【Poison1-4】サクオ、修業中につき。
おまたせしました。
魔力の特性を知った日から3日が経過した。その間、俺は魔力調整に関して色々と試してみた。力技で魔力を捩じ伏せ様としてみたり、逆に魔力に身を委ね様としてみたりと様々な事をやってみたが……結論から言えばどれもこれも駄目だった。
力技でやった場合、エドゥナに魔力を放とうとした時と同様、魔力が俺に反抗するかの様に暴れて制御出来そうになかった。身を委ね様とした時は、魔力が際限無く後から後から溢れ出してきて……それに呑まれそうになって非常に怖かった。他のやり方も似たり寄ったりだった。
……隠してもしょうがないから正直に言おう。魔力調整はかなり難航している。つまりあの日から今日まで、未だ魔力を放つ所まで至っていない。
「……さてと。これからどうするかな」
……まぁ言っても何も思いつかないんだが。しかしだからといってだらけて居ると、エドゥナにどやされてしまうんだ。昨日の朝などは――
『起きろ!何時までだらけておる!?さっさと魔力を飼い慣らさぬか!さもなくば森の中に放りだすぞえ!?』
「……あ゛ぃ」
『っ!?なんじゃその腑抜けた面は!洞窟の裏手を少し行った所に川がある故、そこで顔でも洗って目を覚まして来るが良い、この馬鹿者め!!』
――などと言われた。だが俺にも言い分が。魔力調整なんて慣れない事をしているせいか、昨日の朝は特にひどかったんだ。俺は低血圧だが、それでも時間をかければ普通に起きられる。だが昨日は身体と脳が全く反応出来ず起きられ無かった。あれからまだ3日しか経っていないのにこの体たらく……先が思いやられてしまう。我ながら情けないが……
「……良し。とりあえず顔でも洗って来るかな」
俺は憂鬱になっていく気持ちを切り替える為、裏手にある川に向かう事にした。
***
「あ゛ー……最高だな」
澄みきった綺麗な水が身体の汚れを落としていく。それと同時に身体に貯まった疲労までも洗い落とされていく気さえしてくる。
所代わって俺は今、洞窟の裏手徒歩5分位の所にある小川に来ているんだが……顔を洗うついでに水浴びもしている。気分爽快だ。
何故いきなり水浴びかって?……それは身体が汗臭過ぎたからだ。それもその筈、よくよく考えてみたら俺はこの世界に来てから一度も風呂に入っていなかったんだ。当然汗臭くもなる。おまけにジーンズとTシャツもかなり臭かった。まぁこれらもこの世界に来てから一度たりとも洗濯をしてなかったので臭くなるのは必然。俺としては臭いのは嫌だし、大事な大事な一張羅だ。なので身体の汚れを洗い落とすついでに丁寧に水洗いした。ちなみに木の枝に引っ掻けて今は乾燥中だ。
まぁこれは言う必要があるかどうか分からないが……つまり俺は水浴びしながら衣服をせっせと洗っていた訳だ。当然真っ裸で。我ながら恥ずかしかったし、端から見たら間抜けな絵面だとは思ったが……それは考えない事にして割り切った。何故ならここには人間が俺以外存在しないからだ。故に恥ずかしいと思う事自体が馬鹿らしいと思ったんだ。そもそも魔獣やら霊獣やらも真っ裸だろうし。多分……
「まぁどうでもいいか。それより風呂に入りたいな……ま、今は我慢するか。さてと。どうするか……」
俺は誰にともなく呟き、思考を切り替えて魔力調整の事について考える事にした。水浴びをする事によって頭が冴えた気がするし、何よりすっきりした。今なら何か思いつくかもしれないと思った。それに服が乾くまでまだ時間があるしな……
俺は程よく冷たい水に浸かりながら考えを纏める事にした。
***
「……」
さて。魔力を飼い慣らすには、まずどうすれば良いのだろうか?意思の力では捩じ伏せる事は出来そうに無い。逆に身を委ねる事も大惨事を引き起こしそうで気が引ける訳で……うーん。分からん……
俺はそこでザブンと川に潜った。優しく流れる水が頭を冷やしてくれた。リセット完了。思考を切り替える。
