#85 2時50分
朝、八ヶ崎翠は何かに頭を打った衝撃でぼーっとしながら天井を眺めていた。いつも寝ているベッドがある区画とは異なった天井、リビング側であることに気付いて昨日なにがあったのか少しずつ思い出していった。帰って来てから、イェスカとシャリヤがカードゲームしていたのを椅子に座って見ていたところ、そのまま寝てしまったのだ。
(痛い……)
打ったところが脈動と共に痛みを訴える。起き上がってみるとどうやら椅子からずり落ちてそのまま地面か椅子の角に頭を打ったようだった。変な音に気付いたのか誰かが寝室からこちらに向かってくる足音が聞こえた。
"Cenesti......?"
シャリヤの声が聞こえた。続けて、頭の上に大きい疑問符を浮かべてそうな顔も見ることができた。大きな音がして、何かと思って来てみたら地べたに座って頭をさすっている奴がいるのだ。そりゃ、疑問に思うことだろう。
"Salarua......"
自分は努めて笑顔になってみせた。まだ頭がずきずきと痛みを訴えるが、シャリヤに無用な心配をさせて医者にでもかかった挙句に藪医者療治をされてしまったら、せっかくの健康体が台無しになる。
シャリヤはいつもの通り、翡翠のように蒼い目に似合う青のチェックのパジャマを着ていた。屈んで、こちらに手を差し伸べるとさらりと髪が垂れて、銀色が朝陽を反射して輝いていた。
"Xace, Edixa mi sulaun fal fqa?"
"Ja."
シャリヤは頭を縦に振った。
いい加減起き上がろうと椅子に手を掛けて、立ち上がる。シャリヤが朝ごはんの準備をしているのを横目に、さっさとシャワーを浴びてこようと思った。
シャワーにとどめておくのは今が戦時中だからだ。バスタブにお湯を貯めて浸かるような文化があるのか自体謎だが、バスタブはある。しかし、ここに湯が溜まっていたためしがない。戦時中に水を無駄遣いするなど多分できないのだろう。その割には水道、ガス設備などは整っているのが謎ではあったが。
シャワーから暖かい水が出てくるのも設備が充実していると思える。脱衣場で服を脱ぎ捨てて、シャワーを浴びながら思う。異世界転生ものなら水浴び程度に止めておくはずだろう。というか、毎日風呂に入ること自体高度な技術が発達しているからこそできることだ。不衛生で疫病が蔓延し、防疫の「ぼ」の字もない時代の異世界でなくて本当によかった。まあ、医者がまともかは病院に行ったことがないから分からないことだが。
シャワーを浴び終え、外向きの服に着替えると、シャリヤがリビングの食卓に穀物がゆを並べていた。イェスカは既に手を付けていたがシャリヤは翠の姿を認めると輝かしい笑顔でこちらを見ながら手招きしてきた。
「いただきます。」
食事前に毎度手を合わせて挨拶する姿にシャリヤはもう慣れてしまっていて何も言わなかったが、イェスカはそれを見て食べる手を止めた。頬杖をついて、興味深そうに翠の姿を見ていた。
"La lex es hardelme'd kafamala'd salaruavo? Mi vxorlnes."
"Niv, la lex es si'd kafamaliccen salaruavo ly."
イェスカは宗教社会のなかで高い立ち位置の人間であることが分かっている。翠の「いただきます」の挨拶を見て疑問に思ったのか、シャリヤに何かを問いかけて答えを得ていた。やはり、こちらの世界で食前食後の挨拶の慣習は無いのだろう。
そんなこんなで、穀物がゆを啜っていたところ何かを忘れているような気がしてきた。時計が重要なファクターとなる何かを、喉元まで出かかっていても何だったのかはよく思い出せなかった。
"Cenesti, hinggenferl ler co veles kantio fal sysnul at? Ers niv?"
イェスカがコップを差し向けて問う言葉にはっとした。
そうだ、ヒンゲンファールさんと今日は待ち合わせをしていたんだ。図書館で12時50分に会うという約束であった。頭を打ったからかすっかり失念していた。答えが帰ってこなかったからかイェスカは怪訝そうにこちらを顔を覗き込んできた。
"Ar, ja. Fqa'd liestu es harmie?"
そういえば、今は何時だろう。気になってそのまま聞いてみることにした。シャリヤは少し困惑していた。というのもこの部屋には、時計は無いから、で自分もそのことを完全に失念していたことに言ってから気付いた。
"12'd liestu 34'd rukestesti,"
"e?"
イェスカの見ていた手元を見るとそこには、腕時計が付けられていた。これなら時間が分かるのも納得、と首を振って納得していると何か引っかかるものがあった。確か、約束の時間は12時50分だったよな。これでは遅れるかもしれない。
"Xalijasti, deliu mi tydiest!"
"Ar, ja. Salar."
椅子の横で横たわっていたバッグを持ち上げ、埃を払う。脱ぎ捨ててある靴や上着を身に着け、ドアノブに触れたところで、シャリヤが"mili."と静止してきた。
"Cenesti, co klie fqa'c fal harmie'd liestu ad rukest?"
シャリヤは柔らかな口調でこちらを見ながら訊いてきた。しかし、シャリヤはいつもなら帰ってくる時刻を聞いたりはしない。急いでいることもあって、その質問の真意を考えあぐねていた。"Harmy?"と訊くと、シャリヤは言いずらそうに顔を反らして、もじもじしていた。
"Selene mi veles kantio co'd lkurftless."
瞬間はっとさせられた。一昨日シャリヤに日本語を教えようと言っておきながら、イェスカ関連のいざこざやヒンゲンファールさんに色々教えてもらうので時間が潰れて、全く教えられていないのだ。しかも、シャリヤと交流する時間も最近あまり作れていなかった。大きな問題だ。
多分、ヒンゲンファールさんに更に教えてもらうことがあるにしても数詞の他のことを訊いて、イェスカの手紙の分からないところを質問するくらいだろう。二、三時間くらいで戻ってこれるはずだ。
"Firlex, Mi klie fal 2'd liestu ad 50'd rukest."
笑顔で答えた。シャリヤが孤独な思いをしているなら、自分が貰った恩を返すつもりでその寂しさを補えるようにする。そういう意図だったが、シャリヤはなんだか怪しむような表情で目を窄めて怪訝そうにこちらを見てきた。
"50'd rukestesti......? Selene co lkurf 3'd liestu ad 14'd rukest?"
機嫌を損ねたのかもしれないと思って、何か言い捨てられると覚悟していたところで、シャリヤは良く分からないことを言い始めた。2時50分も3時14分もさほど変わらないだろう。それとも、もっと早く帰ってほしいという表明はリネパーイネ語では当人が言った時刻に24分くらい足して、「その時間に帰るんじゃないの?」と煽るとかいう言語文化だったりするのだろうか。もしそうだったら、とんでもない文化だった。
"Mi klie fal 2'd liestu ad 50'd rukest."
"Merc, firlex...... Jeteson klie plax."
シャリヤは釈然としない様子だったが、時間は刻々と過ぎていっている。
翠はシャリヤに2時50分に戻ると念を押して家を出た。




