第一話:魔王登場(上)
今から何十年も昔の話だ。王国歴で言うと240年頃の話だ。
魔王がこの世に現れた。
魔王が率いる怪物達は、凄まじい勢いで王国の兵士たちをなぎ倒していった。
王国は何度も軍隊を派遣したが、魔王を倒せたものは誰もいなかった。
それからというものの――世界はゆるやかに魔王の支配下に収まりつつ合った。
「あ、わし。魔王辞めるわ」
それは悪夢のような出来事であった。
高等悪魔ゼラース――魔王三幹部の一人であった彼は、一ヶ月前に聞いたその言葉を、今も解けない呪いのように頭の中で繰り返すのであった。
「隠居して、山奥に暮らすことにするわ」
まさに悪夢のような現実であった。
呪いや悪夢をつかさどる存在である悪魔に、このような例えを用いるのは奇妙な話であったが、この一件以来、ゼラースの精神は弱り果てていた。
それも当然である。
今から一ヶ月前、ゼラースの上司であり、あらゆる魔物の支配者である――魔王が、引退を宣言したのである。
その日、魔王直属の三幹部たちは、魔王から直々の呼び出しを受けた。
異例の招集であったため、ぜラースは「勇者一行が城へと向かってきたのだろうか?」「ついに王国へ本格的な侵攻を始めるのだろうか?」などと様々な憶測を立てていた。
どちらにせよ自分の力を魔王に見せるチャンスである、とゼラースは意気込んでいた。才能に恵まれた他の幹部と比べ、地道に成果を上げて幹部にまで登りついた彼らしい思考であった。
その血を滾らせ、忠誠を果たそうと魔王の元へとはせ参じたのである。
――しかし。
「そこで、魔王を辞めるにあたり、これからのことを君たちに一任したい」
実際に聞かされたのは、魔王からの引退表明であった。
三幹部は衝撃を受けた。一人は目を見開き、一人は無言で震え、一人は気を失った。
ちなみに最後のがゼラースであった。
彼はその後三日間はベッドでうなされ続け、一週間はまともにベットから出ることができなかった。今も夜に飛び起きてしまい、よく眠れない日々が続いている。人間の精神を弱らせて、それを栄養源として食べることのできる高等悪魔のゼラースであったが、このときばかりは今まで食べてきた人間達に同情した。
さらに悲惨なことに、彼がベッドから目覚めた時には、魔王は既に城から旅立ってしまい、彼は魔王を止めることも別れの言葉を言うこともできなくなってしまったのである。今となっては、どうして魔王を辞めることにしたのか、聞くこともできない。
「はぁ……」
ゼラースはため息を繰り返す。最近では、同じ幹部の魔女から心配されて、良いカウンセリングの医者を紹介してもらったほどである。邪悪さとは別の意味合いを持つ「負」のオーラをまとわせながら、彼は今日も魔王城の中を歩いていた。
――しかし、彼がため息を吐くのには、もう一つ理由があった。
すでに魔王引退から一ヶ月である。それだけの時間が経過したにも関わらず、今も彼がマイナスの雰囲気をまき散らしているのにはそれなりの理由が存在していた。
その理由とは、魔王が既に引退したというのに、ゼラースが魔王の間へと向かっていることと関係していた。
「侵入者だああああああああ!」
轟音――と共にその大声は魔王の間から聞こえてきた。勇ましく、どこか幼い声であった。
ゼラースはその声を耳にすると、本日十回目のため息をついた。
胃のあたりがズキズキするのを感じながら、魔王の間の前に立ち、扉を開ける。
トロールでも悠々と入れるような巨大な扉であったが、ゼラースが触れると簡単に開いた。そういう作りになっているのだ。裏を返せば、よほどの使い手でもない限り、この扉を突破できる者はそうそういない。
魔王の間からは騒がしい声が聞こえてきた。同時に何やら暴れる音がここまで届いている。ゼラースは気を引き締めながら、魔王の間へと足を踏み入れた。
「――失礼します」
一言で言うならば、魔王の間は明るかった。
付け加えるとするならば、明るくて、どこかファンタジーであった。
