甘い口づけ
「ラドラス様、本当にお帰りなさいませ。トラウル様もこの日を心待ちにしておいででした」
二人、肩を並べて廊下を歩く。
「いや、そんなことはない」
「サンダンスをよく守ってくれていると、トラウル様はとても喜んでいらっしゃいます」
「はは、調子の良い……」
そのニルヴァの言葉で仲違いした兄弟の距離が、少しだけ縮まったような気がした。
トラウルが、立ち直った自分のことを、あちこちで自慢しているのも知っている。
乱暴者で自暴自棄になり、何も生み出せなかった昔の自分は、いったい何だったのだろうか、と思うほどだ。
(何もかもが、順調……のはずだ)
ラドラスが心を決めた。
「ニルヴァ、俺は明日からまた国境警備の任務につく」
「あ、明日、ですか?」
「お前は、幸せにならくちゃいけない。何があったのかは知らないが、いつも明るく前向きに、生きていってくれ」
言いたいことは、この一つだけ。
ニルヴァの表情は曇ったが、ラドラスはニルヴァと歩いていた廊下の途中で足を止めると、そっとその頬に手を当てようとして、止めた。
「元気で」
手を引っ込め、短く言うと、すぐに部屋へと入った。
ドアに背をもたせかけて、ニルヴァが遠ざかる足音を聞いた。
「……どうか幸せになってくれ」
ラドラスはそう呟くと、荷物をまとめる大きな鞄をベッドへと放り投げて、無心でその中に服や靴などを順に詰め込んでいった。
✳︎✳︎✳︎
トントンというドアをノックされる音で、うとうととまどろみの中にあったラドラスは意識を戻した。
(……うたた寝をしてしまったのか)
いつもはあまり眠れない夜、今日は昼間にニルヴァに会ったことで、心も体もぐったりと疲れていた。
うたた寝と言いつつ、実際は泥のようにぐっすりと眠っていた。
夜の帳が下り、この季節特有の夜風が、薄く開けた窓から入り込んできて、カーテンをさらさらと揺らしている。その冷気にすら気がつかないほど、ラドラスは深く眠り込んでいたのだ。
このような夜半に誰だろうと、ラドラスが訝しげに思っていると、もう一度ノックされて、ラドラスはドアを開けた。
「に、ニルヴァ」
ニルヴァが昼間のドレス姿のまま、立っている。
昼に会った時には気づかなかったが、ドレスは薄いピンク色で、その色はラドラスにニルヴァが摘んでいたコスモスを連想させた。
「ラドラス様、こんな時間に申し訳ありません」
「いや、けれどどうした? 何かあったのか?」
「そうではありません。ただ、お渡ししたいものがあって」
よく見ると、手に布袋を持っている。
「こんな時間に、男の部屋へなんて来てはだめだ」
ラドラスは慌てて廊下へと出ようとした。
「ラドラス様は、もしかすると、誤解をされていますでしょうか?」
ニルヴァが苦笑する。
「トラウル様やイロン様が、もしかしたら、と言っておりました。ラドラス様は、噂話などには耳を貸さないだろうから、とも」
「なんだ? なんの話だ?」
「ニーナは、トラウル様とリアナ様のお子です」
「そ、そうなのか」
「一番上の女の子、そして二番目があの後お会いした、リーナです」
「ああ、あの後会った女の子だな」
「それから、今回お生まれになった、リューイ。ようやく男の子が授かったと、トラウル様もとても喜んでいらっしゃいました」
「そうだな、跡継ぎができて、とても喜ばしいことだ」
「私はお二人のお子さまの、家庭教師をしております」
「なっ、」
ニルヴァが何を言っているのかわからずに、その場で固まっていると、廊下の先からガチャガチャと食器か何かを運ぶ音が聞こえてきて、ラドラスはニルヴァを部屋の中へと招いた。
「け、結婚は……?」
「やはり、勘違いを? 結婚はしておりません」
「結婚していないなんて、……いったいどういうことだ……トラウルが約束を違えたのかっ」
荒げた声が出たが、ラドラスは構わず、続けた。
「なぜだ、兄上は約束を破ったのかっっ」
ニルヴァは慌てて、ラドラスに言った。
「違います。私がお断りしたのです」
「な、」
「せっかくのお申し出でしたが、私が勝手をいたしました」
「どうして、……いや、そうか。やはり第二夫人なんてものは、」
「運命を……」
ラドラスの言葉を遮って、ニルヴァは続けた。
眉は下がり、その青い瞳は悲しげに潤んでいるが、唇には薄っすらと笑みを浮かべている。
「……運命?」
「トラウル様に結婚のお申し出をいただくまでの日、私はその日まで運命というものがあるのなら、もうそれに身を委ねよう、そう思って生きていました」
