最悪の出逢い
転がりながら走る森林の中。
ざざあっ、風を切る音が後ろへと流れていったのを機に、ニルヴァは後ろを振り返った。
履いていた金糸のサンダルはとうの昔に脱げ、途中から裸足になった足裏が、小石や枝を踏みつける、その度に激痛が走る。
息が上がり、痛む心臓を右手で押さえながら、それでも痛みを我慢しながら足を前へと出した。時折、斜め前から吹く風で、目深に被っているフードが飛ばされそうになる。
ニルヴァは振り返りながらも、左手で側頭部を押さえた。
視界に入る大木の幹の間から、怒号か、もしくは猫なで声を含む懐柔の声が上がる。
「待てよっ、子猫ちゃん、俺らと遊ぼうぜー」
「逃げんなよー」
「俺らと楽しいことしようよ」
ニルヴァは、ねっとりと絡みついてくるその声を振り払うように、前を向いてさらに走った。足元にはびこる樹の根や背の低い草に足を取られ、よろけながらも駆けた。
しばし全速力で走った後、再度後ろを振り返ると、さっきまでは声のみだった男たちが三人、その姿を現している。
「おいっ、待てって言ってるだろっっ」
怒声に、男たちの荒い息遣いが混じる。
だが、走り逃げるのに必死なニルヴァが、男たちの中の一人が、この地方には珍しい、燃えるような赤毛を持つ男であることにも気付きはしない。
それほどに、無我夢中で森の中を走っていた。
(このままでは追いつかれてしまう)
ニルヴァは次第に苦しくなる息と、緩慢になっていく両足の動きを感じながら、助けてと大声で叫びたい気持ちになっていった。
「なあ、あんた、どこから来たの?」
声を掛けられたのは、ある大きな街を出て国道を半時間ほど進んだ頃のことだった。
(……しまった)
右手に広がる景観、森の奥へと続く草原に、うっかりと視線を奪われてしまっていた時だった。
広々と広がる草原に生える黄金色の葦の穂が、時折吹く風にゆらゆらと揺れる、のどかな風景。
(美しい)
ニルヴァはその光景を胸に入れようと、大きく深呼吸をするために、足を止めた。
けれど、その途端。
「おい、何やってるんだ?」
美しい光景には似合わない、下卑た男の声。
ニルヴァの心臓はどっと音を鳴らした。
その葦の草原の反対側、すなわち左手の方角に、手の入っていない荒れた墓地があった。
信仰深いこの時代、墓地には定期的に捧げられる供物もあり、格好の食料調達の場となっている。今日を生きるのに必死な輩が集まる、物騒な場所でもあるのだ。
「あんた、どこから来たんだ?」
野太い声に目を細めると、ニルヴァは懐にある短刀のありかを確認しながら、歩みを再開した。
墓地には石碑が数基あり、その側には花が手向けてある。その様子から、供え物もあったのだろう、空になった包み紙やゴミが、あちこちに散乱している。
軽く荒らされたような雰囲気に、嫌な予感がした。それでも、足を進めていくと、墓の間を縫って、男たちが道へと出てきた。
「なあ、聞いてんのか? 今から、どこへ行く?」
腕組みをした男が二人、ニヤニヤしながらこちらを見ている。
ニルヴァは、フードを深く被っていた顔をさらに伏せて、その問い掛けを無視した。
「おい、無視すんなよ」
あっという間に、二人の男に囲まれる。肩を掴まれ、そしてマントの下の腕をも掴まれた。
「細い。女だ」
「いいね」
ねっとりとした声が、俯いている頭の上を飛びかった。
「なあ、俺らとちょっと遊んでくれねえか?」
嫌な予感は当たるものだ。
その予想通りの展開に、ニルヴァは肩を掴んでいた男の手を振り払って、走り出した。
「あ、おいっ、逃げんなっ」
二人の男が逃げたニルヴァを追いかけようと、数歩前へと進んだ時。
「お前ら、何やってる」
地を這うような低い声。ニルヴァはその声を背中で聞いた。
その男の声が、二人の男よりも上位の圧を含んでいたため、とっさにニルヴァは助かった、と思った。けれど、すぐに落胆を覚えることとなる。
「ラドラスかよ、驚かすな」
「それよりお前が正解だ。女だったぞ。さすがだなあ」
「本当か、それは良い」
