コーヒー・カンタータ~お喋りはやめて、お静かに~
「コーヒー・カンタータ~お喋りはやめて、お静かに~」結川さや
――さあ、お喋りはやめてお静かに。今から起こることをお聞きください。ほら、その人がやってくる――
J.S.バッハ『コーヒー・カンタータ』より
*
「帰れ」
敵は、長い手足を巧みに使い、あたしの動きを阻止した。いや、阻止しようとしている――そりゃもう、思い切り冷酷に。
「い・や・だ」
一音一音区切って発音して、その冷酷無比さに対抗するあたし。あんまり強くドアノブを引っ張ったからか、せっかくまとめたゆるふわポニテも、まだ真新しいセーラー服の上下も揺れる。でもそんなことを気にしてる場合じゃない。
店の中から逆にドアを閉めようとしている敵、もとい、白シャツに黒ベスト、アンド黒ズボンの上に黒いカフェエプロンを巻いた超絶イケメン店長が、銀縁メガネの奥からあたしを睨みつけた。
「帰れったら帰れ」
「いやだったらいやだ」
「帰れって!」
「いやだって!」
引いたら引かれ、の攻防でカランカランと揺れるのは、ドアノブにかけられた『OPEN』の文字。もちろん、彼がこれをつい一分前にかけたばかりなのも承知の上である。
「なんでよっ、ちゃんと店開けたんじゃない! あたしだってお客様なのにっ!」
「お前は学生だろうが。遅刻するぞ」
「あ、それなら平気。言ったでしょ? ここ八時半に出てもダッシュで十分間に合うんだから。いつでもダーリンの顔見れるなんて、やっぱこの高校選んでよかった――あ」
一瞬だけ見開かれた切れ長の瞳。そこに閃いた確かな怒りの光に、あたしは口を押さえた。ノブから手を離してしまって後悔しかけたら、逆にドアが開いた。そのまま腕を引かれ、あたしは店の中へ。
「それ、本当か? 里依」
『お前』の代わりに名前を呼んでもらったことでときめいている――場合じゃないのは、彼の真剣な瞳でわかった。ためらっていたら、そのままドアに押し付けられる。百五十八しかないあたしと身長差二十三センチ。長身にバランスのいい体格、でもって完璧に美しい顔が――あたしの大好きな美貌が、研いだ刃のように見えた。
「あ、あの、ね……ダー」
「俺はお前のダーリンじゃない。ふざけた呼び方はやめろ」
「じゃ、じゃあ、修ちゃん、えっとね、これにはその――深い訳が」
「深い訳? 何だそれは、言ってみろ」
こんなに怖い顔で怖い口調なのに、あたしの目は彼が喋るたびにゆっくりと上下する喉仏やら、一つだけ開けられたボタンの下にチラ見えする鎖骨やらを追ってしまう。あわてて首を振り、全面降伏することにした。
「ごっ、ごめんなさい修ちゃん! だってあたしにとって一番大事な訳だったんだもん。修ちゃんの顔、一分一秒でも長く、多く見たいから――!」
顎をわずかに逸らして聞いていた修ちゃんの額に青筋が立った。ひしっと抱きついたあたしには見えなかったけど、たぶん――。
「修ちゃん大好き愛してる! お願いだから結婚してっ!!」
あたしの渾身のプロポーズは、むんず、と襟元を猫の子のように捕まれ、ドアの外に放り出される、という形で撃退された。
「二度と来るな! バカ鳩!」
響いた怒声は、冷たく低く、完璧な拒絶のこもったものだった。
「ちょっと修ちゃん! 修ちゃんっ? あーん、ごめん許してー! お願いだからぁ」
ドンドンとドアを叩いて懇願しても、時既に遅し。魂を抜かれたような顔で崩れ落ちたあたしを見つめるのは、『Café Cantata』と洒落た字体で記された看板と、ちょうど前の通りを横切っていく野良猫くらいだった。
