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癒しの魔導師

 





 どこからか軽やかな鳥の鳴き声が聞こえる。賑やかな囀りに導かれるように、深く沈んでいた意識がゆっくりと浮上してきた。

明るい日差しが顔に当たり、促されるままラスアはうっすらと目を開けた。

 頭の中に、霞がかかったような感じがする。ぼんやりとする思考をはっきりさせようと二、三度瞬きをするがあまり効果はなかった。

 やけに体がだるく、このまま二度寝に入りたい。しかし、いつまでも寝ていては学校に遅刻をしてしまう。日の高さから、寝過ごしたことは間違いない。

 朝食の支度を手伝えなかったかもしれない、とため息をついてラスアは億劫そうに体を起こした。

 そのときいつもの癖で左手を突いた。瞬間、肩に予期せぬ激痛が走り、たまらず体を折り曲げた。


「……忘れてた」


 痛みで一気に覚醒した脳が昨夜のことを再生し、ラスアは今おかれている状況を思い出した。

 遅刻や朝食の心配をできる自分の神経の図太さに、我ながら呆れてしまった。

 一応ふさがっているとはいえ、怪我は完治までには至っていない。鈍い痛みを発する傷を刺激しないようにラスアは慎重に体を起こした。

 ラスアが寝ていた部屋は半ば物置と化しており、本や書類衣服などが散乱していた。この家の家主たちは忙しさにかまけて、掃除を怠ることが多い。

 ラスアはベッドから下りて、ゆっくりとした動作で乱れた衣服を整えた。枕元に置いてあったポーチと剣を持って部屋を出る。

 日が昇ってから随分時間が経っているようだ。外からはかすかに人のざわめきが聞こえてくる。

 少し薄暗い階段を降り、すぐに右手にあるシンプルなドアをラスアは開けた。

 中は一般家庭にある普通の台所と食堂が一緒になっているダイニングだった。台所から少し離れた場所に四人がけのテーブルと椅子があった。


「おはようございます」

「ああ、おはよう。随分と早いね」


 挨拶をして中に入ると、椅子に座ってコーヒーを飲んでいる三十代後半ほどの女性が呆れたようにラスアを見た。

 肩より少し長い癖の強い髪は後ろで高く一つに束ねている。小型の丸眼鏡の奥にはシスカよりもきつく吊り上った目つきをしている。こげ茶の瞳が、咎めるようにラスアを映している。少し目つきの悪い厳しそうな女性だった。


「思ったより遅くなってしまいました。すみませんティア先生」

「構わん。むしろその傷で平気で歩き回っていることの方がおかしいな」


 おかしいといわれラスアは困ったように苦笑した。怪我人病人相手だろうとお構いなしにずばずばと言葉を投げてくるティアランゼは、そのあけすけのない性格で、逆に人気がある。

 立ちっぱなしだったラスアに、ティアランゼが座るように言った。


「怪我人がいつまでも立っているな」

「あ、はい。ありがとうございます」


 手近な椅子に座ったラスアと入れ替わりに、ティアランゼが立ち上がった。

棚からカップを取り出し、テーブルの上においてあったポットからコーヒーを注いで少女の前に置いた。淹れてからあまり時間が経っていなかったようで、カップからはかすかに湯気が立ち、コーヒー独特の香りが鼻をくすっぐった。


「…どれくらい寝ていました?」

「六時間、といったところか。大して寝ていないな」


 ティアランゼが、カップを差し出した。

「そうですか……」


 ラスアは礼を言ってカップを受け取り、口をつける。コーヒーの温かさにほっと息をついた。


「連れの少年は隣で多分まだ寝ている」

「でしょうね。昨日はかなりハードでしたから、できればもう少し眠らせてあげてください」


 昨日半日近く走り続けたシェラクは、心身ともに疲労困憊しているだろう。いつまでものんびりしていることはできないが、今はまだ休ませてやりたかった。

 ディグラムたちとは連絡は取れていない。無事だとは思うが、心配だった。

 これからのことを考えると憂鬱になる。敵は、アジェンダに網を張っているだろう。恐らくディグラムの家も見張られている。

 ラスア一人なら、適当に逃げ切れる自信はあるが、シェラクが一緒となるとどうなるのかわからなかった。

 俯いたラスアの横に、ティアランゼが立った。


「とりあえず上の服を脱げ」

「はい?」


 突然の彼女の発言についていけない。服を脱げといわれラスアは困惑してラスアはティアランゼを見上げた。


「傷を見るんだ。昨夜は大雑把にしか塞がなかったからな。普通ならここから自然治癒をさせるんだが、そうも言ってはいられないんだろう?」

「ありがとうございます」


 溜息をつきながら傷を治してくれるというティアランゼに嬉しそうに笑ってラスアは傷に触れないように服を脱ぎだした。

 傷のないほうから袖を引き抜き、その後ゆっくりと左の袖も抜き取る。下着姿になったラスアの肩から、巻いてあった包帯をティアランゼが丁寧に取っていく。


「まだくっつききってはいないな」 


 当ててあったガーゼの下から現れた傷口を見てティアランゼは苦いものを含んだような物言いをした。昨夜、彼女が塞いだ傷口は赤く盛り上がっていた。敵の剣が貫通していたため、左肩の前後に傷がある。そこからは、わずかに血がにじみ出していた。