「……ぷはっ。ふぅ……同じ事をぐだぐだ考えていても駄目だな……もっと別の方法がある筈だ」
そこで俺は何の気なしに己の魔力を放ってみるつもりで高めてみた。もう一度意思の力で捩じ伏せてみようかと思ったからだ。
「……っ!くそっ。このやり方は何度やっても駄目だなっ!」
……すでに分かっていた事だが、やはり駄目だった。まるで俺に反発するかの様に暴れまわる毒魔力。本当に嫌になってくる。
俺は暴れる魔力を抑える為に素早く鎖と枷をイメージ。そして己の魔力をイメージした鎖でがんじがらめにし、同時にイメージした枷をかけた。更に重厚な扉をイメージして鎖と枷でがんじがらめにしたそれ(・・)を扉の奥に押し込む。そしてそのまま扉を閉めて幾つもの鍵をイメージ。それらを扉に設置して鍵を掛けまくった。
このイメージを使った抑制法はエドゥナとのやり取りの時に魔力を抑えたやり方なんだが、不思議とスムーズに魔力を抑える事が出来るんだ。そしてこのやり方はかなり重宝している。
「……はぁ。ままならないな」
イメージによる抑制法を見い出す事が出来たのはかなり大きい気がする。しかし何時まで経っても魔力を制御する事が出来ない癖に抑える事だけが日に日に上達していく事が情けなく感じる訳で……
「……でもまさかイメージで抑えるってのが有効とはなぁ。要は気の持ち様って事なのか?原理が全く分からん……ん?いや、ちょっと待てよ?イメージ?」
そこで唐突に閃いた。俺は枷やら鎖やらで魔力をがんじがらめにする事をイメージして暴れるまわる毒魔力を抑えている訳だが……逆にそれが出来るのならばイメージで魔力を制御する事も出来るのではなかろうか?、と。
「気の持ち様が大事って事が前提だが……うん。これはやってみる価値があるかもな」
手立てが無い以上、ちょっとでも思う事があったら即実行。なのだが……
「……えーと。これは何をどうすればいいんだ?」
……何をイメージすれば良いのかが思いつかない。抑えつけるイメージは簡単だったが、魔力を制御して調整する為のイメージとは何だ?
「……ま、四の五の言っても仕方無いか」
そう思い、俺はまず制御する為に必要なイメージとは何かを考える事にした。
***
魔力を抑える為には暴れる獣を抑えるが如く鎖やら枷やらを思い浮かべて、イメージしたそれらで拘束すれば良いだけだった。そう言うシーンをアニメやら漫画やらで見た事があったので比較的イメージしやすかったんだ。だが魔力を制御、調整するにはどの様なイメージが有効なのだろうか?これは中々思いつかない。難しいな……
「調整……制御。つまり魔力の度合いを弱めたり強めたりって事だろ?……最低の値から最高の値まで……最小から最大へ……上下させる……」
……うん。ブツブツ言っている俺はかなり怖い筈。おまけにだいぶ気持ち悪いとは思う。思うが……そこは気にしないでくれ。これはイメージを固める為に必要な事だから。
「……うーん。こんな物ででいいんだろうか」
そして頭の中でイメージが固まった。とりあえずではあるが、俺はある1つのモノを思い浮かべた。
それはオーディオプレーヤーなどに付いているボリュームを変更する為に使用する『ひねり』だ。これが今俺が思い描いたイメージだ。正式な名称は知らないが……まぁ肝心なのはイメージなので必要無いだろう。多分だが……
俺は目を瞑り、集中。そして頭の中でその『ひねり』を魔力を抑え込む為にイメージした扉に装着する。その結果、
「……こ、これは中々ひどいな」
自分のイメージ力の無さに嫌気がさした。だが一応形にはなったので、それはこの際良しとしておく事にしよう。さて、ではその問題のイメージを具体的に説明しようと思う。