王国の大広間をイメージさせるような巨大な空間が広がり、天井はこれでもかと高く、空中には大量の魔法光がふわふわと浮かんでいて周囲を影一つなく照らしていた。床はクリーム色の絨毯で覆われ、ところどころに魔法陣の模様が入っている。奥まった壁の中央部には、魔王を示す紋章の刻まれたタペストリーが堂々と掲げられていた。
――ここまではまだよかった。
ゼラースは思う。
王宮で開催される祝宴場のようなまばゆい明るさは気になるが、それはまだ良いだろう。絨毯がリラックス効果の高そうなクリーム色をしているのも許そう。
――しかし、それ以外は凄惨たるものであった。
何が酷いか。
まず、部屋の空気が異様に甘ったるかった。
うまく形容することのできない、気持ちの悪い甘さがそこにはあった。色に喩えるならばピンク色。チョコレートやらキャンディーやらクッキーやらを何度も何度もかき混ぜて、それを上手に腐敗させたような、独特の忌避感ある甘ったるさが、魔王の間全体に充満していた。
クリーム色の絨毯の上には、そこかしこに柔らかそうなぽむぽむしたクッションやぬいぐるみが散乱しており、壁には最近流行と噂のイケメン魔族のポスターがバシバシと貼られていた。本来広々としているはずの魔王の間は、そこかしこに置かれた洋服ダンスのとテーブルとティーセットとぽむぽむしたクッションに支配され、歩けないではないが、非常に窮屈な場所になっていた。
明るくて、どこかファンタジーであった。
とても魔王の部屋には思えないような。
勇者がここに来たとしても、おそらく部屋を間違えたと言って帰っていくだろう。
ゼラースは、魔王の間の変わりぶりを見て、深く嘆息した。ついでに頭痛もした。さらに胃痛もした、もしかしたら胃潰瘍の気があるのかもしれない。
ゼラースはそれでも奥に進みはじめた。洋服ダンスやぬいぐるみが進行を邪魔してうまく歩くことができない。何だかある意味巨大な迷路の中にいるような気分になってくる。ぬいぐるみやクッションを踏みつけないよう細心の注意を払いながら、なんとかゼラースは騒ぎの元へと到達した。
そこは他に比べて少しだけ開けた空間であった。
洋服ダンスに辺りを囲まれており、天井からはひときわ大きな魔法光がその場を照らしていた。
空間の中央には寝心地のよさそうなふかふかのベットが置いてある。
ベットの上では、宙に浮く小さな黒い物体と、それに対峙する少女の姿があった。
少女は、何か大声で黒い物体に叫んでいる。
「はぁ……」
少女の様子を見て、ゼラースはつぶやいた。
「……魔王様」
――そう。
ベットに佇む少女こそ、『現』魔王であった。
また、元魔王の娘と言い換えてもよいかもしれない。
「ゼラース! よくきてくれた!」
少女は大声を張り上げ、ゼラースの方を見る。魔王には似合わない、太陽のような笑顔を浮かべていた。
幼いながらも整った顔立ちをしていて、可憐な美しさを内包している。染み一つない真っ白な顔に、蒼色に輝くサファイヤーブルーの眼。薄いピンク色の口元、いくらか紅潮した頬、絶妙なバランスの元で成立しているその顔に、金色の髪がふさぁっと肩の下までかかっている。黒いレースを幾重にも合わせたようなふわふわの服を身にまとい、頭には妖しく煌めく王冠を被っていた。
魔王の姿を目にした途端、ゼラースはその美しさに一瞬見蕩れてしまった。
思わず我に返り、咳払いをする。これもまた、既に一ヶ月になるが、未だに慣れない。
「よく見ておれ、ゼラース! この憎き侵入者を倒してみせるぞ!」
魔王は快活とした声で宣言し、黒い物体を睨みつけている。一方のその黒い物体は、少女の目線の上でふわふわと漂っており、時折、小刻みに動いていた。
敵意はなく、悪意もなく、しかして善意もなく、ただ浮かんでいるだけの印象を受ける。
黒い物体の名前は、ブラックパサランと呼ばれるものであった。大気中の塵や埃が魔力を核に集中し、凝固したものだと考えられている。知性を感じさせることはないが、空中でそれなりの動きを見せることから、意志と呼ばれるものが一応は存在しているらしい。
正直なところ、無視しておいても害のない存在だろう。
「よし、こい!」
しかし、魔王は戦いを仕掛ける。
どこで学んだのかバトルデーモンのようなファイティングポーズをとりながら、ブラックパサランに飛びかかろうとしていた。
