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座長の馬車は少し離れて停められている。それは他に比べて特に大きなものではない。
「まあ、あんたら乗り合い組と違って、これは私の持ち物だからね。車輪がついてガタゴト言う以外は『家』さね。だから気楽にしておくれ」
きちんと戸板のついたドアを開けて、座長は美也子を中に招き入れる。中は座長と二人の子供のための簡易なベッド、馬車用の作り付け式のたんす、お茶用の小さなキッチン。暮らすに不便無くしつらえられている。
ベッドに子供のものであろう、薄汚く擦り切れたラグドールが転がっているのが、生活を感じさせた。
「素敵ですね」
「そうかい? そりゃあ、ま、そうだろうよ」
柔草で編んだ座布団を薦める両生類頭は得意げに鼻先など上げて愛くるしい。美也子の鼻先から柔らかな笑息が漏れた。
「笑わない! 一応、怒られに来たんだろ!」
「は、はい!」
座を正す美也子に向けて、今度は座長が笑息を吐く。
「あんたは素直だねえ。ギャロがイカレちまうのも解かるよ」
「えっと、ギャロとは……その、あの……」
ここで否定しては、せっかく自分を庇おうと偽の婚約までしてくれた彼を、貶めることになるのではないだろうか。かといってこのままにしておけば誤解は深くなる。
そんな戸惑いに、座長は戸棚から出した干菓子を差し出して答えた。
「いいよいいよ。今は難しいことを考えなくていい。私が聞きたいのはもっと単純なことだからね」
「あの……舞台を台無しにした責任なら私にあります。どうか、ギャロのことは……」
「それも気にしなくて良いよ。こうなる事は全て計画のうちなんでね」
「でも、お客さんが怒ったんじゃあ……」
「ああ、みんなに入場料を返して大損害さね。今夜だけを見ればね」
座長は洋服の隠しから数枚の硬貨を出して、ちゃりっと美也子の前に置いた。
「今夜の出来事であんたたちのファンになったお嬢さん方からさ。女を掻っ攫いにくる男ってのは、女の子なら誰でも憧れるもんだろ?」
美也子には思い当たることがあった。この座長は副業を持っている。
彼女の感覚では1世紀ほど『遅れて』いるこちらの文化に、旅座の果たす役割は大きい。ちょっとした行商の真似事などすることもあれば、情報を運ぶこともある。それも専門の職ではないゆえ、最先端のものをほんのちょっぴりとだ。
そんな流行の水先である旅座の座長が物語の書き手を副職にするのは珍しい話ではない。
「まったく、いい宣伝になったよ。せいぜい副業のほうで稼がせてもらうから、気にする事は無いよ」
そういいながら座長は長持ちをかき回している。
「もっとも、あの子には内緒にしておきなよ。男って言うのは、すぐいい気になるもんさね」
やっと探し出された古ぼけた書籍は、無造作に美也子の前に投げ出された。
「あの、私、本は……」
「解かってるよ。文字が読めないんだろ、こっちの世界の」
「!」
「そんなに驚くことは無いさね、美也子サン?」
「他のみんなは……」
「ああ、気づいている者もいるだろうね。だけど誰も『ギャロの女房』を売ろうとは思わないさ。そこだけはあの子の人徳だ。感謝しなよ」
ぬちゃりと横広い顔がきゅうっと渋面を作る。
「あんたは、あの子が好きかい?」
「はい」
返事を迷う必要など無かった。野次の飛び交う舞台で抱き上げられた瞬間、はっきりと自覚したのだから。
「冷やかしや、中途半端な気持ちならやめておくれよ。あの子は見た目以上に繊細なんだ。それを読めば解かると思うけどね」
「でも、文字は……」
「明日からあたしのところに通いな。ちょうど『授業』の手伝いが欲しかったんだ。ついでにみっちりと仕込んでやるよ」
のっぺりとした顔が、再び笑顔を浮かべた。