走りながら、後ろ手に会話を聞いた。野太い声は距離を取っていても、否が応でも耳に入ってくる。
(……仲間、だったんだ)
落胆した心を抱えながら、ニルヴァは全力で足を運ぶ。
「追うぞっ」
背後から聞こえてくる三人の足音。
ニルヴァは一層、速く走り続けた。
そのうち息が上がってきたが、捕まれば酷い目に遭うことはわかっていた。
(はあはあ、……このままだと、つ、捕まってしまう)
ニルヴァはそのまま葦の草原へと入り、眼前に広がる森へと向かった。森の中ならば、どこかに身を潜めることもできるだろうと考えたからだ。けれど、それが見事に裏目に出てしまう結果となり、ニルヴァは心底落胆した。
(しまったっ)
ライ樹の森に逃げ込んでしまったのだ。
ライ樹は、その太い幹の上部に葉を茂らせ、時期が来るとその葉の付け根に堅い実をつける。その実を背の低い小型の野生動物に食べられないようにと、葉を上へ上へとつけていった結果、上空に葉を茂らせる形となった進化の樹だ。
しかも大木の割には密生しているので、その合間を縫って逃げるにしても、動きが取りにくく、逃げ道を確保することが難しい。
大陸から渡って来たばかりのニルヴァにとっては、こういった地の利も知識もなく、男たちに追いつかれるのも時間の問題だった。
(どうしよう、このままでは……捕まってしまう、)
「あっっ」
その時、木の根に足を取られて、ニルヴァはそのまま吹っ飛ぶようにして倒れてしまった。
「んうっっ」
数度、転がり、さらに木の根で頭を打った。フードを被っていたお陰で、頭部を直接打ち、頭を割ることはなかったが、頭蓋骨にヒビが入るのではと思うほどの衝撃があった。
転がった際に身体のあちこちに痛みが走ったが、頭を打った衝撃で、それも吹っ飛んだようだ。
「うう、うぅぅ……」
頭に割れるような痛みがあり、動くこともできない。
手で抱えるようにしてうずくまっていたが、とうとう男たちの声が頭の上から聞こえてきて、ニルヴァは絶望する気持ちになった。
「あららあ、大丈夫かあ? 遊んでやるって言ってるだけなのに逃げるから、こんな目に遭うんだよ」
「なあ、女は久しぶりだ。俺からいいか?」
男の体温が近づいてくる。
ニルヴァは、頭を抱えていた腕をそろりと懐へと伸ばし、胸の服の合わせの間に差していた短刀の柄を握った。
マントで完全に隠れていて、自分が短刀を持っていることに、相手は気付いてない。
意識がふらふらする中、短刀を引き抜こうと手に力を込めた。
「おい、刺されるぞ」
低い声が響いた。
「うわ、やべえ……」
その声に反応して、ニルヴァは短刀を掴んだ手を懐から引き抜いた。
「危ねえっっ」
男が仰け反り、後ろへと尻もちをつく。
短刀を握った手が、さあっと空を切った。すると、直ぐに短刀を持った腕を押さえつけられた。
あの男だ。
「なかなかの気概だ」
ひときわ威厳を放っていた、腹に響くようなあの低い声が、近づいてくる。
「お前らには悪いが、この女は俺が最初に見つけたからな。順番からいけば、俺が先だ」
終わりだ。
ふらふらしていた意識がさらに朦朧としてきて、半開きだった瞼を閉じた。
身体は泥に浸かったように重く、手指一本にも力が入らない気すらした。
「さあて、どんな顔か拝んでやろう」
低い声が、ニルヴァの鼓膜をびびびと振動させる。その声に残りの男二人が、いやらしさを含んだ声で呼応した。
「不細工よりは別嬪の方がいい」
「だな」
フードを避けられ、顔に誰かの影が落ちる。
それをきっかけとして、ニルヴァは薄っすらと眼を開けた。
影で真っ暗になった顔が、すぐ近くにあった。
「……これ、は」
真昼間であるにもかかわらず陽の光は奥深い森には届かない。背の高いライ樹の木漏れ日がちらちらと半分だけ開かれた瞼を刺激するのみだ。
けれど、意識があったのはそこまで。
それからはもう意識を失った。
ただ、低い声が意識を閉ざしていく耳に滑り込むように入ってきた。
「これは、……なんて、……なんだ……」
ごくりと唾を飲み込む音と同時にニルヴァはそのまま、意識を手放した。