バカ鳩――それは彼、市原修悟があたし、城野里依を呼ぶ時に使う呼び名だ。もちろん、いい意味でじゃない時、だけど。
「あうー、また怒られちったよ……」
休み時間、机に突っ伏してうなだれていたあたしの頭を、クラスメイトで親友の桜がよしよししてくれる。
「なになにー? あんた朝からまた行ってたの? 例のはとこ――修悟さんだっけ? 彼のお店」
そう、修ちゃんはあたしのはとこ。つまり、『またいとこ』ってやつだ。あたしのお母さんと修ちゃんのお母さんは従妹同士で大の仲良し。昔からあの通りの美形で、しかも昔はもっと優しかった修ちゃんは、あたしの王子様だった。憧れから恋へと想いは自然に成長したのだけれど、はっきりと自覚したのは中二の夏。コーヒー好きが高じてバリスタを目指した修ちゃんが、本場イタリアへ修行に行ってしまった半年間、死にそうに苦しくて気づいた。あれからずっと、あたしは修ちゃんに熱烈ラブコールを続けている。たとえ、彼にどれだけ『バカ鳩(バカはとこの意)』とののしられようとも――。二人の歴史を思い起こしながら、あたしは深ーく頷いてみせる。
「うん。だって修ちゃんの顔見ないと一日始まらないしー、修ちゃんはあたしの人生の全てだしー、中身も外見もあんだけ完璧なんだもん! 好きになるなってほうが無理だよね」
「まあ、気持ちはわかるけど」
その返答でたちまち不安になったあたしの眼力に気づいたのか、桜はあわてたように両手をぶんぶん振った。
「ちょ、ないない! かっこいいけどあたしのタイプじゃないし――ってあんたが同意求めたんでしょーがっ」
「ごめん……だってさー!! 修ちゃんが好きすぎて好きすぎてそりゃもう彼に近づく女全員抹殺したいぐらい好きなんだもん! なのに『二度と来るな』なんてさー、もうどうしたらいいのあたし!?」
「はいはい、ってそんなこと言いつつ放課後行くつもりなんでしょ」
「あれ、バレたぁ?」
えへ、と頭を掻いたら、桜は苦笑する。
「あたしは応援してるけどさ……にしたって、ある意味あんたにとっちゃ一番辛い状況かもねー。好きな人が人気カフェのイケメン店長だなんて。必然的に女の客も多いわけだし」
「そうなのよお……!」
その時のあたしの声は、たぶん地獄の底から蘇ってきた死者の呪いの声より怖かったと思う。だって、まさに、それこそが!
「ってか人気カフェのイケメン店長なんじゃなくって、修ちゃんが店長だから人気カフェになるんだってばぁっ! あぁぁ女の客とか、コーヒーに毒入れてやりたいっ」
「いやいや、余裕で犯罪だから」
「毒は入れないよ? 入れるわけないじゃん! だってあたしの最愛の修ちゃんが、夢を叶えてやっと開店した大切なカフェの、大事な大事なコーヒーだもんね! うん、あたし頑張る! こんなとこでへこたれてられないんだからっ!」
「えっと……すっごい爽やかに決意してるとこ悪いけど、毒入れない理由もちょっとずれてるような」
「よっしゃあ! あたし負けなーいっ!!」
桜の呟きは、ガッツポーズを決めたあたしの耳には届かなかった。
そしてやってきた放課後。あたしはダッシュでお目当ての場所――修ちゃん経営のカフェ『カンタータ』に到着。でもって発見した一枚の張り紙に喜び勇んで飛びついた。ちょうどお客がいないことを見計らって、すぐさまカウンターの修ちゃんに駆け寄る。
「修ちゃん修ちゃん、これっ!! あたし! あたしバイト希望! ねっ? いいよね! いいでしょお願い~っ!」
時給八百円、夕方五時から八時、もしくは九時~閉店十一時までのどちらかシフト制。そんな条件で張り出されていたアルバイト募集の紙をはがして持ってきたあたしに、修ちゃんはものすごい冷たい目を向けた。その温度、まさに南極か北極ってくらい。