ティアランゼは、用意してあった薬箱から塗り薬を取り出し患部へと塗っていく。遠慮のない塗り方にラスアの目から涙がこぼれた。


「我慢しろ。魔法で治療するにしても消毒だけはしておかないとならん」

「は~~い…」


 弱々しく返事をしながら、斬られるのより治療のほうが痛いかも、と考えてしまうラスアであった。


「さて、やるか」

「お願いします…」


 使い終わった薬を片付けるとティアランゼが傷口に触れるか触れないかの所へ手を当てた。

消毒で体力を使い果たしたラスアは椅子にもたれかかり彼女に全てを任せた。へばったラスアの姿に、ティアランゼが小さく笑った。

それもつかの間のことで、ティアランゼは表情を改め手の平に魔力を手中させた。


『優しき水の恩寵よ。我が前に傷つきし者へ癒しの流れを与えん。キュアウォーター』



 低く、ハスキーな声が、流れるように呪文を詠唱する。ティアランゼの癒しの魔法がラスアの傷を治していく。

五分ほどして傷の痕までなくなるほど綺麗に傷が治ると、水が消えティアランゼが手を離した。


「あ、痛くない…」


 先ほどまであった、付きまとうような痛みが消えていた。

 ラスアは怪我の治り具合を確かめようと肩を回そうとした。それをティアランゼがやんわりと押しとどめる。


「念のために今日一日は固定して動かさないようにしておけ。魔法で無理やり直した傷は脆いからな」

「使わないようにすればいいんですか?」

「そういうことだ。無理に使ってぶり返しても私は知らんからな」


 新しい包帯を取ると血管を圧迫しない程度に肩を固定する。

 生物には本来傷や病気を治す力が備わっている。魔法はその力を増幅させて治す方法が一般的だ。上位の魔法になると精霊の力と術者の魔力だけで直すことができ、そちらは対象者への負担はない。

 どちらにしても治癒魔法は本来の回復速度を速めるようなものなので、きちんと時間をかけて治すものよりも脆いのだ。そして、魔法によって治すことに慣れすぎると、体の自己治癒能力が正常に働かなくなることもあり、使いすぎることはよくないとされている。


「よし、もういいぞ」

「ありがとうございます」


 綺麗に包帯を巻きなおしてくれたティアランゼに頭を下げるとラスアは脱いだ服に手を伸ばした。

 ラスアが着ていた服は昨夜の戦闘で上下とも血まみれになり、上の服には大きな穴も開いていて着ることができない状態だった。今着ているものはティアランゼに借りたもので、幸いそれほどサイズが違うということもなかったので、彼女の行為にありがたく甘えた。


「そういえば先生、病院のほうは?」

「ウォレフが開いている。私は休みだ。この状況で家を空けるわけにはいかん」

「すみません」


 休診日ではないのに彼女が休まなければならなくなったのは昨夜遅くいきなり転がり込んできた自分たちのせいだ。

 ラスアが逃亡先として選んだのが、ティアランゼの家だった。

 彼女はディグラムの古い友人で夫婦で小さな病院を経営している。夫のウォレフは医者、妻のティアランゼは回復魔法を得意とする薬にも詳しい魔術師としての街でも評判の腕を持っている。

 夜更けに突然訪れたのは旧友の預かり子を完璧に分けありという様子であったにもかかわらず、何も聞かずに家に二人を招きいれ傷の手当てまでしてくれた夫婦には感謝をしてもしきれない。

 傷の手当てをしてもらった後、ラスアはベッドへと追いやられ、夢も見ずに熟睡した。


「気にするな。この代金もディグラムにつけておく」

「え、でも」

「どうせ、あいつのもう一つの仕事に巻き込まれたんだろう。これくらいは支払え」


 それは違うんじゃないかと躊躇しているラスアにティランゼは傷の原因を断定すると、少女の後ろへ向かって言葉を投げた。


「わかっていますよ。この件が終わったらまとめて請求してください」


 ここで聞くことのないはずの声が後ろから響きラスアは驚いて後ろを振り向く。

 そこには幻などではなく黒髪の美丈夫が腕を組んで立っていた。




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