと見つめたあとで、彼女が知る「吉田美香」の穏やかな笑みを浮かべて言った。

 「一緒に、眼球男を捕まえようね」と──。

そうして私は、彼女の柔らかくも繊細な体をそっと抱きしめると、その白い素肌や滑らかな髪から漂ってくる甘い匂いを嗅ぎながら、今にも溢れ出しそうなこの想いを繰り返し繰り返し、心の中で呟いた。



……ねぇ、サキ。私の可愛い可愛いサキ。

あなたを心の底から愛してる。この世界の誰よりも。

だから、もっと私を頼って。もっともっと、私の名前を呼んで。


好き。好き。好き。好き。好き。


これからも、ずっと、ずっと、大好きだよ。サキ──。


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