俺のイメージ力の無さでかなり不恰好になってしまったその『ひねり付き扉』の見た目は……そうだな。簡単に言うと金庫を連想して貰えれば分かりやすいかもしれない。ちなみに『ひねり』の回せる段階は0〜5。0がOFFで1が最弱。5が最強と言う感じだ。塩梅が分からない為、とりあえずはこれ位でも良いだろうと判断した結果だ。
「……まぁうん。不恰好なのはしょうがない、よな……良し。やるか」
……とりあえず割り切る事にした。そして気を取り直しつつ、俺は試しに頭の中で『ひねり』の段階を0から1に上げる。
「……っ!」
頭の中で扉が僅かに開く。そしてその奥から弱い魔力が漏れ出してくるのが分かった。だが魔力が暴れ回る気配も、俺の意思に反して溢れ出す事もない。その事を確認した後に段階を1から0に下げる。扉が閉まり、魔力の漏れが無くなった。どうやらイメージによる魔力制御が成功してしまった様だ。駄目元でやってみた訳だが、この結果は非常に嬉しい誤算だ。
「……良し。これならいけそうだな」
俺は確かな手応えを感じた。そして何かが変わるかもしれないと言う予感とともに、俺は頭から川に浸かった。
今日、この場よりさしあたっての問題点だった俺の魔力調整力は劇的に改善される事になった。
***
身体を清め、心身をリフレッシュした俺は乾いた服に袖を通した後に洞窟前の広場に戻ってきた。そして目を閉じてその場に佇む。先程掴んだコツを逃がさない為にも早く試してみたいが……
「落ちついて取り組もう、俺」
……急いては事を仕損じる。はやる気持ちを抑える為に深呼吸をしつつ、再び『ひねり』を回して段階を0から1へと上げる。
「……良し。これなら本当に大丈夫そうだな……」
やはり魔力が暴れる気配やら勝手に溢れ出してくる様な事は無い。非常に安定していて、一定量の微弱な魔力が扉の奥から漏れ出している。そして安全を確認した後、俺は初めて魔力を体外に放ってみた。
「……おぉ!」
思わず声を上げてしまったが……これまた不思議な感覚だ。身体から何かが抜けて行く様な感覚はある。だが喪失感や虚脱感などは一切感じない。むしろ身体から溢れ出る魔力が俺を守る様に包んでいるのが心地良くすらある。重ねて言うが不思議な感覚だ。言葉では説明出来ないが、少なくとも不快では無い。それに加えて身体が非常に軽く感じる。同時に力もみなぎっている。三度言うが、これは本当に不思議な感覚だ。
そんな感覚を味わって居ると、何故か無性に身体を動かしたくなった。俺はその衝動に身を委ね、握り拳を作りつつ構える。そしてその場でステップを踏む。やはり身体が軽い。
「シィッ!!」
そして目を見開き、そのままジャブを放つ……そして驚いた。自分で思った以上にジャブが鋭い!まるで自分の身体じゃ無いみたいだっ!!
「何だよこれは!?ま、別どうでもいいかっ!」
……疑問は尽きないし、自分の身体に起こった変化が気にならないと言ったら嘘になる。だが今はもっともっと身体を動かしたくて堪らない。なので俺は全ての思考を凍結。そしてシャドーボクシングを始める事にした。
***
「シュッシュッ!シィッ!」
鋭く、そして短い呼気を漏らしながら俺はパンチを放ち続ける。足を動かす事も忘れず、フットワークも丁寧に。
「シィッ!シュッシィッ!……フッ!シュッ!シィッ!」
左ジャブ、左ジャブ、右ストレート。そのまま反転してから上達を屈めて左ボディ。そこから更に左フックを放ち、バックステップで後方へ下がる。そして左ジャブで牽制しつつ、最後は右ストレート。
「シュッシュッシィッ!……フッ、フッシュッ!シュゥッ!!」
そして左ジャブ、左ジャブ、右ストレート。そこでスイッチ――軸足を左右入れ替える技術――その後右ジャブ、右ボディ、右アッパー、最後は左ストレートを放つ。
こうして俺は時間を忘れて、その後も見えない敵相手に拳を放ち続けた。
***
……あれから俺はしばらくの間、シャドーボクシングを楽しんだ。それなりに満足した俺はその場で構えを解き、己の拳を眺める。産まれてからこれまで、苦楽を共にしてきた己の一部。それが今は普段よりも力強い物の様に感じる。
