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コトの済んだあとは肌を合わせたまま、少しまどろんだ。そのとき、ギャロはまた二つほど涙を流して、「お前が俺の子供を産んでくれると言ったことは、絶対に忘れない」と呟いたが、それはあまりにも大げさだと思う。
美也子は、夕食前の一風呂を楽しもうと湯殿に居た。身体を洗い清めながら胸元に目をやれば、そこには大きな赤い標が咲いている。
「っ! ギャロったら!」
こういうときに、醜怪種の白い肌は不便だ。とっさに手ぬぐいで隠し、あたりを確かめる。幸いに夕食の直前ということもあって、入浴客はほとんど居なかった。
石造りの浴槽は、湯気で向こう側がかすむほどに広い。そして洗い場は、立ち上る湯気でふんわりと満たされている。湯船に浸かっている数人は年かさの女性ばかりで、各々手足を伸ばしてゆったりとくつろいでいるのだから、美也子の小さな胸元を気にとめるものなど……一人だけ、いた!
湯船の中で、見知った顔が手招きする。
「座長!」
石鹸の泡を流し、胸元を隠しながら湯船に身を沈める。だが、目はしい彼女に対しては、無駄な行為であったようだ。
「いや、夫婦円満で、結構だねえ」
ぺちゃりと横広い顔が、さらに横広に感じるほどの笑顔。美也子はうろたえてあたりを見回す。
「子供さんたちは?」
「ああ、子供たちは二件となりの湯屋さ。あっちはプールがついて居てね、風呂も子供向けで、あたしみたいにくつろぎたいクチには、ちょっとね」
別に子供たちを放り出して遊んでいるわけではない。集団生活なのだから、付き添いの者はいくらでも見つかるのだ。きっとネルあたりが、四苦八苦しながらお守りしていることであろう。
大人たちもそれぞれ、好みの湯屋に湯を楽しみに行っているという。それでも、この座長が、入浴だけでも少々値の張るここをわざわざ選んだのは、『弟』夫婦を案じてではないだろうか。
そう思った美也子は、両頬を赤く染めて俯いた。
「ギャロとは、うまくいっているとおもいます。その……円満、ですし……」
これには、座長も両頬を真っ赤に染める。
「そそそそ、そっちのことだけを言ってるんじゃないよ! 本当にあんたは素直だねっ!」
ばしゃばしゃと湯で顔を叩いたのは、照れ隠しだろうか。座長は渋面を作って、長い長いため息を吐いた。
「あの子、なんか悩んでいるみたいじゃないか」
それは美也子も薄々と感じている。ここのところの彼は、急に無口になり、ぼんやりと何かを考え込むことが多いのだ。そんなときは作業する手元がお留守になるのだから、実にあからさまに。
「あんたはあの子の女房だからさ、何か心当たりはないかい?」
そう言われても、彼は自分の気持ちを多くは語らない。夫婦となったのだから、もっとあけすけでも良かろうに、我慢強すぎる性質はすぐに治せるものではないのだろう。だから美也子は、彼に気持ちの説明を求めるような事はしない。
それでも心当たることがあるとすれば……
「子供の話をしたら、ギャロ、泣いてました」
「子供ぉ?」
「はい、だって、夫婦になったのだからいずれはあることかと」
座長は全てを合点した。
「あんた、あの子の子供を産むつもりだとか言ったのかい?」
「はい、いけなかったですか」
「ああ、残酷なことをするねえ」
異界から来た娘との恋物語は人気の題材だ。旅座の座長を務める傍らで人気作家もつとめる彼女は、異界人である美也子の誤解を正しく理解していた。
「あんたとギャロじゃ子供はできないよ」
その言葉が美也子を貫く。湯舟に身を浸したままだというのに、手足の先が少し冷たく感じるほどだ。
「あんたたちの世界じゃ、ヒトと言えば醜怪種しかいないんだろ? だから解らないんだろうね。違う種族同士で子供が出来る事はないんだよ」
生物としては道理な話である。人とカエルで子供が出来るわけがない。
「でも、違う種族同士でも、夫婦になれば……」
「ああ、そのからくりはね、異界の少女たちにとって受け入れがたいモノなんだよ。物話の中のカップルが破局を迎えるのはね、それが理由さ」
この世界では異種族同士の結婚は珍しいことではない。しかし、夫婦者に子が出来なくては不都合もあるだろう。
まず、家を継ぐ者がいなくなる。老後の扶養にも問題が生じる。だから、女は同種族の男から子種をもらい、夫のために子供を産むのである。母系社会になるのも当然といえよう。
それでも、形は違えど貞操観念がないわけではない。夫以外の男に、子を為すためだけに身体を預けるというのは、女にとってはやはり、一大決心なのである。
「つまり、そういうことも一緒に乗り越えて、本当の家族になろうっていう、女だけに許された殺し文句さ」
だが、実際に子供を産む女と、子供を授けられる男とでは感覚の相違があって当然。
「あたしに言わせれば、男ってのは存外に純情な生き物さね」
座長はまた一つ、ぶるりと顔を洗う。
「特にあの子は、家族と言うものへの執着が人一倍強い。おまけにあんたにはベタ惚れときている。そのあんたが、自分のために家族を与えてくれるなんて、どれほど嬉しかっただろうねぇ」
「私は、そんなつもりで言ったんじゃ……」
「解っているさ。でも、あの子は誤解しただろうね」
いたたまれなくなって、美也子も顔をぶるりと拭う。座長はざぶりと音をたてて、湯から上がった。
「誤解があったなら質せばいいじゃあないかね。そうやって少しずつお互いを知り合っていくのが、夫婦さね」
湯船に浸かったまま、美也子が震えている。こんなに湯気のたった温かい湯だと言うのに、身体を縮めて、まるで寒そうな風情だ。座長は声音を緩め、温かい声を美也子に与えた。
「まあ、子供がいなくたって仲良くやっている夫婦は多いさ。特に、あの子はあんたのことを大切にしているからね、そのくらいの誤解で怒ったりしないだろうよ」
確かに彼は怒りはしないだろう。だが落胆はするに違いない。美也子には、それが何よりも悲しかった。だから、ばしゃりともう一つ、顔を洗う。
全体、自分はもっとしっかりとした女だと思っていた。ファンタジーな出来ごとは物語の中だけと心得て、現実と区別することの出来る女なのだと。それが、このていたらくか。
蛙の容姿を持つ彼と、自分はあまりに見た目が違い過ぎる。それだけでも、子供が出来ぬことぐらい予想はつくだろうに、今まで一度も疑うことなどなかったのだ。愛情で結ばれれば、いずれ子供は出来るものなのだと信じきっていた。
それこそ甘い夢だというのに……。
だから、その落胆は座長と別れたあとも尾を引いた。