2.心を揺るがす名
誤字脱字のご指摘いただきました。 ありがとうございました。
感情を制御することは簡単なことではない。
ふとしたとき、何気ない会話に含まれる名。
その名は、私の心臓をわしづかみし捻りあげる。 前世の私が悲鳴をあげ、今世の私がその感情に支配される。
無い筈の傷を探り、植えられた記憶が苦痛を生む。
痛み、怒り、悲しみ、憎しみに喉の奥から獣のような声が漏れる。
必死に理性で押さえつけ、顔に無理やりの笑みを作る。
誰も知らない、知られたくない前世の私。
誰も信じてはくれないだろう前世の記憶は、私にとって思い出したくもないものだった。 だけど生を受けた国も、生まれた家も名前も関わる人も同じ。
信じたくはないけど、そのことを受け入れるしかなかった。
当時、胸を抑え唸り声をあげながら倒れた私は、屋敷に住む人達を騒然とさせた.
早馬で父に知らせ、医者を呼びつけても満足せずに王家が抱える医者をも巻き込んだという。 原因不明だと判断され、治療魔法も施されたが熱は下がることをしらず、医師達はさじを投げた。
母親は泣き崩れ気を失い、兄達は授業を放り出し部屋に訪れ、部屋に籠ろうとすれば使用人に追い出されを繰り返し、しまいには廊下に陣を取りはじめて別の意味で使用人を泣かせ、宰相である父は仕事に追われながらも毎日私の部屋に顔を出していたが、日に日にやつれていったとう言う。
意識を戻せば、社交界の女神と賛美される母は、瞼を腫らせ目や鼻の周りを赤くし咽び泣いていた。 一瞬誰だかわからずに驚いたことは言うまでもない。
クールな上の兄は、時折喉をひきつらせポロポロと涙を流していて、下の兄は、豪快に泣き寝ている私の足元に縋り付いていた。
遅れて姿をみせた父は、撫で付けている髪も服装も乱れ、荒い息を吐きながら扉を破らん勢いで入ってきた。
リーシャと私の愛称をつぶやき、目を真っ赤にして私を抱きしめてくれた。
心が、温かくなった。
真っ黒な心が、薄まった気がした。
前世の記憶の中、どんな私でも愛してくれていたのは家族だけ。
だから、私は過去の過ちは繰り返さないよう心に誓った。
憎しみには蓋をして、悲しみや切なさの痛みは肥やしにして。
淑女であろう。
貴族も民にも平等であろう。
人に優しく、慈愛をもって自分には厳しく謙虚に生きていこう。
皆に誇れる女性であろうと。
恋で身を滅ぼすような愚かな人間にはならない。
もう深く誰かを愛することなどしない。
私の心を揺るがす名は、嘗て身を滅ぼすほどに愛した人の名前。
この国の第二王子。
レオンアルバード・シェル・クレール。
王位継承権第二位と位置づけとされ、子供ながらも鮮明で頭脳明晰であり、将来国王になる兄上である第一王子の支えになろうと日々努力を重ねている王子。
今の年齢と同じ5歳で王妃のお茶会に参加して、初めてお会いした時のはにかむ笑顔がとても素敵でキラキラして、小さな紳士であった王子に私は、一目惚れをした。
父にお願いしたわけでもなく、すでに決められたいた婚約。
年齢も爵位もこれ以上はないとされるほどの条件が揃ったものだった。 それを私は無邪気にただ喜んでいた。
その想いは日に日に積もるばかり。
彼に相応しいと思われるようにマナー、ダンス、政治、経済、情勢、外国語、歴史、乗馬、体術。 今までよりも増えた授業に内心嫌々ながらも勤しんだ。
それこそ寝る間も惜しんで、泣きながらコツコツと。
出来ないと嘆くことはプライドが許さなかったし、出来なければ大好きな王子の婚約者という立場から追われると、いつもどこかで怯えていた。
言えるはずもない、できないだの。
言えるはずもない、もう嫌だなんて。
言えるはずもない、足が痛くて踊れないだの。
言えるはずはない、私は王子の婚約者なのだから。
張りつめた中、私は少しずつ狂っていったのかもしれない。
可愛らしい子供の嫉妬から始まり、それこそ正式な結婚を結べる時期が後一年に迫った季節まで。
王子に群がる少女を陰で蹴落としいじめ、独り占めしようとした。
王子の気持ちなど考えもせず。
だから王子が、社交界デビューに心惹かれる少女に出会い、慎重に距離を縮めひっそりと確実に想いを実らせていること。
私との時間を減らし在り来たりな手紙と贈り物ですませようとしていることも、私を排除しようと王子の側近が動き始めていることも気づくことはなかった。
社交界とは怖ろしい場所だ。
煌びやかな世界は日頃贅沢に身を置く人間でも夜会は格別で、贅を凝らしたドレスや宝石を身に付け格を表す場。 目や耳を楽しませてくれる一時の場であり、裏を返せば人間の欲深さが見え隠れし、強いものは勝ち弱いものは一瞬で社交界から消えてゆく。
気づかないはずはないのだ。
誰に言われずとも、王子の態度や周りのささやかれる言葉。
気づかないふりして、私は微笑んでいた。 扇で口元を隠しながら陰で人を操っていた。
嫉妬に狂い、重大な過ちを犯した。
王子の想い人である男爵令嬢マーガレット・セノを殺そうとして彼女を庇う王子に無残にも斬りつけられたのだった。
なせ?
どうして?
大好きなのに?
ねえ、どうして?
なにがいけなかったの?
なぜ、私を
痛い・・・・・痛い・・・・・。
レアルド様、助けて・・・・・・。
のばそうとする腕、細く長い指先はどす黒い赤で染められちいる。 震える指先が床の上に落ちる。
「れ、レアルドさ・・・・」
「その名を呼ぶな!!」
初めて耳にした罵声に、身が硬直する。
必死で見上げる先に、絶望した。
王子の晴天の空のようなブルーサファイア瞳。 ゾッとするような冷たく無機質なガラス玉みたいな瞳で見下ろされている。
恐怖で震える華奢な男爵令嬢の肩を抱き寄せ、その胸に顔をうずめさせる。
なぜ、そんな目でみるの?
なぜ、平民風情の女を抱くの?
声を出すこともかなわない、顔を上げる力もなくなり血で濡れた床に沈む。
強烈な鉄の錆びた匂いが鼻についたが、何の感覚も無くなっていく。
だだ、強い憎悪だけが膨らんでいく。
―――― 憎い・・・・・・。
痛い、苦しい、悲しい・・・・・、
心が、痛い。
貴方様が憎い・・・・・。