「……お前、二度と来るなって言ったよな?」
「あっ、あれ? そうだったっけ? 覚えてないなぁ~。ね、そんなことよりバイトバイト! もうあたしで決定してよう」
「ダメだ」
一秒で拒絶し、修ちゃんは張り紙の下のほうを指差した。
「学生不可。ちゃんと書いてあるだろうが」
「えーっ!? な、なんで!?」
「学生の本分は勉学だ。シフトで夜入ってもらうこともあるし、遅くなると色々不都合だからな。それに、万が一学生可だったとしてもお前だけは絶対採用しない」
「だからなんでようっ」
グラスを拭いていた手を止め、修ちゃんはあたしをまっすぐにねめつけた。
「将来のことも考えず、ただ一時のくだらない感情だけで高校を選ぶような奴だ。たとえバイトといえども、大事な店のスタッフに加えられる人材には思えないからな」
「そんな、修ちゃ――」
「帰れ。何度も言わせるな」
それでも動かないでいると、カウンターから出てきた修ちゃんが強く腕を掴む。強引に外へ出されそうになって、あたしは必死で抵抗した。
「く、くだらない感情なんかじゃないもんっ! あたしは本気で修ちゃんのこと……!」
逆に修ちゃんの手を掴み、訴えようとする。その手を、思い切り振り払われた。
「たかだか十六のガキの本気なんて知れてるんだよ。いいか、俺は二十七だ。お前がいくらのぼせようが毎日通い詰めようが、俺がお前を恋愛対象として見ることは絶対にない! これからも、永遠にだ!」
今まで、物心付いてからずっとくっついてきて、初めて聞いた言葉だった。胸を抉られたみたいで、凍り付いてしまう。
「……だから帰れ。もう、ここには来るな」
背中を押した力は先ほどより弱かったけれど、あたしには立ち直れないくらいの打撃だった。カラン、と鳴ったドアベルが、やけに無情な響きに聞こえた。
「ちょ、ちょっと里依、あんた大丈夫? 死人みたいな顔してるよっ!」
翌朝、通学路をふらふら歩いていたあたしは、桜に呼び止められた。確かにあたしは死人並みにひどい顔だった。壮絶に腫れた瞼と目の下の分厚いクマ、赤くなった鼻の下部分、全部まとめて大泣きと不眠の結果だ。
「いいの……いやむしろ死んじゃったほうがいいのかも……修ちゃんに完全拒絶されたんだもん。死刑宣告だよホント……」
うっ、とまたあふれ出した涙と鼻水を、あたしは周りも気にせず拭いてはかんだ。
「り、里依ぃ……」
おろおろしていた桜は、昨日の事情を聞いた途端に憤慨し始めた。
「永遠に、だってぇ? それこそ、たかだか十一の年の差が何だってのよ! そんなもん障害になるかっての! あれだけ元気印の里依をここまで打ちのめすなんて、いくら修悟さんでも許せないね」
そう言い放つなり、何やら思案する桜。あたしとつるんでるから忘れがちだけど、実は結構な秀才だってことを思い出す表情だ。
「さ、桜?」
ボロボロの泣き顔で訊ねたあたしの頭を、桜は優しく撫でた。
「任せといて。あたしの読みって、試験でも外れたことないんだから。絶対あのクールな仮面引っ剥がして、彼の本心見せてやるからさ」
「え、えっと桜……もしかして手荒なこととか考えてる? 修ちゃんを危ない目に遭わせるとかはダメだよ?」
「修悟さんを? それはないよ」
大丈夫、と頷かれて安心したあたしは、桜の呟きの続きを聞き逃した。
「危ない目に遭うのは、本人じゃないほうが効果的なんだからさ」なんて――。
