命の終わり
「ラドラス様、鎖で繋ぐなどとは……その、……やり過ぎではございませんか?」
侍女が恐る恐る声を掛けると、ラドラスは不機嫌な顔をしたまま、手に持っていたコーヒーカップを置いた。 ガチャンと大仰な音がして、カップとソーサーとがパリンと割れて散った。
「バカかっ、ああでもしなければ、あいつはまた自殺を図るぞっっ」
イライラとした様子で、机をドンと叩いた。
「……ですが、ニルヴァ様の足も、て、手首も、……繋がれた鎖で傷を負って、」
恐怖で目に涙を溜めている侍女が、さらに言葉を進めると、ラドラスはカッとなってテーブルの上の割れたカップを手で払い落とした。
カップの破片が、今度は床に散って、ガシャガシャンと音を立てる。
その音で、侍女は小さく、ヒッと悲鳴を上げた。
「傷ぐらいなんだ? 命の方が大事だろう?」
「ですが、化膿でもしたら、」
「うるさいっっ‼︎ 俺に命令するなっっ‼︎」
怒号が飛んで、侍女は慌てて頭を下げて一礼すると、部屋から出ていった。
ラドラスは、その姿を見て、苦く笑った。
ラドラスが以前、口答えをした侍女を殴り、怪我を負わせたことがあるということは、城でも有名な話だ。意識の戻らない宰相の話と併せて、この城でラドラスは手のつけられない暴君だということは、城の隅々までに知れ渡っているのだ。
「兄上も城の者もみな、俺を愚弟だと言う……」
目を伏せる。獅子のたてがみのような赤毛を手で搔き上げると、ラドラスは思い切り笑った。
「ははは、それならばお望み通り、見るも見事な愚弟とやらになってやろう」
✳︎✳︎✳︎
「ほんの少しだけ、眠ってしまったのだ」
二週間ほど前のことだった。
ラドラスがニルヴァを抱き、そしてそのままうとうとと眠ってしまった時だった。心地の良い午後のひととき、まどろみの中にいたラドラスは、腕の中に抱いていたニルヴァが、ごそと動いたのに気づくのが遅れてしまった。
カチャリと音がしてようやく目覚めたラドラスは、腕の中にニルヴァの不在を知り、身体を起こして辺りを見た。
「……ニルヴァ、?」
すると、部屋の窓に掛けてある鍵を回しているニルヴァの後ろ姿が目に飛び込んできた。
ラドラスが普段から持っている、鍵束の中に、この部屋唯一の窓の鍵も入っている。
ラドラスがようやく意識をはっきりとさせた頃には、窓はニルヴァによって大きく開け放たれた。
「ニルヴァ」
ニルヴァを生活させている部屋は、城の三階部分に位置している。中庭に面しているので、窓からは緑色の葉や色とりどりの花の色しか、見ることはできないが、それでもニルヴァには心安らぐ作用があるのだろうか、よくニルヴァは窓の外を眺めていた。
「ニルヴァは、俺の女だ」
ラドラスはそう宣言してからこのかた、この部屋にニルヴァを閉じ込めていた。
「……ニルヴァ、危ないぞ」
背中に声を掛けると、ニルヴァが振り返った。その顔は薄っすら笑っているようにも悲しみを浮かべているようにも見える。
その幸の薄い表情に、ラドラスの心臓がどっと鳴った。
「こっちへ来い」
こみ上げてくる動悸の息苦しさを感じながら、ラドラスは右手を上げた。おいで、というジェスチャーで、ニルヴァを引き戻そうとした。
いつでも、ニルヴァの元に駆けれるようにと、そろ、と足をベッドから下ろす。
「ニルヴァ、こっちに来るんだ」
「…………」
だが、ニルヴァは無言だった。
ラドラスは諦めたように深く溜め息を吐くと掲げた手を戻し、自分の赤毛の前髪を掻き上げた。
そうしておいてから再度、手招きをする。
「ニルヴァ、おいで……」
おいで、などという甘ったるい言葉など初めて使ったな、そう思うだけでイライラが募ってくる。女はこうも面倒だ、とラドラスはすくっと立ち上がり、そして素早く足を運んだ。
ニルヴァと半分ほどの距離を詰めた時。
迫り来るラドラスを見ると、ニルヴァは窓辺によじ登って立ち、そして何の躊躇もなく、そこから飛んだ。
愕然としてしまった。まさか、本当に飛び降りるなどとは想像もつかなかった。
「ニルヴァっ、ニルヴァあああっっ‼︎」
空になった窓へと駆け寄る。乗り出して下を見ると、ニルヴァの倒れた姿が目に飛び込んできた。
緑の芝生。生い茂る草の上。ニルヴァの薄い水色だったはずのワンピースが、その新緑の絨毯に、浮き上がるように白く見える。
ラドラスは、自分の顔に血が上っていくのを感じた。ぶわりと火をつけられ炎に巻かれたように、身体が熱くなった。
「ニルヴァっっ‼︎」
慌てて周りにきょろきょろと視線を這わすが、バラ園とは対照的にひっそりとして地味な中庭には普段から誰もおらず、そしてもちろんこの日も人の気配はどこにもない。
ラドラスは部屋から出て、長く続く廊下を一心不乱に駆けた。階段を転がりそうになりながら降り、そして中庭へと続く裏口へと走った。
(ニルヴァ、どうしてこんな、)
もちろん、その理由はわかっている。
ただ、今はそれどころではない。ニルヴァを助けなくては、という思いだけに支配され、ラドラスは中庭へのエントランスを懸命に走った。
「ニルヴァっ」
エントランスを抜け、そして立ち止まる。
向こうに見えるのは、緑の絨毯の上、横たわるニルヴァの姿。
すぐに側に寄って、ラドラスはニルヴァを抱き起こした。
「おい、大丈夫か、しっかりしろっっ」
抱き上げ、そして中庭を突っ切る。ぐるりと中庭の外の外周を進むと、トタンの屋根の小さな小屋が見えた。
「イロン、イロンっっ‼︎ 怪我人だっ、開けてくれっ」
ラドラスは塞がった両腕の代わりに、何度も足でドアを蹴った。