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“名コメディアンとして名を馳せた彼がなぜ舞台を離れたのか、なぜこんな小さな旅座で屋台仕事などしているのか、それを語るには彼が養子としてここに来た経緯から話さなくてはならないだろう。”
書物の一節から目を上げて、美也子は座長の表情を確かめる。
覚えなくてはならない基本文字は58種。それも表音文字であるため、表意文字は追々に覚えていかなくてはならないだろう。
大体が、お世辞にも勉強向きの環境とは言えない。
なにしろ移動中の馬車はがたがたと揺れる。それに、隣で書き取りをさせられている座長の息子は、ふて腐れているし、その妹は美也子にぺったりと張り付いて甘えているのだから、集中力を削がれる。
それでも何とか序文を読み解き、読み上げた美也子の頭を、座長はぺったりとした掌で撫でてくれた。
「あんたは、頑張り屋だねえ」
裏表なく心底からの言葉だ。
だが美也子がそれに返したのは、可愛げのない一言であった。
「だって、どうせ元の世界には戻れないんだから、ここで生きていけるように頑張らなくっちゃ」
本当は美也子にだって解かっている。
せっかく可愛らしい容姿に生まれついたのだ。にっこりと笑ってお礼の一つでも言えば、人間関係はさぞ円滑に回るのだろう。
ふと、ギャロの言葉を思い出す。
『集団生活で、根無し草稼業なんだ。人間関係くらいは平穏な方が良いだろ』
ごもっともだ。慌てて取り繕いの言葉を探す。
「あの、えっと……」
そんな美也子に向けて座長が返したのは、心底からの微笑み。
「あんたは、本当に正直だねえ。ま、そのぐらいの方が、あの子にはちょうどいいのか」
美也子の前にどっかりと腰を降ろした座長は、テキストに使っていた冊子をとんとんと指でつついた。
「これはあたしが書いた、あの子の半生記さ。まずはこれを読みきって欲しい。正直なあんたのことだ、きっと正直な答えを選んでくれるだろうからね」
「正直なんかじゃ、ないですし!」
「解かってないねえ。そういうところが正直だって言うんだよ」
座長の声はあくまでも優しい。
「あんたはいい子だよ。あたしゃ、神様なんか信じちゃ居ないがね、あんただけは、あの子の人生を哀れんで神様が寄越したんじゃないかって、そう思うのさ」
「哀れ?」
「あの子は誰よりも愛情深い。だけどね、それは寂しい気持ちの裏返しなのさ」
確かにギャロは優しい。美也子がどれほど強がろうと、必ずそれを越える愛情で包み込んでくれる。だから、昨夜も安心して泣いた。
だが、あれが寂しさなのだとしたら、彼はどれほどの傷を抱えているのだろう。それに、どれほどの愛を返すことが出来る?
不意に、座長の娘がきゅっとしがみついてきた。
「ミャコせんせ、む~って顔すると、ビヨウに良くないんだよ」
「び? ああ、美容ね」
幼子を抱き上げる愛情深い仕草に、座長は大きなため息をもらす。
「子供……か。あの子に家族を与えてやって欲しいと願うのは、異界から来たあんたには酷なんだろうね」
それは妙な感覚を美也子に与える一言ではあったが、子供たちの手前、詳しく聞くのは気が引ける。
「別に、ギャロの子供なら……」
それだけを言うのが精一杯であった。