氷のほほえみ
あらっとシスカが零し、八つの目が声のした方向に集中する。
視線の先にはいつの間に入ってきたのか、扉にもたれるようにして四人に向かって笑いかける男性が立っていた。
膝まではあるだろう手入れが行き届いた綺麗な黒髪は下のほうでゆるく結ばれている。深い碧玉のような瞳は吸い込まれそうな力があり、肌理細かな肌すけるように美しい。決して女性には見えない男性としての美しさをその人は持っていた。
ディグラムは、ゆっくりと室内を見回してからラスアたちに視線を戻した。
彼の笑顔の意味を正確に読み取ったアシィを除く三人の背筋にぞくりとした悪寒が走る。口元は笑っていながらその目には温かみが全く宿っていない。仕事もせずに何をしているのだと冷たく三人を見下ろしていた。
「ディーグ。いつの間にいたの?」
頬をひきつらせて、ラスアが言った。いつもより声が小さいのは、仕方がないことだろう。
「今ですよ。ちょっと出かけていましてね。戻ってきたところなんです」
笑みを崩さないディグラムに、そうなの、とラスアはうなずいた。
「あたし、お茶を淹れてくるわ」
わざとらしく言って、シスカが素早く給湯室に駆け込んだ。逃げ出したシスカの背中を恨みがましく、逃げられない二人の目が追った。
それでシスカが戻ってくるわけもない。怒っている親を前にした子供のようにラスアとロイグランは首をすくめてディグラムを見た。
「一応、店番してたんだよ」
扉の横で黙ったまま立っているディグラムに、ロイグランがふてくされたように言った。嘘は言っていない、と腕組みをしてソファに体重を預けた。
「店番、ね。まあいいでしょう」
そう言うと、ディグラムが扉から離れた。応接セットの方に近づいてくると、ラスアの前の空いているソファに座った。
「それで、ラスアは何をしているんです?もう仕事の時間でしょう?」
遅刻はしない、と言う約束の下始めたバイトだった。やむを得ない事情があったとはいえ、約束を破ったことに変わりはない。
ばつの悪そうな顔をして、ラスアはごめんなさい、と謝った。
「ちょっと迷子拾っちゃったの。それで、ロイたちに相談してたの」
「家は警邏所ではありませんよ。連れて行く場所を間違っています」
「それは分かってるんだけど…」
放っておくことができなかったのだ。
変な男たちに追われて、怪我もしていた。ここだけの話、バイトの時間も気になっていた。
なら、ここに連れて来れば全部なんとかできる、ととっさに考えたのだ。自分勝手な行動だと分かっているから、何も言えない。
「まぁ、いいでしょう。それでこの子を連れてきたのはラスアなんですね?」
ふう、とため息をついて、ディグラムは雰囲気を和らげた。
珍しくディグラムの追求があっさりと終わり、ラスアはきょとんとした。いつもならこれから延々と説教が続くところだ。
「…ラスア?どうしました」
「え、あ、と」
「何ですかその単語の羅列は。言葉を話しなさい、言葉を」
思わず言葉に詰まってしまったラスアに、ディグラムが嫌味を投げつける。それに反射的に反論しようとして何とかラスアは何とか自分を押さえ込んだ。せっかくお説教を免れたのに、ここで食って掛かっては墓穴を掘って結局…ということになることが過去の経験から分かったからだ。
今現在ラスアの保護者であるディグラムの性格は、ここに着て三年目を迎えようとしている彼女もよく理解していた。
すーはーと深呼吸して自分を立て直すと、正面に悠然と足を組んで座っているディグラムに向かって今度はきちんと言葉を話した。
「ええ、そう。ここから二百メートル位先の狭い路地で迷子になっていたの」
そこでラスアは先ほどロイグランとシスカにしたのと同じように説明をする。
その間に、シスカがディグラムのお茶を用意して戻ってきた。
黙って説明を聞いていたディグラムは、ラスアが話し終えるとシスカの用意した暖かい紅茶に口をつけた。
「不幸中の幸い、といったところですね。全く、世の中何がどう転がるのかわかりませんねぇ」
一人で納得しているディグラムに三人はどういうこと、と顔を見合わせる。
「ディーグ?」
代表してシスカが名前を呼べば、ディグラムはくすりと苦笑した。
「つまり、ラスアのお手柄、ということです。さて、すっかり放っておいてしまって申し訳ありませんでした」
説明になっていない言葉に不満げな三人を無視して、ディグラムは先ほどから一言も話していないアシィへと視線を送った。
突然声をかけられたアシィは、思わずびくりと体を震わせ、怯えたようにディグラムを見る。
ディグラムは、怯える少女に柔らかな笑みを浮かべて恭しく頭を垂らした。
「そんなに怯えなくても、大丈夫ですよ。ここには貴女に危害を加えるものは一人としていません。ですから安心してください、アスティリア王女殿下」