「ははっ。何だよコレは?嘘だろ……」
我知らずちょっと乾いた笑みが漏れてしまった訳だが、それも仕方がないと思う。何故なら動き続けたのにも関わらず、不思議と疲労感がまるで無いからだ。
……話しは変わるが、ボクシングと言う競技は相手にパンチを放ったり相手が放ったパンチを避けたりと……まぁ簡単に言えば止まる事無く動き続けるスポーツ格闘技だ。そして試合時間は1ラウンド3分。勝負が長引けば10ラウンド以上闘う場合もある。その場合、30分以上止まる事無く闘い続けなければならないんだ。なので最後まで体力を保たせる為にスタミナのペース配分が非常に重要になってくる。むしろペース配分をしない選手は居ない。全員する。例えそれがアマチュアだろうがプロだろうがチャンピオンだろうが必ずする筈だ。逆に言えば最初から全力を出してしまえば、どんなにスタミナのある選手でも必ずバテる。1ラウンドは保っても5ラウンドは保たない。それ以降のラウンドはグダグダになるだろう。それ程までに過酷な競技なんだ。ボクシングという代物は。
そして今俺が行ったシャドーボクシングとは、要はイメージトレーニングの一環。頭の中で闘いたい相手の動きを思い浮かべて、それに合わせて俺も動く……簡単に言えば想像の敵と闘うと言う非常に実践的な練習法だ。それ故に試合と同様、基本は3分でワンセット。それを各自決められたセット数こなす訳だ。なのでシャドーボクシングも試合の時と同様にペース配分をしなくてはならないだが……俺は今ペース配分も糞も無く、ただただがむしゃらに全力で身体を動かし続けた。体感だが、ゆうに30分以上は経っているだろう。おまけに準備運動も無しだ。
……さて、ここからが問題だ。全力でそれだけの時間動き続けたのにも関わらず、俺には疲労が全く無いんだ。それどころか何時までだって動き回っていられそうな気さえする。俺が人間である以上、スタミナが切れないなんて事はあり得ない筈だ。身体を動かしていた時は考えられなかったが、今こうして冷静に考えてみると少し怖い。一体俺の身体に何が起こったのだろうか?
……どれだけ考えても分からない。だが推測は出来る。今、俺は『ひねり』を0にしているんだが、先程感じた身体の軽さは感じないんだ。その事から判断するに、魔力を放った事と何か関係があるのだろう。しかしこれはあくまでも俺の推測だ。なのでこの事は後でエドゥナに聞く事にした。
「……さてと。次は」
そして俺は思考を切り替えて別の事を考える事にした。それは毒魔力の正確な能力についてだ。
結果、『ひねり』のおかげで魔力を飼い慣らして放つ事に成功した。なので次は俺の毒魔力に感染されると対象はどうなるか……それを調べなければならないだろう。それも正確に。更に言えば早急に。
そう思い、俺は手近な樹木に近付く。そして頭の中で『ひねり』を回して再度段階を1に設定。そして魔力を意識して手から放ってみる。
「……」
そしてそのままの状態を保ち樹皮に触れてみた。魔力は万物に宿っているらしいので、俺が触れる事によって樹木に宿る魔力に俺の魔力が感染する筈だ。さて、どうなるのだろうか?
……そんな軽はずみな気持ちで触れた訳だが、結果は衝撃的だった。
「……本当かよ」
端的に言おう。俺が触れた瞬間、樹皮がグズグズと腐り始めた。そればかりか葉はどんどん枯れて落ちて行き、樹木は腐った先からバラバラと木片となって崩れて行く。やがてそこには何も無くなった。かろうじで樹が生えていた事は分かるが。
「コレはえげつないってレベルじゃないぞ」
……我ながらこれはショックだ。この光景にもそうだが、これを引き起こした己の毒にも。更に言えば『ひねり』の段階は1だ。1でこれなら最大の5にした時は……
目盛を最大にした時の事を考えてブルッと来た。これはもっと細かく設定する必要があるな……
