#96 同じ事を考えていただけ
目の前にはただの鉄板のようなドアがある。オリーブ色に塗られて、ドアノブがある以外は装飾も何もない面白くないドア。翠は難しい顔でそれを睨みながら突っ立っていた。夕日が差し込んできて、大分時間が経過したことが分かったのに一歩も動けない自分がもどかしくてしょうがなかった。
図書館から家に来るまでシャリヤに何を言えばいいか考えていたが、ここまで戻ってきてすっかり組み立てていたリネパーイネ語の文章が消えていた。あの瞬間の気まずさが蘇って、家の中に入ろうとしても足が進まなかった。
それでも言いたいことは決まっている。自分の気持ちも一つだ。客観的に見てリネパーイネ語力がなかろうが、何を言われるか怯えて足がすくもうが、頑張って伝える。そう決めて、ドアノブを捻ってドアを開けると自然に足も動き出した。
"Cenesti...... salarua, sysnul io harmie co lersse? Selene mi senost."
シャリヤは玄関に立っている翠を認めるなり、今日は何事もなかったかのように振る舞っていた。シャリヤは床に体育座りのように膝を抱え込んで座っていた。
赤色の薄めの上着に茶色のチェックのプリーツスカート、白いソックスで家の中で履くスリッパのまま。その髪は真珠のような光沢を放ち、何事もなく元通りになったとばかりにサファイヤブルーの目が不自然な笑顔でこちらを覗いてくる。
しかし、自分にはどう返せば良いのかよくわからなかった。シャリヤが何事もなかったかのように話しかけてきたことを無視して自分の言いたいことを始めて良いのだろうか。考えて口をつぐんでいたうちに、静寂が居た堪れない空気を作っていた。シャリヤも作り笑いを崩して、ため息を付いて、そのまま俯いてしまった。申し訳ない気持ちになりながらも、ちゃんと話さなくてはならない気持ちも浮かび上がってきた。
"Xalijasti, Deliu mi nacees."
シャリヤは顔を伏せたまま、弱々しく首を左右に振った。表情はこちらからはうかがい知れなかった。
"Niv, Co qune niv <fenxe baneart>."
細々と言葉を紡いでいく。翠は何も悪くないと言いたげに首を振りながら、床で膝を抱えてうずくまっていた。
シャリヤはまだ自分が表層的な間違いにこだわっていると思っているらしかった。自分の心配をよそにうろつき回っている自由人とでも思われてしまっていたのかもしれない。
"Fgir es fgir pa...... mi firlex mi fua co. Edixa mi qune mels co'd josnusn fal sysnul."
"josnusn"という言葉が出た瞬間、シャリヤは体を震わせる。
"Harmie co tisod mels mi. Mi qune niv fgir. Pa, mi celes niv iso co's panqa'c. Selene co'st mi'it celdino xale mi celdin co."
シャリヤは俯いたままだったが、その手元に水滴がつたるのが見えて静かに泣いているのだと気づいた。言ってしまった後で、シャリヤが何に泣いているのかよくわからなくなっていた。両親のことについて言及されたからだろうか?それとも、助けたいと言われたからだろうか?
更に話さなければ分かり合えないという衝動とシャリヤがこんな状態で先を続けて良いのかという思いが口を塞いでいた。
シャリヤは袖で顔を拭っていた。
"Pa, Deliu co tydiest jeska'd lertasal. Mi is panqa fal fgir'd liestu. Mi nat firlex niv co pa co tydiest."
シャリヤが泣いてしゃがれた声で言う。声がつまりながらも伝えてくる事実とは異なるシャリヤの考えに翠は驚かされた。シャリヤはイェスカの勧誘を翠がすでに受け取ったものだと勘違いしていたのだ。翠がイェスカの手紙やヒンゲンファールの懇願を聞いているうちに実質翠も死んでしまった思ってしまっていたのだ。
耐えきれないような情動が湧き上がってくる。シャリヤを安心させたい一心で、シャリヤの元に近づいて後ろから抱きしめた。
"Cen............ es kysen......"
震えた声が何かを言っている。語彙力が足りなくて、理解は出来ない。それでも、声色から不快だとか、そういったことを言っているわけではないということは気づいた。
抱きしめているとシャリヤの体温、匂い、やわらかさが全部伝わってくる。それらは全て、「アレス・シャリヤはここにいる」と自己主張していた。自分は彼女を失いたくなかったから、レトラが攻められたときに命がけで守ろうとした。だが、それは今では真逆になっている。シャリヤは翠を失いたくなくて、しかし何をすればいいか分からず今まで怖がっていた。
はっきり言葉で伝えなければならない――と思った。
"Mi tydiest niv jeska'd lertasal. Mi lkurf texto fqa'it jeska'c fal finibaxli. Selene mi mol fal xalija."
心なしか、髪と髪の間から見えるシャリヤの白い頬が赤らんでいるように見えた。彼女が"xace."というその声色で酷く照れていることが分かって、自分も冷静に考えてみれば一体何をやっているのだろうと思ってシャリヤから離れようと思った。
しかし、その瞬間シャリヤは翠の腕を掴んできた。
"Selene mi veles xale fqa i co'c fal fhasfa'd liestu."
抱きしめるだけで力になれるなら、いくらでも抱きしめてやろうと思った。夕食までまだまだ時間もある。落ち着くまでこのままシャリヤを愛でても誰も文句を言うことはないだろう。




