帰宅
少女を引っ張るようにあの場を後にしたラスアは駆け足で<踊る猫の髭>へと向かった。
<踊る猫の髭>はラスアの保護者が店主をしている書店で、彼女のバイト先だ。あそこに逃げ込むことができれば、絶対に大丈夫だ、と言う確信が彼女にはあった。
追っ手の姿がないことを確認しながら人通りの少ない道を走る。進むことに夢中になっていたラスアは、少女の様子に気付かなかった。
ラスアに手を引かれていた少女が時々躓いた。あまり走ることになれていないようだった。
「ごめんね。もうちょっとだから頑張って」
転びそうになった少女の体を支えて言うと、少女は小さく頷いた。追われている恐怖からか、顔色は悪い。それでも気丈に顔を上げている。
守りたい、と言う気持ちがラスアの中に膨らんだ。
姿は見ていないが、声だけで男たちが物騒な連中であると簡単に想像できた。か弱い少女とたちの悪そうな男たち。どちらの味方をするか、と問われたら答えなど決まっている。
「行こう」
「はい」
大きく肩を上下させている少女は、しっかりとラスアの手を握った。今自分が頼れるのは、会ったばかりのラスアだけなのだ、と言われている気がした。
少女の手を握り返し、ラスアは再び走り出した。
すれ違った人たちが、必死の形相で駆ける二人の様子に驚いて道を開けた。
ようやくたどり着いたのは庭付きの三階建ての一軒家だった。乱暴に門を開けて庭を突っ切る。
「あの!勝手に入っては!」
「あたしんちだから大丈夫。それより急いで!」
「はい」
慌てる少女に問題ない、と伝えてずかずかと歩いていく。玄関の前を素通りし、家と兵との間にできている細い道に入った。その先に、人の行き来が多い大通りが見える。
ラスアは、自宅の裏へと周った。そこには自宅の勝手口と裏の建物の勝手口が向かい合っていた。自宅の裏に立つ建物がラスアのバイト先である書店<踊る猫の髭>だった。
鞄から、鍵を取り出して扉を開けるとためらう少女を促して中に入る。追っ手の姿がないことを確認して扉を閉め、鍵をかけた。
入った先には細長い白壁の廊下が伸びていた。目の前に鉄製の簡易な階段がある。階段の裏に隠れるようにして、勝手口はあった。右手には、店内に続く扉がある。
「こっちよ」
はあはあ、と大きく息をしている少女を促して、階段の前に回り込んだ。目的地は三階の事務所。そこまで行けばゆっくりと休ませてやることができるはずだ。
あと少しだからね、とラスアは励ましながら少女の手を引いて階段を登った。
たどり着いた先には、一階と同じような廊下があった。使うことのない奥の方には、適当な物が放り込まれた木箱が乱雑に積まれていた。その前に、四階に続く階段がある。
ラスアは、登ってきた階段の右手にある木製の扉を開けた。
「ただいまー」
「お帰り、ラスア。ちょっと遅かったわね」
何か含みを持たせたような声音でラスアを出迎えたのは、ここで家事の一切を受け持っているシスカだった。その指が机の上に置かれている時計を指す。時計はちょうど四時四十分を示していて、ラスアのバイト入りの時間を大幅に回ってしまっていた。
「ちょっと道草くっちゃって。…五時までには入るようにしまーす」
覚悟していたとはいえ、やはり遅刻してしまった。指摘されたラスアは小さく肩をすくめた。
シスカはしょうがないわね、と笑った
「そうしなさい。で、その子は?」
興味深そうに自分を見てくるシスカの視線に少女がびくり、と体を震わせた。
「あ~それよりも、シスカ、先に薬箱かしてくれない?」
シスカの質問に答えるよりもあちこち怪我をしている少女の手当てが先だ。
この事務所の物品関係はシスカが管理している。ほとんどここには近寄らないラスアが探すよりも彼女に頼む方が手っ取り早く、無駄な時間を使わずにすむ。
「何処か怪我でもしたのか?」
「うわ!びっくりした!!脅かさないでよ、ロイ!!」
気配なく扉の横に立っていたロイグランに、本気で驚いた。
「悪いな。ま、お前の修業不足だ。で、どこ怪我したって?」
「ああ、怪我したのは私じゃなくて、この子。転んだみたいであっちこっち擦り剥いてるの」
「ん、どれ、ああホントだ。結構派手にやってるな」
ロイグランがしゃがんで、少女の怪我を見た。
突然視線を座り込んできた大男に、少女が驚いてラスアの後ろに隠れた。
「いじめたりしねえぞ」
「ロイは見た目が怖いんだって」
不本意そうに顔をしかめたロイに、ラスアは笑った。
「ラスア、こっちにその子連れてらっしゃい。手当てしてあげるから」
いつの間にか薬箱を用意していたシスカがテーブルがある方にラスアを呼んだ。
「怪我の手当てしよう?」
「……はい」
ぎゅ、とラスアの制服を握る少女に安心させるように笑いかけた。
少女をソファへ座らせると、ずいぶん派手に転んだわねぇ、とシスカが呆れながら手際よくひざや手のひらなどを手当てした。
傍で手当の様子を見ていたラスアを、ロイグランが呼んだ。
「何?」
「何じゃないだろ?あの子誰だ?おまえの友達って訳でもないだろう?」
「ん~迷子…かな?」
ことり、と首をかしげあいまいに笑って答えれば、案の定しかめっ面をして睨まれた。
「ラスア」
「睨まないでよ。私もよく分からないんだから」
「どういうことだ?」
渋い顔をしたロイグランにラスアは少女に出会った時のことを掻い摘んで説明する。
話しているうちにロイグランのしかめっ面が呆れ顔に変わっていき、最後は脱力したようにソファにもたれかかった。
「おまえなぁ」
「だって、あんな小さい子なんだよ。知らん振りしたら目覚めが悪そうだったんだもの。あそこで無視するなんて人としてどうかと思うわ」
拗ねたように顔をそらしてしまったラスアにロイグラン特大の溜息をついた。一度言い出したら、自分の考えを曲げないラスアの頑固さを彼はよく知っている。まして、彼女がやったことは人助けだ。責めることはできない。
問題は、それを彼女の保護者が是、とするかどうかだった。
「ディーグの雷は覚悟しとけよ」
「大丈夫!ロイを盾にするから!!」
「俺を巻き込むな!!!」
調子のいいことを言うラスアに、ロイグランの雷が落ちた。