そう思い、俺は頭の中で急ぎ『ひねり』の回せる段階を0〜100まで増設。それと同時に分かり安くする為、%で表せる様にイメージを設定し直した。これはこれでちょっと細かすぎる気がしないでも無いが、用心に越した事は無い。
そして新しくイメージした『新ひねり』の段階を0から1に上げてみる。
「……良し。さっきよりも更に弱くなったな。じゃあ次は毒の種類か……」
『旧ひねり』の1より遥かに弱い魔力を己の中に感じた。成功した事を受けて、俺は次に毒の性質について考える事にした。
俺の毒は任意で色々な症状を引き起こす事が出来るらしい。木を腐らせた毒に関しては特に何も意識していなかった結果だが……朽ち果てて逝ってしまった樹木の事を考えるとこの腐らせる毒は不味い。これは命あるモノを殺す系の代物だ。不用意に使用するべきではない。なのであらかじめ危険の少ない毒に設定しておく必要があるだろう。
「まったく……次から次にやる事が出てくるな」
悪態をついてみたが、別に嫌ではない……そもそも毒に関しては命に関わる事なので嫌でもやらなければならない訳で。選択肢なんて無いんだ。まぁそれなりに面倒ではあるがな。
そう結論付けた俺は1つ息をつき、比較的症状が控えめな毒とは何かを考える事にした。
***
暗く禍々しく……そして黒く毒々しい魔力を不意に感じた。しかもそれだけでは無い。その魔力を受けた事により【深界】に満ちる清涼な魔力が震えた様な気がした。それと同時に世界そのものが震えた様にも感じたのだ。まるで怯えるかの如く……
そしてその強烈で凶悪な魔力を感じた事により、目を閉じて伏せっていた1匹の獣が弾かれた様にその身を起こした。
獣がこの恐ろしく不吉な魔力を感じたのは本日2回目なのだ。
1回目は非常に脆弱であり、意識していなければ気のせいの一言で切って捨てられる程度であった。事実、獣は気のせいと思い、深く考え無かった。
しかし2回目である今は違う。1回目に感じた時と同様に魔力自体はそれ程強い訳では無い。だが質が違うのだ。1回目の時と比べられない程に邪悪であり、凶悪。不吉極まりない。例えるならば何かを侵して犯して冒し尽くす様な……
獣は自らの体毛が総毛立っていくのを自覚し、穢らわしいと嫌悪しつつもその魔力に意識を傾けた。
……だがもう感じない。消えた。しかし禍々しい魔力の余韻が残っている気がする。獣は己の本能に身を任せ、感覚を研ぎ澄ます。そして僅かに残る余韻を頼りに魔力を辿り始めた。
『グルルゥ……』
低く唸りながら周囲を探る様に睥睨するその獣は黒檀の様に美しく、それと同時に光を宿す事の無い漆黒の流れる様な毛並みを持ち、鮮血を連想させる深紅の瞳をらんらんと輝かせる巨狼であった。額にも両の目と同様の深紅に濡れる第三の目が開かれており、それがギョロギョロと蠢いている。
対峙する物を威圧するであろう圧倒的な覇気を纏うその漆黒の巨狼はこの魔力に思いを馳せた……が、答えは出ない。分かる筈も無い。しかしある事が引っ掛かった。先日、誇り高く愛しき血族たるガルヴォルフが人間をこの【深界】で見たと言ってきた事に思い至ったのだ。
人間が【深界】に存在し、更にはこの魔力の持ち主なのか?
しかし同時に巨狼は馬鹿馬鹿しく思い、自らが抱いたその考えを一蹴する。
人間がこの【深界】にいる筈も無く、そればかりか人間如き矮小な存在がこのような魔力を宿している訳が無いからだ。
そう。この考えは馬鹿馬鹿しいのだ。そんな戯けた事を報告してきた挙げ句、あまつさえ人間如きに逃げられた……などと抜かしたガルヴォルフを八つ裂きにし、喰らう程に。
本来巨狼は血族に対して寛容であり、慈悲深い。しかし喰らった。弁解の余地も無く、反抗を許さず、怒りに任せて喰らった。それ程までに世迷い事なのだ。人間の存在は。
……では、この凶悪極まりない魔力は一体何なのだろうか?