その姿にゼラースは心のなかで嘆息しながら、魔王に声をかける。
「……魔王様、お止めください。危険ですので撤退してください」
「何を! 何を言うかゼラース。この程度の敵、我の相手ではない!」
魔王は憤慨し、パサランから目線を外し、ゼラースへと顔を向ける。
ビシッ、と黒い物体を指さしながら声をあげる。
「相手はたかが低級モンスターではないか! 喩えるならば、そう! 草原で出会うと聞いている“ゲル状のモンターたち”となんら変わらない程度の弱者であるぞ! そのような雑魚を相手にして、この我が撤退できるわけがないだろうがっ!」
「しかし、魔王様。スライムレベルならば、なおさら危険です」
「危険とはなんだ!」
「魔王様にとって、危険だということです」
「それはどういう意味だ、ゼラース!?」
「それを私に言わせるつもりですか?」
ゼラースは声を低くして、少しだけ凄む。魔王はウッと小さく声を上げ、しかしすぐにゼラースを睨む。
「う、うるさい! ゼラース! 魔女と同じようなことを言うな! たたしかに前にプチドラゴンと一戦した際は酷い目に合わされたが、こ、今度は違うぞ。今度の相手は魔族最弱を誇るような低級、最低級のザコであるブラックパサランだぞ。しかも、炎だとか氷だとか属性すら持たない無印のパサランであるぞ。だから問題は一切ないし、大丈夫なのだ。そもそもお前たちは我のことを心配しているようだが、それがそもそもの間違いなのだ。これきしのモンスターくらい我の手にかかれば一瞬で消し炭にすることくらいできるのであるし、だいたい、お前たちがこうも無駄に過保護であるから我はいつまでも――」
「あ、きますよ。魔王様」
「――え?」
宙に浮かび続けていたブラックパサランであったが、魔王の敵意を感じ取ったのだろうか。魔王めがけて襲いかかってきたのである。
【ブラックパサランLv.2】 VS 【魔王Lv.0】
《ブラックパサランの先攻》
《ブラックパサランの体当たり》
《魔王はかなりのダメージを受けた》
魔王はベットから弾き飛ばされた。ゼラースの方を向いて話していたせいであろう。清々しいくらいの不意打ちであった。そのままベットから吹き飛ばされた魔王は、床に置いてあったクッションに頭から不時着することになる。
「だ、だから言ったんですよ、魔王様。お怪我はありませんか?」
「――な、ない! それに大丈夫!」
ベットから追い出され、クッションにぶつかった魔王であったが、頭を振ってむくっと起き上がる。ゼラースが魔王の元に駆け寄ろうとするが、魔王はそれを片手で静止した。
「あの……魔王様?」
そして再び勇ましい顔つきでブラックパサランを見据える。
「今度はこちらからだ!」
魔王は叫ぶ。
【魔王Lv.0】 VS 【ブラックパサランLv.2】
《魔王の後攻》
《魔王の魔硬パンチ》
《しかし、バットには効かなかった》
「ほら、早く撤退しましょう」
「ほ、ほら、じゃない! ま、まだ負けてない、だろうがっ!」
「それよりも、早く定例会の準備をしましょう」
「うるさいっ! まだまだ戦える」
しかし、魔王はもはや泣き顔であった。声もどことなく涙声であった。
《ブラックパサランの先攻》
《ブラックパサランの体当たり》
《魔王はかなりのダメージを受けた》
《魔王の後攻》
《魔王の魔硬キック》
《しかし、バットは平気そうな顔をしている》
《ブラックパサランの先攻》
《ブラックパサランの体当たり》
《魔王はかなりのダメージを受けた》
≪魔王は戦いに敗れた≫
「魔王様っ!」
ゼラースは、バットを片手で潰し、魔王に近づく。
ベットから押し出され、クッションに押しつぶされることになった魔王は、気絶してしまっていた。うめき声か何かで「まだ……まだ……」と呟いている。
「ああっ! 魔王様……」
高等悪魔ゼラースは地獄を仰ぎ、今日一番のため息を吐く。
一ヶ月前。魔王は引退をした。
そして、魔王二代目となった彼女は、とてつもなく果てしなく――弱かった。
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