ジュゴンの泳ぐ庭
・縦書き ニ段組 A5サイズ
・27文字×21行
・文字サイズ9ポイント
・余白 上下11mm 16mm
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私の生まれ育った街には、とある理由で有名だった大型の水族館がある。それが街の自慢でもあったし、同時に、私自身の誇りでもあった。
その理由とは、世界中でもわずか五頭しか飼育に成功していない、日本唯一のジュゴン、ジューゾーがいたからである。そのジューゾーも一年前に、水槽の環境に耐えられず亡くなってしまったけれど。
幼なじみである彼は高校を卒業後、大学に通うかたわら、彼の父親が館長を勤める水族館で飼育員見習いとなった。
ジューゾーを見にきたという言いわけをして、私はずっと彼の姿を追いかけていた。気付けば水族館にいるどの魚達よりも、彼を眺めていたかもしれない。
ふと、大学卒業後のことを聞いたことがある。すると彼は「この水族館をもっと有名にしてみせる」と、少し照れくさそうにほほえみながら言った。
「そしたら、一緒に同棲しよう」
その言葉で、私の体に熱量が灯るのを感じた。
しかし、ジューゾーが亡くなってからは客足も徐々に減少し、経営難の末に閉館してしまった。彼とその家族は経営難から膨れ上がった借金を返すために、水族館と家を売却し、大学卒業前に私の知らない街へと引っ越してしまった。
彼を失った喪失感から私は就職活動もせずに、代わり映えのしない毎日を消費するだけのフリーターになった。私には彼のように、何かを賭してまで叶えたい夢も未来もない。
それから、水族館の跡地ではいくつかの事業が計画されたけれど、関係者の不慮の事故が重なり、白紙が続いた。
亡くなったジュゴンの祟りだとか、彼達の生き霊の仕業だとか散々なことを並べ立て始め、しまいには呪われた土地だと揶揄されていた。けれど、私はこう思う。
呪われた土地どころか、資源を貪ろうとする汚れた人達から聖域を守る神聖な場所だと。同時に、なぜだかジューゾーがまだそこにいるような感じがした。
※ ※
ジューゾーが亡くなってから今日で一年が経つ。
せめてもの供養として、今は空き家となった彼の家まで行くと、大学四年生のころを思い出してしまう。
彼がこの街から去ってしまう日、私達はこの庭先で最後の言葉を交わした。彼はなにも悪くないのに、醜い言葉で責め立ててしまったのだ。負け犬、臆病者、嘘つき。
いくつもの呪言が、この庭先を泳いだ。
彼はなにも言わずに私が落ち着くのを待ってから、
「ジュゴンの最適な環境と飼育方法を見つける」
「……うん」
「そしてまたこの街に、必ず帰ってくる」
一年が経った今、彼はまだこの街に戻ってきていない。
意識を現実に戻す。視界が明瞭になる。すると、
「…………は?」
彼の庭先で草を啄ばみながら、のんびりと回遊をしているジューゾーと遭遇した。ちらりと目が合う。
あまりにも異様な光景に一瞬だけ立ち尽したけれど、不思議と事態をすぐに飲み込めた。
「もしかして、一周忌だから出てきたの?」
尾ビレが揺らめき、私を招いているように感じた。仰向けに寝転がり、お腹を数回ほど叩くので、私はジューゾーのお腹を枕にして寄り添うように眠る。
すると不思議なことに、安心感が体中を包む。
彼に吐き出してしまった苦い感情も、私の救いようもない弱さも、今なら全てを許される気がした。その気のゆるみからふと泣き出してしまいそうになる。
声に出して泣かないように、あなたの元へと行けないように、私は人魚になろうとあの日、確かに決めたはずなのに。
「ねぇ、ジューゾー。あの人にまた会いたいなぁ」
尾ビレで私の頭を優しく撫でる。ザラザラとした感触が、不思議と嫌な気分にはならなかった。
彼はジュゴンにとって最適な環境と飼育方法を見つけ、またこの街に必ず帰ってくると言った。なら、やがて訪れる再会まで、私達はこの土地を守っていよう。
ゆっくりと目を開き、静かに立ち上がる。
光が視界を刺し、未来を覆い隠そうとした。
それでも、私の行く末を必死に見据える。
ジューゾーが高らかに鳴き、大きく跳ねた。
優しい放物線を描く。
光。
スローモーション。
様々な思いが乱反射を起こす。
光った。
やり直すんだ。全てを失ったここから。
私の思い出を。彼との約束を。私達の水族館を。
のほほんとした表情で草を啄む、
ジュゴンの泳ぐ庭で。
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