『……解せぬ。この何とも禍々しい魔力は何なのだ?……それに――』
この魔力の余韻を辿った結果、あのいけすかない蜘蛛の寝所辺りから漂ってくる事が分かったのだ。
『……人間の事はこの際どうでもいいが……これは我が往かねばなるまい』
巨狼としては人間が居るとは思っていない。それ程馬鹿らしい事は無い。
……しかし、もし仮にだ。脆弱な生き物である人間がこの森に……それも【深界】の最奥に存在するとしたらどうか?そうするとあの人間好きの穢れた蜘蛛が保護をしている可能性は十分に考えられるのだ。巨狼はこの可能性を一応頭の片隅に入れておく事にした。
本来、人間如きの些末な問題ならば巨狼が出張る事は無いのだ。これまで【深界】の奥に足を踏み入れ様とした愚かな耳長や蓄髭共をそうした様に、ガルヴォルフに仕留めさせればそれで済む話しである。
しかし今回は別だ。何か異変が……不吉な事が起きている事は確実。それも巨狼の本能が警告してくる程に。故にこれは蜘蛛に問い詰める必要があるのだ。巨狼自ら……
巨狼としては自らとその血族が住まう森に重大な異変が起きている事実を見過ごす事など出来る筈も無いのだ。狼達に崇められる王……誇り高き霊獣故に。
『……もし人間が居るのならば殺せば良い。むしろ我に血族を疑わせた事を後悔させてくれる……』
驕り高ぶる強者特有の弱者を虐げる理不尽極まりない言い分を並べつつ、巨狼は重い腰を上げた。そして自らの手足たるガルヴォルフ達に呼び掛ける。
『集え!我が同胞達よ!我の元に馳せよ!そして往こうぞ!不吉の元凶たる蜘蛛の元へ!』
そう言った巨狼の叫びは大地を揺るがす程の大音声であった。
――アォォォォォォォォンッッッ!!――
巨狼の呼び掛けに応じるかの如く、四方八方から狼達の雄叫びが上がる。
禍々しい魔力を感じた時、血族達からは怯えた様な弱々しい魔力を感じた。しかし今はどうだろうか?王たる巨狼の呼び掛けに鼓舞された事により怯えは消え、今は力強い遠吠えがいたる所から聞こえる。
――アァオォォォォォォオォォオンンン!!――
巨狼も一度遠吠えを放つ。それはこの場に響く幾つもの遠吠えの中で一番大きく響き渡る。それは正に王者の咆哮であった。
『くくくっ……孤独な蜘蛛のエドゥナよ。ただ生きているだけならば赦したものを……しかしこれは見過ごせんぞ。さて、何を企んでいるのだ?』
巨狼は口元に歪んだ笑みを浮かべる。
『……まぁ良いわ。この機に乗じて八つ裂きにして喰らうのも一興か。くくっ……心が踊るな』
そう言って舌舐めずりをする巨狼はどうしようも無く邪悪であった。
蜘蛛の寝所まで全力で走り抜けておおよそ3日。巨狼は自らの足の速さに自信を持ってはいるが、この【深界】は広大に過ぎるのだ。故にそれ位はかかってしまうのが現状。それを歯痒く思う巨狼だが、同時にあの目障りな蜘蛛を殺れるならば3日など短いと思う事にした。
『魔力を消しても気配を殺しても、近づけばあの鬱陶しい蜘蛛の巣に絡め捕られてエドゥナに気取られる……ふん、まぁこの際だ。忍ぶ必要など無し。くくくっ!……大挙して押し寄せた時のあ奴の顔はさぞ見物であろうなぁ!』
そう言って嗜虐の笑みを盛大に浮かべながら、漆黒の巨狼は自らの寝ぐらを後にした。
この巨狼はまだ知らない。蜘蛛の寝所には己が見下す人間が……否、人間の皮を被った悪夢が存在すると言う事を。
***
禍々しい凶悪な魔力を感じた。一瞬で消えたが、確かに感じた。
『……こ、これは!まさかこれ程までに……サクオに何かあったのか?急がねば!』
それを受けて、エドゥナは友たる人間の食料を収穫する事を一時中断し、急ぎ魔力が放たれたと思われる自らの寝所に向かっていた。
そしてエドゥナは8肢を休み無く走らせながら、この魔力の持ち主たる人間の雄に思いを馳せる。こことは別の世界から来たと言う人間。かけがえの無い友であり、この禍々しく凶悪な魔力の持ち主であるサクオの事を。
サクオは今、魔力を上手く飼い慣らす為に修業している筈だ。それ故にいまだ魔力を放つまでには至っていないのだ。少なくとも昨日まではそうだった。では今放たれた魔力はどういう事だろうか?考えられる事は限られてくる。
まずサクオが魔力を飼い慣らす事に成功して試しに放った、と言う事。これならば良い。しかしもう1つの可能性が考えられる。
それは魔力暴走。
一度魔力が暴走すると、その魔力の持ち主が莫大な精神力の持ち主でない限り魔力を抑える事が出来無くなり……やがて全ての魔力を放出し切ってしまい、最後には死に至る。
これすなわち魔力枯渇。
魔力とは命と同義なのだ。それが完全に出切ってしまえば必然的に死を迎える事になる。しかし魔力の放出を感じたのは一瞬だ。故に可能性は限り無く低い……それでも有り得なくは無いのだ。そしてサクオにはまだ魔力暴走と魔力枯渇について話していなかった。故にエドゥナは急ぐのだ。話しておけば……と言う後悔を引きずりながら。
そして問題はそれだけでは無い。もう1つ見過ごせ無い問題があるのだ。それはサクオの魔力属性。
『毒、か……』
その事を踏まえた上で、もし仮にサクオの魔力が暴走して無作為に放たれたらどうなるか?