【コーヒー・カンタータ】それはかの有名な作曲家バッハが作ったカンタータ――小喜歌劇だ。彼の生きた十八世紀にコーヒー依存に陥る人々が社会問題になっていたことを揶揄して作られたもので、コーヒー中毒の娘を父親が戒める内容の歌がある。
『もし一日三回のコーヒーが飲めないなら、とっても残念なことだけど、干からびた山羊の肉みたいになっちゃうわ』
歌の中の娘の言葉。イタリアから帰国し、このカフェをオープンしたばかりの一年前。修ちゃんが教えてくれた話に出てきた時は、何とも思わなかった。でも今は、その気持ちがよーくわかる。
「へーえ、コーヒー・カンタータ、ねえ」
あたしがまだぐじぐじ泣きながら話していたら、隣に立つ桜が低く笑った。なんかすっごいブラックな笑いなんだけど。
「えと、そう。この曲が好きで、中毒までは行かなくてもお客さんに自分のコーヒーを好きになってほしくて、曲のタイトルにもじって店の名前付けたって――」
思い出すのは、穏やかな笑みを浮かべ、教えてくれた時の修ちゃん。ちょうど例の修行期間と前後して、つれない態度をとるようになっていたけれど、大好きなコーヒーの話をする時だけは嬉しそうで。そんな修ちゃんのコーヒーを、修ちゃんのそばでゆっくり味わう。毎朝の日課は、あたしの大切な宝物だったのに。
「ね、ねえ桜……やっぱり帰ったほうがよくない? さすがに昨日の今日ってのはちょっと……」
そこでまたぶわっと涙があふれるあたし。ハンカチを差し出してくれた桜の笑みは、ブラック仕様からすごいイケメンモードに変わった。
「任せてって言ったでしょ? 今の里依、まるでその歌の『干からびた山羊の肉』みたいだもん。ほっとけるわけないじゃん」
そうだ、あたしにとっての一日三回のコーヒーは、修ちゃんそのもの。取り上げられたら、もう何も残らない。あたしの干からびた抜け殻の気持ちを理解してくれる親友は、頼もしく店のドアを開いた。
「いらっしゃいませ~」
軽やかなお出迎えの声は、修ちゃんじゃなく、バイトの店員さんだ。といってもオープン時から入ってくれているフリーターの優くん。実は昨日の事件の時も店内にいた彼は、訳知り顔であたしを見てくれた。
「大丈夫? 里依ちゃん、すごい痛々しい顔してるけど……やっぱ店長のせいだよね?」
修ちゃんとは違うタイプの、キュート系美形な優くんは、あわあわしながら慰めてくれる。
「あのさ、里依ちゃんも知ってる通り店長口は悪いけどそこまで人は悪くないっていうか、言うだけあって仕事もできるしお客さんといいかげんなことも絶対しないじゃん? バイトも女の子とってないのそのためだって言うし――えっとだから、その」
「うん、ありがと……わかってる」
そんな修ちゃんだから余計好きなんだ。胸が切なく痛んで、えぐえぐするあたし。
「それに、店長も本当は――」
まだ何か懸命に続けようとした優くんを遮ったのは、強気なイケメン桜だった。
「みなまで言うなって。そのために来たんだから、あんたも協力しなさいよね」
「協力?」
「あの頑固オヤジを攻略すんの!」
「が、頑固はわかるけどオヤジって」
苦労して笑いを抑えている優くんの肩を叩き、何やら囁いている桜。あたしの付き添いで来たりすることも多いからか、いつのまにか二人は結構仲良しになっていたらしい。でも今の山羊肉なあたしは、涙を堪えるのに精一杯でちっとも笑えなかった。
話し合いを終えたらしい桜があたしの腕を引っ張って、カウンターにぐんぐん歩いていく。複数の女性客と事務的に談笑している修ちゃんに向かって。
「ちょ、ちょっと桜ぁ」
「――こんにちは、修悟さん」
