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それは少しの引っ掛かりを二人の間に残したものの、取り立てて心に残るような出来事ではなかった。何しろ、日常というのは忙しいものなのだ。旅馬車は、次の町に向けてごとごとと単調に進むだけだが、その中で生活は営まれているのである。
夜は安全と、馬を休ませるために馬車を止める。だから、夜は十分な睡眠がとれるのだ。そして、日の出とともに起きる。
起きて早々、朝食の準備が始められる。これは女衆で当番が決まっているのだが、移動中に食べる昼食までまとめて用意するため、朝っぱらから結構な重労働だ。朝食の当番に外れた者は、その間に水場から一日に使う水を汲んで馬車に積む。川の近くであれば洗濯もしなくてはならないし、砂地であれば馬車の清掃など、日々の仕事はいかほどもあるのだ。
それも済んで馬車が動き出せば、今度は祭り稼業のための下準備が待っている。馬車の中で、舞台の練習やら、備品の整備やら、ギャロのように細工を拵えたり、各々の仕事がいくらでもあった。
その日のギャロの仕事は、ネルと二人で屋台の幌を広げて、その繕いである。
そして美也子は、ギャロリエスの家から分けてもらった小布などを使って、裁縫の最中であった。女の子向けの目玉景品を作ろうというのである。
ぬいぐるみなどが良かろうと、美也子は昨日から針を動かしている。とはいっても裁縫は不得手であるため、いきなり大物をでは無く、手のひらほどの小さな物を練習用として作っているのだが、これは思ったよりも大変であった。
頭は布を引き絞って綿を詰め、丸く形を作る。そこに顔料で顔を書き、髪の毛になる毛糸を縫いつけた。身体は、先に作った手足を縫いとめながらそれっぽい形にした。胴体と頭を縫いとめれば、後はきれいな柄布で作った服を着せ付けるだけなのだが。
「う~ん……」
出来上がったのは、作った本人ですら可愛いとは言ってやれない代物だ。首はぐらんとだらしなく揺れているし、手足の長さも不揃いで、ちぐはぐな感じがする。
ネルが、美也子の手元をひょいっと覗きこんだ。
「うわ、不っ細工だな」
実に素直な感想だ。それだけに、美也子の心に深く刺さる。
「あんた、裁縫、向いてないんじゃないの?」
何かを言い返すでなく、ただ俯いて唇を噛む美也子の姿に、ネルはガリガリと頭を掻いた。
「あ~……ちょっと貸してみな」
彼は座りこみ、針と糸を取った。小さな針穴に、すいっと難なく糸が通る。
「何も、現実の生き物をそのまんま作らなくてもいいんだ」
布を手に取った彼は、針を動かす。それは見事な手付きだ。
美也子が動かす針はザク、ザクと音をたてたが、ネルの手元で泳ぐように動くそれはスイ、スイと布目の間をくぐる。あっという間に、二つの布団子が出来上がった。
「だいたい、型紙無しで複雑な形をつくろうってのが間違ってる。そういう時は、形を簡単に、単純にしちまうんだよ」
二つをつなげれば、それは胴体と頭に見えた。彼はさらに、耳になる布を足す。それもわざわざ縫い合わせるのでは無く、折りたたんで三角形にした布をちょいちょいと縫い止めると言う、心憎い技術だ。
「針を動かす回数が減るだろ?」
さらに小さな布の玉を四つ作り、手足の位置に縫いとめる。余った糸の端でちょいちょいと目鼻をつけ、髭を刺せば、ころころと丸っこい猫が出来上がった。
「これなら耳の形を変えるだけで犬でも、豚でも作れらあ」
呆然と針の動きを見守っていた美也子の手の中に、ぽん、とその人形が渡された。ギャロも賞賛の声をあげる。
「相変わらず器用だなあ」
「へへへっ、まあ、このくらいは、な」
「美也子、目玉の景品は、ネルに頼んじゃあどうだ。間違いない物を作ってくれるぞ」
そう言われて、美也子は狼狽した。
「いえ、ちゃんと練習するし、がんばるし……」
「ああ、がんばるのはいいことだ。だけど、自分の苦手な事は誰かに頼むって言うのも、賢いやり方だろ」
「だって、私は、女だし、裁縫、くらい……」
「お前は時々、おかしなことを言うなあ。それがあっちのやり方なのか?」
ギャロはかがみこみ、美也子が作った不細工人形を手に取った。
「誰にだって、得手、不得手があるだろうよ。それは男だとか、女だとか、関係ないさ」
「だって……」
「だってじゃない。いいか、美也子、朝餉の支度が女衆の当番になっているのは、重労働である水汲みに男手を持ってくるためだ。だが、女でも男以上に力のあるものがいれば、当然に水汲みを手伝わせる。そら、チョトおばさん、いのしし頭の。あれなんか、若い頃は料理番じゃなくて水汲みをしていたさ」
件の婦人は年齢を考えて料理番に回されてはいるが、力仕事があれば借り出されて男以上の働きを見せる。かように個々の能力差の著しい世界なのだ。特に集団で生活する旅座では、男女の枠などあまりにも無意味。
「女らしくない、とか、言わない?」
上目遣いで伺う美也子の表情に、ギャロがごびりと喉を鳴らした。
「お前のどこが女らしく無いって言うんだよ。あんな、その……可愛いというか、エロいというか、女の顔するくせに……」
欲熱に浮かされて女房の腰に伸びる手を、ネロの声が遮った。
「ギャロ、まだ真昼間だぜ」
「うう、そうだったな」
慌てて手を引っ込めるしぐさに、ネロがげたげたと笑う。
「まあ、俺の方だってただで引き受けてやるつもりはないさ」
「美也子は俺の女房だからな!」
「知ってるよ。あんたから女、寝とろうってほど恥知らずじゃないさ」
かたつむりがねっとりと笑う。本人はさぞかし爽やかな笑顔のつもりであろう。
「あんた、『マケテイグ』っていう、商売繁盛の魔法が使えるんだって? 俺の屋台にもそれ、やってくれよ」
「え、それは……」
「美也子、いいから引き受けておけ」
ギャロが笑う。
「それからな、ネロ、『マーケテイグ』だ」
「どっちでもいいや。ともかく、俺は目玉景品になるようなぬいぐるみを拵える。あんたはその魔法を俺の屋台にかけてくれる。ギブアンドテイクってヤツだ。気にするな」
ああ、こっちの世界の男は優しい、と美也子は思った。それはここが母系社会であることも一因なのかもしれない。女を大事にする風潮が強いのだ。
そんな優しい男たちのなかでも特に優しく、誰よりも美也子を大切にしてくれる、ギャロ。この夫君の傍を離れることなど、美也子には思いもよらないことであった。