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愛もなく、存在もない


夜空を見上げると、星がチカチカと輝き、そして月がその薄っぺらい身体から、弱々しい光を発している。


「今日は……三日月だから、仕方がねえのな」


これほどの欠け月は、その鋭い形と欠けた部分の大きさから不吉な兆として、普段から忌み嫌われていた。こうして三日月を見上げていると、それの持つ意味がじわりと沁みてきて、身震いせざるを得なかった。


(太陽、月、星……)


想いが湧き上がってくる。


「俺が太陽、ニルヴァが月で、そして……ほ、星は、」


あの時はまだ、星は兄トラウルの娘ニーナであったけれど。


「ほし、は、お、俺とお前の、子だったはずなのに、」


じんっと、目の奥が痛んだ。すると次々に涙が溢れてきて、それは嗚咽までもを連れてくる。


「俺は、お前にけ、結婚を申し込み、そんでお前は笑ってくれ、て」


その場に膝から崩れ落ちる。地面に頭を擦りつけると同時に、手で掴んだ土を地面に投げつけた。跳ね返ってきた土が、顔にかかる。


口に入った土が歯をくいしばるたびにジャリといって、口の中に苦味を連れてきた。


「あああ、ニルヴァ、ニルヴァ、お願いだ。助けてくれ、神さま、神さまどうか、俺の愛する女を、」


連れていかないでくれ……


どんっと大地を叩く。その度に土が散ったが、痛みは感じない。


三日月の光が届かない黒々とした夜空に、震える声が上がる。泣き声は遠くまで響いていき、そしてバラ園にまで届いた。


✳︎✳︎✳︎


「ラドラス様、おなかを触ってみてください」


隣に座っているふっくらとしたニルヴァの腹に、ラドラスはそっと手を当てた。


陽気の良い、ある一日。少しだけ冷たさの残る風が、二人の髪をかき混ぜるように吹いていく。


赤い髪と、銀の髪。黒髪に黒の瞳が当たり前のこの世界では、こうして二人が並ぶだけでも異質な光景だ。


けれど、周りには誰一人おらず、ラドラスはいつまでもこうして二人きりでいられたらと、心から思っていた。


「いや、三人で、か」


「? 何ですか?」


「なんでもねえよ」


青々とした芝生の上で、ごろんと寝転がる。青い空はどこまでも続き、明日も明後日もまた、続いていく。


「名前は、ラドラス様がお決めになってください」


「いや、ニルヴァが決めて良い」


「いいえ、ラドラス様が」


「はああ、まったく。これではらちがあかないぞ。じゃあこうしよう。男なら俺が、女ならお前が決めるといい」


「それは良い考えです」


ニルヴァが優しげに微笑む。その顔つきは、すでに母親のそれになっている。


(ニルヴァと結婚し、もうすぐ子も生まれる……)


じんっと胸の奥が痺れる。


(ああ、これが至福というものか)


ふっくらとした腹にもう一度、手を当てる。すると、ドレス越しに赤子の動く様子がわかり、ラドラスは陽気な気分になった。


「おおお、元気に腹を蹴っているぞ」


ニルヴァもそっと、そのラドラスの手に手を重ね、そして言った。


「ラドラス様、今、幸せでございますか?」


その手を返して、握る。細く長い指を、大切に包み込んだ。


「幸せだ。幸せ過ぎるくらいだ。お前はどうだ? ニルヴァ、お前は幸せか?」


ニルヴァが顔を上げる。だが、無言だ。


「ニルヴァ?」


ラドラスがニルヴァの目を覗き込むように見る。青い瞳は、薄っすらと膜が張ったように濁って見えた。


「どうした? ニルヴァ? お前は幸せではないのか?」


それでもニルヴァの唇は、固く引き結ばれている。焦ったラドラスは、ニルヴァの肩を掴んだ。少し揺さぶってみるが、ニルヴァの様子は変わらない。


「ニルヴァ、お前を愛してるんだ。お前は? お前は俺を愛しているか?」


薄い膜がかかった瞳を見る。すると、水の上に墨でも垂らしたように、そのニルヴァの青い瞳は、みるみる黒く濁っていった。


「ニルヴァ、……俺を、愛している、か……?」


ニルヴァが黒く濁った目を、伏せる。その表情はすでに幸せな女の顔ではなく、不幸を背負った悲しみの顔となっていた。


「俺を、……愛していないのか?」


ニルヴァの肩を揺さぶる。その振動で、ニルヴァの唇がようやく動いた。


「ラドラス様、」


自分でも知らぬ間に、ごくりと唾を飲んでいた。けれど、喉が鳴ったのにも気がつかない。


「ラドラス様、私はラドラス様を愛してなどおりません」


その言葉で、ラドラスは恐怖のどん底の落とされた。


愛し合っていないのなら、お腹の中の子は一体どうして、……と。


「もしかして、また……また俺が力づくで……?」


ぞっと、背中に悪寒が走った。次に寒気がやってきて、ラドラスを覆い尽くしていく。


「う、嘘だ、俺はもうそんなことはしな、い」


自分の中の確たるものが、音を立てて崩れていく。


「そんなことはもう、しないと誓ったのだ……」


ニルヴァの顔が、ぐにゃりと曲がる。


「もう二度と、お前を、傷つけないと、」


そして、ニルヴァがその人形のような顔を下へと向けた、その時。


ニルヴァの視線を辿って、ラドラスもその視線を下げた。


「ニルヴァっっ」


ニルヴァの腹が、真っ赤な血に染まっている。さあっと広がっていく鮮血から、ラドラスは目を離すことができない。スローモーションのように、それを見ていた。


「に、ニル、ヴァ、……あ、ああ」


手を伸ばすと、ラドラスの指先も真っ赤に染まっていく。そのうちニルヴァのドレスは、真っ赤な血の色となった。


「あああ、」


ラドラスは、自分の両手を見た。べっとりと赤い。けれど、それでもラドラスはニルヴァを求めた。求めようとした。


頬に手を伸ばす。


すると、ニルヴァの生気のない頬にも、粘着質の血液が広がっていった。


「ああ、ニルヴァ、ニルヴァ、ニルヴァ」


恐怖で体が震える。


自分が何をしたとしても、自分がどう生きようとも、自分がどれほどニルヴァを愛しても、ニルヴァは不幸になる。


思い知らされた。そんな現実を突きつけられたのだ。


(俺なんかに、俺なんかに出会わなければ、ニルヴァは、)


涙が溢れた。


ニルヴァの頬についた血を、手の甲で拭う。けれど、それは綺麗になるどころか、拭けば拭くほど余計にそのどす黒さを増していく。


「ニルヴァ、」


涙で濁る視界。ニルヴァの、魂の抜けたような、呆けた顔。白すぎる肌。白すぎる……。


そして、次の瞬間。


恐怖で肝が冷えた。


さっきまで、ふくよかに膨らんでいたニルヴァの腹が、そこに何もなかったかのように、小さく、そして平たくなっている。


最初からそこには何も、存在していなかったかのように。


「ニルヴァ、ニルヴァああぁ」


ラドラスはニルヴァの名を呼び、そして絶叫した。

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