#87 中置記法
"Lecu sysnul at io miss lersse dieniep!"
白いブラウスに、黒のサブリナパンツ。頭から垂れる銀のポニーテールは、穏やかさの中に凛々しさを感じさせる。ヒンゲンファール女史はホワイトボードに記号と数字をいくつか書いて、ペンでボードをこつこつと叩いて言った。
上下ともに2と1と書かれているのは同じだが、間に?のような形の記号と、Tのような形の記号が書かれている。1の右には両方ともzのような記号があり、その右に上は3、下は1と書いてあった。
(計算式っぽいな。)
多分上は足し算で、下は引き算だろう。?は+で、Tは-で、zは=だろう。ただ、リネパーイネ語でどういうかは良く分からない。
"Hingvalirsti, mi firlex niv lkurfel fgir."
それを聞くとヒンゲンファールは頷いて、上の方の式をペンで指した。
"Qa atakes panqa mal is dqa."
そして、また下の方の式を指す。
"Qa ny atakes panqa mal is panqa."
"firlex."
多分、"atakes"、"ny atakes"はそれぞれ「足す」、「引く」だろう。"ny"というのは対義語を作る前置詞なのかもしれない。
もう一つ、分かったことといえば、未だに自分は四則演算すらリネパーイネ語で言えないということだった。こんな調子でシャリヤに日本語を教えると言っていたのかと思うと恥ずかしく思えてくる。
"Co es niv vynut?"
溜息をつくと、ヒンゲンファールが心配そうにこちらを見てきた。翠は心配させまいと急いで顔をあげて繕おうとした。
"Niv, ar, harmy jeska qune co'd ferlk. mi tisod fqa......"
繕おうとして咄嗟に出した疑問だが、本当に不思議に思っていたことだった。街に来てからヒンゲンファールとは一回も顔を合わせていないのにイェスカは彼女のことを知っていた。何らかの繋がりがあってしかるべきと思っていた。
ヒンゲンファールは翠の問いを聞いて、どう答えればいいか決めかねている様子だった。何かを言おうとして口を開いては、違うと首を振って言おうとしたことを飲み込んでいた。何回か彼女の中で逡巡を繰り返したのちに、諦めたような顔で翠の隣の席に座って来た。
"Deliu mi lkurf cirla. Mi es jeska'd lertasala'd larta."
ヒンゲンファールは真っ直ぐ翠を見据えて、真面目な顔で言った。
イェスカが顔を知っている理由は、同じ組織の人間だったから、ということだったのか。
"Selene niv mi elm. Pa, jol ci reto als fentexoler."
深刻そうな顔で放つ言葉は所々理解が出来ない。でも、ヒンゲンファールがこの内戦に対する思いを述べているということ、その憂いは"elm"という言葉が入ったこととその沈痛な顔で痛いほど伝わって来た。
"Cenesti, Edixa co celdin xalija?"
"Ar, ja."
ヒンゲンファールは翠の手を掴んで、強く握った。
"Celdin xale fgir'd liestu i als'i co's plax. Cene co celdin miss."
掴む手が切実な思いを伝えてくる。
ヒンゲンファールはイェスカと同じように翠が"lertasal"に居てほしいと思っているのだろう。詳細は分からないが、結果的にそれがこの世界の人々を救うことになるからと訴えかけて。
"Liaxu mi tisod pa mi firlex niv."
"Deliu co tisod jetesonj."
そういってヒンゲンファールは手を離した。何か気が抜けたような顔をして、肩を落としていた。そのまま彼女は、"nace"と一言だけ残して、部屋を出て何処かに去って行ってしまった。