たくさんのコーヒー豆の瓶が並び、香ばしい芳香が漂うカウンター。流れるクラシックは、奇しくも例の『コーヒー・カンタータ』。黒と白で統一されたシンプルでお洒落な店内で、セーラー服のあたしたちは完全に浮いている。そんな状況で、大人な女の人たちを通り越して堂々と声をかける桜。
「……いらっしゃい」
わずかに眉を寄せ、瞳を細めつつ、修ちゃんは答えた。店内に足を踏み入れた時点で誰でも大事なお客様。その原則を忘れない修ちゃんの冷静な接客態度に、名残惜しげに女性客たちも席へ戻っていく。普段ならぷりぷり怒るところだけど、修ちゃんのそんなかっこよさにまたウルウルしてしまう。
「カフェラテのSサイズ。あ、ラテアートとかできます?」
愛想の良い笑みは浮かべていても、桜の声には棘があった。
「じゃあハート型にloveって書いたものを、この子に。あたしはアメリカーノでいいわ」
修ちゃんの了承を待っての流れるようなオーダー。桜のあきらかなる挑戦に片眉を上げたものの、すぐさまプロの微笑で応対するところはさすがで、またきゅんと胸が疼く。昨日あんな言われ方をしたのに、まだこんな風に思う自分が悲しかった。それでも、修ちゃんはあたしをちらりとも見ない。
「後で二人来る予定だから、テーブル席に座りますね」
それだけはにこやかな敬語で修ちゃんに言い置き、桜はあたしを連れて奥のテーブル席へ。
「へっ、あと二人って?」
「いいから黙って座ってなさい。この中にいる限り、あたしたちは立派な客なんだから」
確かに、内心でどう思っているにしろ、修ちゃんはいつも通り落ち着いた態度でエスプレッソマシンに向かっている。飲料の土台となるエスプレッソを抽出し、カフェラテ用のフォームミルクを作るためだ。黒い髪の先が少しだけ伸びている首筋や広い背中、クールな横顔、そしてゆっくり綺麗に動く手と指。全部が素敵で、もう切なくてしょうがない。だって、できあがったラテアートのハートもloveの文字も、営業用のものなのだから。
どうして、あたしは受け入れてもらえないんだろう。こんなに想っても、頑張っても、年下で、高校生なんて立場にいる限り、あたしは修ちゃんにとって子供でしかないのだ。しかも、この年の差は永遠に縮まることはない。悲しくて苦しくて、悔しくて――また涙がこぼれそうになった時、入り口のドアが開き、大学生らしき男子二人組が入ってきた。まっすぐにあたしたちのテーブルに歩いてくる。
「よう桜! 紹介してくれるってこの子?」
「うっひゃー小っさ! 白っ! かーわいい! うわ、手首とかマジで折れそうなんだけど!」
なんて言いながらいきなり手首を握られて、あたしは「ふぎゃっ」とか猫みたいな声を上げてしまう。
「そうだよ、里依っていうの。今時珍しいくらい一途で可愛い乙女なんだから。ほら、早く注文してきなよ。喋るのはそれから」
言われた二人は笑って、カウンターへ向かう。
「えー俺、コーヒーとか別に好きじゃねえんだけど。コーラとかねえの?」
「げ、しかも値段たっけー! たかがコーヒー一杯が四百円超えとかありえねー」
ぶうぶう言いながら本日のおすすめコーヒーを頼んだ二人に、修ちゃんは黙って対応している。『たかが』コーヒー、『されど』コーヒー。その一杯を極上のものとして提供するために、豆の選び方からブレンド選択、焙煎具合に抽出方法――全てに心を込めて吟味し、技を極めてきたからだ。
けどあたしは、その額の青筋と煮えくり返っているだろう内心に気づいた。まるであたしを見る時のように、冷たい瞳にも――。
途端ずーんと落ち込んで、桜の言葉もあまり耳に入らなかった。これが桜の作戦であり合コン的なセッティングであることは、なんとか理解したけれど。
