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青ざめて震える美也子の顔を、傷だらけの男が覗き込んだ。
「どうした、嬢ちゃん、寒いのかい?」
自分が異界人であると言うことを、この男に話すべきだろうか。こんなとき、いつもならギャロが話を聞いてくれる。だが今夜は、彼は居ない。ならば父親に甘えて、泣き言など聞いてもらっても……いや、違う。彼が父親だと確信したわけではない。
美也子が記憶している父は、女のように優しい言葉遣いをする男だった。背だって、もう少し大きかったような気もする。この男を父だと断定する理由と同じだけ、父ではないと決め付ける理由は探し出せるのだ。
正直、美也子は彼がどこの誰でも良いと思っている。ただ、父の『面影』に聞かせたい言葉があるだけなのだから。
「あの、私は……」
美也子は語った。自分が異界人であること、濡肌種の男である夫をどれほど愛しているか、そして、異界に残してきた母に対する恋慕を。
男はその長い話に、じっと聞き入っていた。美也子が全てを話し終わるまで、決して口を開くことはなかった。そして美也子が、帰郷と残留の狭間で揺れている今の気持ちを口にし終わると、ぽつりと言った。
「……それを俺に話して、どうするよ」
引き攣れた傷跡をさらに歪めての嘲笑が、その唇に浮かぶ。
「あんた、自分の進退を俺に決めて欲しいのかい?」
「そうじゃ……ないんです」
ただ、懺悔したかっただけなのかもしれない。美也子の気持ちは、とっくに決まっているのだ。例えもとの世界へ帰る手だてがあったとしても、夫とともにこの世界で生きていこうと。それはギャロリエスと交わした約束でもある。
だがそれは、界を隔てて母を置き去りにするということだ。胸が痛まぬはずがない。
「お母さんは、私がいないと、一人ぼっち、だから……」
少し泣き出しそうな声に困りきって、男はバリバリと音がするほど頭を掻く。
「ああ、別に泣かしたいわけじゃねえよ。ただ、俺はあんたが望むような答えは何一つ持っちゃいねえぞ」
「はい、解ってます」
「だが、ひとつだけ言ってもいいなら、あんたがしたいようにすればいいんじゃねえの、ってことだな」
分厚く硬い手のひらが、美也子の頭を撫でた。それはあまりに懐かしい感覚だった。
「親って言うのは因業でよ、自分の子供の幸せのためなら、ほかは何を犠牲にしたって平気なんだよ。自分の気持ちさえ後回しにしちまう」
「だから、余計に、母さんを一人にするのは……」
「馬鹿か。自分の親にくらい、甘えろよ」
突然、美也子は男に抱き寄せられた。鼻先に押し付けられたシャツから汗の匂いがする。それは、鼻腔に眠る記憶を揺さぶった。
(父さんのにおいだ)
仕事上がりの父に鼻を擦り付けて、この匂いを嗅ぐのが好きだった。もちろん、美化された記憶が見せる幻覚だろう。だが、この男は本当に父に似ている。
「ここは、やっぱり死後の世界ってものでしょうか」
「馬鹿言っちゃいけない。死んだら、何もあるもんか」
ほら、違う。これは魂の存在すらない、こちら側の死生観だ。
それでも、一度でいいから呼んでみたい。
「お父さん」
男はさらにバリバリと頭を掻き毟り、小さな声で答えた。
「……あいよ」
「お母さんは、泣いていないでしょうか」
「ああ、まあ、泣くだろうな」
「それでも、私は、ここに居たい」
「うん、それに関しちゃあな、俺相手に言うことじゃないだろう」
男は美也子を手放し、まっすぐに瞳を覗き込んだ。
「あんた、ちゃんと旦那さんに甘えているか? 男って言うのは馬鹿でさあ、女房に甘えられると、どんなに無理なことでも何とかしてやりたいと思っちまうんだよ」
「甘える……」
「あんた、甘えるの、下手そうだもんな」
傷跡が笑う。懐かしい笑顔だ。
「ちゃんと甘えてやれよ。女に甘えられるってのは、男にとっちゃあ、何よりもうれしいんだからよ」
それに、ギャロに似ている。いや、ギャロが彼に似ているのか。
「ありがとう、お父さん」
二度目の呼びかけは、馬車に雨粒が吹きつけられる音でかき消された。嵐は強まりつつある。
「なあに、嵐の過ぎたあとは、辛いのや、怖いのが嘘だったみたいに晴れちまうもんだよ。何も心配しないで、今夜は寝ちまえ」
みしり、と風にあおられた馬車が、心細くきしんだ。だが明日になればきっと晴れるのだから……
「ありがとう」
今度は風音の隙間をぬって、美也子の声は男に届いた。




