#93 "fenxe baneart"
エレーナの目は完全に怒りを表していた。路地裏まで腕を掴んで乱暴に連れて行かれていた。シャリヤは翠を連れて行くエレーナを止めようとしたが、それをも無視しているところを見ると相当怒っているに違いない。
(何を間違えたのだろうか。)
エレーナに手荒く引っ張られながら、考える。しかし、答えは出ない。"fenxe"と"letixerlst"の意味を確認するために言葉を言っただけだ。もしかしたら、最後にシャリヤを主語にした文に問題があったのかもしれない。
そんなことを考えていた時、気づいた瞬間体は路地裏の壁に投げ出されていた。勢い良くぶつかった腕やら腰が鈍い痛みを訴える。そのまま地面にへたりこむ。
「痛って……」
見上げるとそこにはエレーナが仁王立ちしていた。目尻がつり上がって、すぼまった目から投げかけられるその視線は怒気をはらんでいた。濡烏色の黒髪の頭が怒りに震えている。
もしかして、語法の誤りがあったのだろうか。しかし、それだけでここまで怒られることは無いだろう。今までこの異世界にいる知り合いの誰にもそんなスパルタ教育を受けたことはない。だったら、他に何の原因があるのか。全く見当もつかなかった。
"Harmie co lkurf <fenxe baneart> xalija'c?"
"Harmie...... Edixa ci's es e'i xale fgir?"
先程までに起きたことを細かく思い出しても、シャリヤがバネアートをテーブルまで運んでいたことは明確だった。その様子を言うのがマナー違反だった?自分にとってはただそれだけということも、異世界の彼・彼女らにとっては非常に無礼なことになりうる。だが、何か違う気がしていた。
"Co qune niv meiaqerz zu es <fenxe baneart>?"
"Mi qune niv fqa'd meiaqerz."
どうやら、"fenxe baneart"という熟語があったようだ。
エレーナは知らないと聞いて、軽蔑するような顔になっていた。知らなかったことはしょうがない
"Fentexolerss reto mi ad xalija'd josnusn. Fgir'd meiaqerz'it luso es vynut niv."
"josnusn......veles retoo? Harmie es josnusn?"
" Lersse lineparine."
エレーナが冷たく吐き捨てるように言う。ため息をついて、もはや今まであったことがどうでも良かったかのような声色になる。背を向けて、歩きだす。
"Tisod mels jeska ad hinggenferl, xalija ad co."
背を向けたまま、そう言い残し、彼女は踵を返して、どこかへ行ってしまった。その背中には何か寂しさや苦しさの混ざったものを感じた。先程までの怒気、軽蔑の雰囲気は消え、その言葉は純粋に忠告の言葉として聞こえた。
「リネパーイネ語を勉強しろ……か。」
復唱して気づく。
自分はリネパーイネ語を文脈で理解していたところが大きい。その文脈を認識するもととなっているのは、多分自分の過去の経験だろう。でも、この異世界に住む人々の文脈というのは生活経験が文化も歴史も大きく違うのだから、翠のそれと同一というわけにはならない。言語の記号的意味が分かっても文脈を理解するということは難しい。日常会話を勉強して、ニュースを練習に読もうとしても単純に理解できない単語とかが出てくる。
例えば、インド先輩が"Spataussiedler"という単語の解釈に困っていたということである。A1レベルのドイツ語力でドイツの移民に関する文章が出されて、苦しみながら読んでいた所これだけがわからなかったらしい。これはドイツ連邦難民法によると「1992年12月31日以降に旧ソ連邦、エストニア、ラトヴィア、リトアニアを受け入れて続きの途中で退去し、6ヶ月以内に法律上有効な地域に定着した、ドイツ民族籍保有者」と定義されているらしい。これはそもそも、東欧各地に住むドイツ系が第二次大戦後戦争犯罪人として扱われて、法的権利を剥奪され、迫害や差別を受け、東欧からドイツへの帰国を目指そうとしたところからドイツが帰国促進計画を進め、旧ソ連圏の政府にドイツ系住民が差別を受けないような環境改善を申し立てるという》があってやっと理解できることであるわけだ。
こと、異世界語に至っては熟語や語法もそうだ。"fenxe baneart"もよく考えれば徴候があった。
【fenxe+baneart 1】"Xalijasti, cene fenxe la baneart?"
【fenxe+baneart 2】"Edixa mi io fenxe la baneart cene'c."
エレーナは"baneart"を"fenxe"することを表したい時、主動詞の"fenxe"には主語を取らないようにしていた。他人の人名"xalija"は呼格"-sti"が付いていたし、見落としていたが一人称"mi"はそのままではなく処格の後置詞"io"が伴っている。"baneart"もそれ自体を目的語として取るのではなく、"la"という単語が伴っていた。
彼女は意図的に"S fenxe baneart"という文にならないように》。
だからといって避けた理由が忌むべき熟語だからというのは早急過ぎるし、証拠が足りない。あの時どうして自分に分かることが出来ただろうか。エレーナに対して文句を言いたい気持ちにもなってくる。だが、あれだけ怒っていた理由も"fenxe baneart"という熟語の意味に帰結する。彼らの文脈を理解するいい機会だろう。
意気込みも新たに行動を起こそうと思ったが、考えている間じっとうなだれて視線に入っていた足に誰かの影が落ちた。エレーナが戻ってきて謝りに来たのかと思い、頭を上げてみた。
"Elajanerfen?"
銀のロングポニーテールが光を散らす。落ち着いた淡い色の控えめな服装は一見彼女らしい。しかし、この外見とは裏腹にその顔を見ただけで機関銃を片手に持つ非常識なワンマンアーミーが脳裏に浮かぶ。ヒンゲンファール女史だった。
彼女は痛々しそうに額を抑えて、心配そうな顔で覗き込んでいた。違和感を覚えて、自分の額をさすると手に血がついた。エレーナに投げ飛ばされたときに額を切ったのだろう。手当してもらうにも頼れる人はこの人しか居なかった。
額を指差して、手当してくれとばかりに懇願するような顔をしてみる。ヒンゲンファールは何かを納得したような顔で、頷き手を差し伸べてくれた。




