幸せを心から願う
「あ、兄上、話があるのだが」
トラウルの書斎に入ったラドラスは、放心したまま言った。
「ニルヴァとの、結婚を解消したいと思う」
ニルヴァが目覚めて、初めての日の午後のことだ。ニルヴァの目が開いた時、嬉しさと同時に安堵の気持ちも湧いてきて、ラドラスは心底、ほっとした。
「なんだと? せっかくニルヴァが目を覚ましたというのに、何を言うのだ」
「そのことだが、兄上がニルヴァを娶ってはもらえないか?」
この言葉には、さすがにトラウルは耳を疑った。その表情が徐々に曇っていく。
「は、何を言っている?」
「ニルヴァを……兄上の妻にしてくれ」
無言となった二人の間に、妙な空気が流れた。兄弟とはいえ、幼い頃から離れて過ごしたため、お互いがお互いのことをまるで理解してはいない。
トラウルはラドラスの真意をはかりかね、そしてラドラスはトラウルの素っ気ない返事を理解することが出来なかった。
「ニルヴァを妻にする気はない」
「なぜだ。兄上はニルヴァをあんなにも可愛がっていたじゃないか」
「ラドラス、別にもう良いではないか。犯人は見つかったのだから」
「そういう問題じゃねえ」
「お前のところの侍女の処罰はもう済んだのだろう?」
「……ああ、城から追い出した」
トラウルは持っていた書類をテーブルの上に投げうつと、ふんっと鼻で笑いながらイスに腰掛けた。
「お前のことだから、半殺しにでもするのかと思ったが、」
「そんなことしたら、あんたが困るだろ」
ラドラスが冗談めかして言うと、トラウルはそれを受けて、さらに笑って言った。
「たかが侍女の一人くらい、別に半殺しでも構わなかったのに」
ラドラスが眉をひそめた。
「なんだって?」
「王女を殺そうと目論んだ罰を与えても良かったと言っているのだ。そちらの方が、よほど重罪だぞ。死刑にした方が、アイル王国への顔も立つというものだ」
「だが、ニルヴァは、」
「そうだ。確かにニルヴァはアイル王国のつまはじき者だ。けれど、そうは言っても王女の一人には変わりない」
「それなら、なぜニルヴァを妻にできないなんて言うんだ」
「そんなことをしてみろ、それこそサンダンスは諸外国の笑いものだ」
「兄上っっ‼︎」
「ラドラス、ニルヴァはお前を嫌って自殺をしたわけではなかったのだから、お前との結婚に関してはそのまま不問とするのがいいだろう」
「けれど、ニルヴァはあんたのことをっっ」
はあはあと荒い息を吐いて、ラドラスはトラウルを睨みつけた。
「あんたのことを好いているんだ。ニルヴァをあんたの妻にしろ。でないと、俺は今までよりも酷い弟となって、あちこちで暴れ回ってやる」
トラウルは厳しい顔を崩さず、ラドラスを睨み返して言った。
「俺を脅す気か」
「あんたは俺の脅しなんかに屈するタマじゃねえがな」
「……わかった」
そのトラウルの返事で、ラドラスはようやく、握っていた拳を解いた。
「ニルヴァを大切にしてやってくれ」
そう言うと、トラウルの執務室を出た。ドアを後ろ手に閉めると、足元から崩れ落ちそうな錯覚に陥って、驚いた。
(……情けない)
だが、これでもうニルヴァの幸せは約束されたようなものだと思い直す。
トラウルの妻になれば、以前のように大切にされ、そして愛しんで貰える。優しく紳士なトラウルの側で、子を産み、家族の一員として、これからの人生を幸せに生きることができる。
愛する人の側で、生きていける。
(これでもう、つまはじきにあうことも、暴力を振るわれることもない……)
ニルヴァを手放せば、涙が出るのかと思ったが、不思議と悲しみの感情は湧き上がってこなかった。
それ以上に、ニルヴァの幸せを心から願っていた。