……恐らく寝所一帯に存在する命あるモノは根こそぎサクオの魔力に蝕まれて死滅する事だろう。サクオが過去に1度魔力を放とうとした時に感じた死の足音を思い出し、エドゥナは更に足を速める。
(……もし暴走していたら妾が行った所でどうする事も出来ないが……しかし――)
見捨てる事は出来ない。見過ごす事は出来ない。サクオの魔力に蝕まれれば霊獣であるエドゥナとて恐らく死ぬ。しかし見捨てる事は出来ないのだ。見過ごす事は出来ないのだ。長い間、恋い焦がれた人間……否。かけがえの無い友故に……
『あと少しじゃ!サクオよ、無事で居てくれ……』
エドゥナは森を走る。かつて蜘蛛達の女王と呼ばれた偉大で強大な霊獣が走るのだ。たった1人の人間の安寧を祈って……
やがて森が切れる。あそこを抜ければ寝所――
あと少し。
もう少し。
あと一歩……
――そして抜けた。見慣れた広場と友の姿がエドゥナの瞳に飛び込んで来た。堪らず声を荒げる。
『サクオ!!無事かえ!?』
その声を受けて広場に佇んでいた1人の青年がビクリとその身を震わせた。そして青年が振り向く。
「……なんだよ!?驚かせるなよエドゥナ!いきなりどうしたんだ!?」
エドゥナはサクオの様子が普段と変わらない事を確認してこれ以上無い程に安堵した。どうやら魔力暴走では無かったらしい。
『……大丈夫そうだの……』
「ん?何か言ったか?よく聞こえないんだが……」
『いや、何でも無い。驚かせて済まなかったな、サクオ』
「それは別に構わないが……大丈夫か?何かあったのか?」
そんなエドゥナに対し、サクオはその特徴の1つである表情の薄い顔に困惑の色を浮かべた。
しかしエドゥナの8つの瞳にはサクオのそんな表情ですら眩しく映った。
『本当に何でも無いんじゃ!気にするでない!』
「……そう言われると余計気になるんだが」
『うぬぅ……まぁそれはもう良いではないか!それはそうと……どうやら魔力の方は上手く飼い慣らせた様だの?』
まだ気になる様子で食い下がるサクオに対し、エドゥナは話しを変えた。
「……あ、そうだ!魔力調整の方はかなり良い感じだぞ!それと……申し訳無いんだが色々試したいから手伝ってくれないか?それに聞きたい事もあるし」
どうやら上手く誤魔化せた様だ。本来ならば誤魔化す必要はないのだ。しかし――
(せっかく魔力を飼い慣らす事が出来たのに、魔力暴走やら魔力枯渇の事で怖がらせたくないしの……それはまたの機会で良かろ)
エドゥナはこう考えたのだった。
そしてエドゥナは期待に満ちた瞳をこちらに向けて来るサクオに対して了解の意を伝える。少々意地の悪い笑みを浮かべながら……
『うむ!付き合ってやろうぞ!しかし調整を誤るな?妾も死にたくないし、の?』
「……うっ。そう言われると重圧が……」
オロオロし始めたサクオに対し、エドゥナは声を上げて笑った。
「オイ笑うなよ!……ん、あれ?と言うか何で俺が魔力調整成功した事を知ってるんだ?」
『それはの、ぬしの特徴的な魔力が放たれた事を感じたからじゃよ』
「はいはいどうせ俺の魔力は毒魔力だよ!……それにしても魔力感知ねぇ……そっちも訓練しないとなぁ」
『うむ。まぁ精進あるのみじゃ!しっかり励めよ?さもなくば森に放り出すからの?』
「まぁうん。頑張ります。それはそうと……何か今日意地悪じゃないか?」
それはサクオが妾に心配をかけさせたからじゃ!とは思っても言えない。故にエドゥナは細やかな仕返しをしているのだ。
『まぁそう言う日もある、と言う事じゃ!さぁ、さっさと始めようではないか!ぬしの試したい事をな!それに聞きたい事とは何じゃ?何でも聞くが良いぞ!』
エドゥナは笑った。こんな他愛も無い会話がとても得難い物に感じたられたから。
……エドゥナはまだ知らない。自らの寝所に1匹の霊獣が迫っている事を……
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