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“名前を仮にヒエロとしておこう。

 母親に売られてこの一座に来たとき、彼はまだ5歳だった。

 誤解の無いように言っておく。北部地方の母親たちは子供を叱るのに「言うことを聞かないと、旅芸人に売ってしまうよ」とよく言うが、そんなことは現実にはありえない。大昔ならいざ知らず、今日の旅座は身寄りのない子供のための互助措置である。親を失った子供たちを無償で引き取るのが本来であって、金銭で人身を買い叩くような、浅ましいことはしない。

 それでも彼が売られた理由は、夫と死に別れた女がひとり、幼子三人を抱えて生きていくには世間は冷たすぎた、それだけの話だ。

 窮したその女は古くからの友人である私の母を恃み、訪ねてきた。一番上の子を預ける代わりに、その子が将来もらうであろう給金を前借させて欲しいというのだ。私の母はその話を受けた。母子に対する救済のつもりであったのだろうが、幼子と引き換えに金をやり取りする姿は、当時の私には『子供を売った』ようにしか見えなかった。

 ましてや、幼かった彼には……”


 今日はここまでにしようと、美也子は書物に栞を挟んで、枕元においた明かりを消した。夜の馬車はすでにいくつかのいびきを篭らせ、隣に眠る男の大きな背中も、規則正しい寝息を刻んでいる。

 夫となったギャロが美也子に望んだのは、舞台組をやめて屋台番に立つことだった。本当は舞台に立つほうがいくらか実入りがいい。だからギャロも強いた訳ではないのだが、「金は二人で頑張ればなんとかなると思う」と言いながらも、不安げに震える肩を見せられては……。

 結局、惚れた弱みというものなのだろう。美也子はギャロの寂しげな風情に弱い。彼の生い立ちを読み始めてからはなおさらだ。

 父を亡くしたという境遇は似ている。女手一つの家庭を哀れんで、美也子に養子縁組の話を持ち込んだ親戚も居たそうだ。それでも美也子の母は、頑固なほどの愛情で娘を守り、育ててくれた。だからギャロの心の傷がどれほど深いのか、慮ることしか出来ない。

(ギャロ、私は、ここに居るよ、ずっと……)

 眠りに沈む背中に、そっと片手を伸ばす。掌だけを押し当てれば、寝息が伝わる。

 遠い異界に残した母に対する慕情は、確かにある。それでもこの男の傍に居たいと思うのは、強欲だろうか。

(ううん。お母さんなら解かってくれる)

 そう思うのは甘えだと知っている。だが、母は常から言っていた。

『美也子が幸せなら、母さんも、遠くにいる父さんも幸せなのよ』

 どうせ、母の元へは二度と帰れない。ならばここで、この世界で幸せになることがせめてもの親孝行ではなかろうか。

(それでいいかな、お母さん……)

 彼から伝わる呼吸のリズムが、美也子を眠りへと誘った。まぶたが落ちる。

(……それでいいかな、ギャロ?)

 文字もだいぶ覚えた。ギャロと並んで細工物をこしらえるのも、いくらかは上達したと思いたい。彼との距離は少しずつ縮まっている。

 だから、きっと、同じ屋台に立つようになれば、もっと……美也子は静かに眠りに落ちた。

 次の興行地、カステアの村は近い。あと二晩も寝れば着くだろう……


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