「いいから黙って座ってなって。あたしを信じて!」
帰ろうとするのを引き止められ、ついでに優くんにまで意味ありげにウインクされて、あたしはソファに座った。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、修ちゃんがこの状況をどう思うのか、興味もあったから。なんて、ずるいかな。
「えー彼氏いねーってマジ?」
「マジもマジ。大マジだよ。だってこの子十六年ずーっと同じ人に片想いしてんだもん」
「ちょっと桜……っ」
「だけど、もう絶対望みないって言われちゃったらしくてさー。自棄になってるとこあるんだよね。よく言うじゃん? 失恋には新しい恋って。慰めてあげてよ」
「桜ってば!」
さすがに止めても、なぜだか今日の桜は突っ走ってる。カウンターの向こうの修ちゃんに挑戦的な目なんて向けちゃって、大学生たちをたきつけている。
「慰めてやれってさー。お前の得意分野じゃん。お前がやんねーんなら俺でもいいけど」
あたしの前に座った彼に、もう一人が笑う。なんだか怖くなってきて、せっかくの修ちゃんのカフェラテも味わう余裕のない状態だ。
助けを求めるように見やった先で、修ちゃんは一瞬すごい怖い目をしていたかと思うと、すぐ顔を背けてしまった。
「そんな……修ちゃん……」
「え? 誰ちゃんだって?」
前席の彼が覗き込んでくる。
修ちゃんのバカ。大バカ。そんなに大好きならコーヒーと結婚しちゃえばいいんだ。あたしを見捨てて、永遠に――。
「あたし決めた」
「里依?」
「ほんとに慰めてもらう。だから、この人に付いていく」
この人、と言われてあたしに腕を取られた向かい側の彼は、にやけて頭を掻いた。
「よしっ、どこ行こっか、里依ちゃん」
「どこでもいいです。ここじゃないどこか」
「じゃ、とりあえず静かなとこでも行っとくか!」
赤い顔で席を立った彼に付いて、あたしはずんずん歩く。俯いて、開けられたドアの向こうに踏み出そうとして、それから最後に一度だけ振り向いた。修ちゃんは、背中しか見せてくれなかった。
「ちょ、り、里依っ」
さすがにあせったらしい桜が止めても、ブチ切れたあたしはもう止まらない。店を出て、名前も知らない大学生くんと歩く。
「あのさ、本当にいいの――?」
なぜか急に大人しげになった彼に聞かれ、あたしは憤怒のままに頷いた。
バッハの『コーヒー・カンタータ』では、娘は結婚相手を見つけてもらうことを条件にコーヒーをやめることを誓うらしい。けど、あたしにはそんなの無理だってよくわかった。あたしにとっての大好きなもの――修ちゃんは、とてもじゃないけど何かに換えてあきらめることなんてできない人だ。
だからあたしは、絶叫していた。え? 恐怖でも衝撃でも嫌悪でもない、発散の叫び。拍手するのは、例の大学生くん。
「うわー君思ったよりうまいじゃん。意外とシャウト系とか歌えるんだ」
「はい。激しいのも大好きだし」
実は優しかった彼と二人、和やかに次の曲を選びかけた、その時。ピロリン、と鳴った携帯を見た彼が、「ごめんね」といきなり一言。訳がわからない間にセーラー服のリボンを引っ張られ、髪までぐしゃっと乱されてしまう。
「え、え? 何ですか急に」
「いいからちょっとだけじっとしてて。いや、じゃなくて、暴れて。叫んでもいいから」
「はいい?」
言うなりソファに押し倒され、思わず悲鳴を上げる。先ほどまでと豹変され、全く事態が飲み込めなかった。
「ちょっと、やだ……っ、やめて――!!」
肩を押さえて口を塞がれ、もごもごしながら必死で叫んだ。その瞬間。