ラドラスが見るニルヴァの瞳。ニルヴァの眼差しに、火が灯ったような強さがあった。
「けれど、あの日。運命に流されるのは、もうやめようと思ったのです」
「ニルヴァ、」
「初めて、進むべき道を自分で決めました。家庭教師をすることも、私からトラウル様リアナ様にお願いを申し上げました」
強い眼差しに、歳月の流れを感じた。ラドラスがそうであったように、ニルヴァもまた、自力で道を切り拓いてきた、ということなのだろうか。
「これ、」
ニルヴァは持っていた布袋から、正方形の布を出した。
はにかみながらも、頬を染める。
「さ、裁縫があまり得意ではなく、て……こんな不出来なもので、大変見苦しいのですが」
恥ずかしそうに俯きながら、ニルヴァはそれを差し出してくる。
ラドラスは微かに震える手で、それを受け取った。
正方形の赤い布。中心部分には太陽、月、星のモチーフが、色とりどりの刺繍で施されている。
「私の国、アイルでは昔から赤色は勇猛果敢な色として、旗や警備隊の制服に用いられてきました」
ニルヴァが、ふふと笑った。ニルヴァの思い出し笑いなど初めて見て、ラドラスはそれだけで胸がいっぱいになった。
「昼間にニーナの言葉を聞いて、アイデアを拝借したのです。ニーナはとても賢い子で可愛らしいんです。ちょっとした仕草がリアナ様に、そっくりで」
「ニルヴァ、お前と兄上の子だとばかり……」
「ふふ、ラドラス様は本当に、噂話に疎いのですね」
手に乗せたものを、再度見る。
「太陽、月、星、か……」
「明日、ご出立とのことで、急いで作りました。なので、本来ならとても差し上げられないようなお守りではございますが、」
「お守り、」
「どうぞ、お怪我やご病気などのないよう、に」
ニルヴァの声が震え出す。
「いつまでも……願っております」
ラドラスは、放心していた。
けれど思い違いをしていたこと、大変な勘違いをしていたことが、じわじわと理解できてくる。
「ラドラス様、つ、次はいつお戻りでございますか?」
はっとして、ニルヴァの顔を見ると、ニルヴァは静かに涙を流していた。濡れた瞳が、その青さをぐっと増し、そして深い。
「……まだ、決めてはいないが、」
そうですよね、まだわかりませんよね、と無理にも笑ってみせる。
「それならばラドラス様、どうか、」
濡れた瞳。ふるっと震える唇。眉尻を下げながら、ニルヴァは言った。
「どうか最後に、私にも一度だけ、……く、くちづけをいただけませんか……?」
驚いた。ラドラスが、ニルヴァを手放す決心をした時、眠るニルヴァの唇に触れたことがあった。
「あ、あの時、……お前は、眠っていたんじゃ、」
ニルヴァは、涙を指先で何度も拭いながら、言った。
「もちろん眠っておりました、と言いたいところですが……ふふ、最初は夢を、……夢を見たのだと、」
「ニルヴァ、夢じゃないんだっ。すまない、ニルヴァ……勝手に、あのようなことをして」
ラドラスは慌ててニルヴァの肩に両手を掛けると、ぐいっと引いて抱き寄せ、背中に腕を回した。
「許してくれ、愚かだった。お前の気持ちを無視して、眠っている間に唇を奪おうなどと……」
ラドラスの腕の中に小さく収まったニルヴァの、小刻みに震える背中。それを無骨な手で、撫でる。
ラドラスはきつく目を瞑った。それなのに溢れ出る涙を、自分では止めようがない。
「俺は、俺はお前に……本当に酷いことをして、お、お前の尊厳を、お前の名誉を、踏みにじるような真似、を……許してもらえるなどとは思っていない。けれど、まさかお前から、そう言ってもらえるとは、」
身体を離すと、ニルヴァが涙でぐちゃぐちゃになった顔を、ラドラスに向けた。
ニルヴァの青い瞳。
(ああ、本当に。なんて綺麗なんだ)
心から。心から、そう思った。
ラドラスは引き寄せられるようにして、ニルヴァの唇に、そっとその唇で触れた。
唇が触れた途端。
あっという間に湧き上がってくる、抑えきれない衝動に突き動かされ、ラドラスは強く唇を押しつけた。
唇を無我夢中で合わせる。
肩にかけていた両手を離し、ニルヴァの両の頬を包むと、涙に濡れたひやりとしたニルヴァの体温を感じた。
それでまたラドラスは堪らなくなり、そのまま深く深く重ね合わせる。
「ニルヴァ、ニルヴァ、」
深く重なる唇の間から、漏れる荒い息遣い。
(ああ、ニルヴァ、お前を愛してる……愛しているんだ)
喘ぎながら、ラドラスは何度も、愛しいニルヴァの名を呼んだのだった。