「里依――っ!」
バアン、とドアが勢いよく蹴破られ、入ってきたのは必死な顔の、
「修ちゃん……?」
気が抜けてしまうのは、同じタイミングで大学生くんが力を抜いたから。でもそれに気づかなかったらしい修ちゃんが、思いきり眉間に皺を寄せて彼を引き剥がした。修ちゃんのメガネが外れて、落ちる。乱れていたあたしの格好と涙目で見事に誤解してくれたのか、そのまま怖い顔で彼に拳を振り上げる。
「修ちゃん、やめてっ! ちが、違うの! 何もされてないから……っ!」
あわててしがみついて止めた隙に大学生くんはバタバタと逃げ出す。一瞬だけ合った目は、あたしにエールを送ってくれているみたいに見えた。何も知らない修ちゃんと向き合った瞬間、頬を平手で叩かれた。
「バカかお前は! よく知りもしない男にホイホイ付いて行きやがって――!」
事情を話して謝ろうと思ったのに、いきなり怒鳴られてつい睨み返してしまう。
「だって修ちゃんがあたしのことやだって言うんだもん! 修ちゃんはあたしの全てなのに……その修ちゃんに拒絶されたら、あたしはどうやって生きてったらいいのお……!」
ぼろぼろこぼれる涙を拭う気力も、これ以上言い返す体力もなかった。瞳を見開いていた修ちゃんが、かなり経ってから深く長いため息を吐き出す。そうしてはじめて、彼が仕事着のまま、急いで飛び出してきたらしいことに気づいた。
「大げさなんだよ、バカ……」
床に座り込んだあたしを、ゆっくりと起こす修ちゃん。またため息をついて、見下ろしたあたしの頭に手を置く。
「どうやって生きてったら、か。じゃあもしそんなこと言ってる本人がその言葉も想いも撤回したら、相手がどうなるのか考えたことあるのか?」
「え?」
「ガキの言うこと信じて、俺が人生棒に振ったらどうしてくれるんだ、ってことだよ」
「……どういう意味?」
頭にハテナがたくさん飛んで、眉間に皺が寄るあたし。まだ苦い顔の修ちゃんが、その皺を指でピンと弾く。
「厄介な上に手がかかる。面倒なのにほっとけない。やめたいのに、気づけばもう中毒になってる。本当にカフェインでも入ってるんじゃないのか?」
修ちゃんの苦笑と言葉は、ハテナを更に増幅させるだけだった。
「えっと……な、なんだかよくわかんないけど、修ちゃんへの気持ちは絶対変わらないから! あたしバカだし子供だし何の取り得もないかもだけど、それでも修ちゃんのこと大好きで愛してて、ずーっとそばにいたいってことだけはこの十六年の人生で一度も――」
「わかったから、その口閉じろ」
「へ?」
静かに――そう囁いた修ちゃんの手に頭をぐいっと引き寄せられ、顎も上向けられたかと思うと、温かい何かが唇に触れた。
すぐ離れてしまったそれが何だったのか把握する前に、修ちゃんはメガネをかけ直してクールに言った。
「とりあえず持って来いよ」
「……え? 何を?」
今、一体全体何が起こったの? 呆然と瞬きしていたあたしの頭をぐしゃぐしゃ乱して、修ちゃんは笑った。
「履歴書。バイト希望なんだろ」
たっぷり数秒の間を取ってから、あたしは歓喜の悲鳴を上げた。奇跡が起きた。起きたのだ。
そしてあたしは後で知る。あの大学生くんが桜のお兄ちゃんで、桜といい感じな優くんが修ちゃんを思いきり不安がらせて飛び出させてくれたことを。
『猫はねずみとりがやめられないように、娘はコーヒーがやめられない』
そんなあたしと修ちゃんの、めくるめくコーヒー・カンタータはまだ、始まったばかり――。 (了)
読んでくださり、ありがとうございます。
ご感想・コメント等、お気軽によろしくお願いします^^