夜明け前
昨夜美しく輝いていた双子月の片割れ蒼月は姿を隠し、翠月もじきにその後を追う。それと入れ替わるように姿を見せる太陽も出ていない薄暗い夜明け前。
<踊る猫の髭>の裏の家。その庭に細身の人影があった。
無防備と言っていいほどの自然体で、ラスアが立っていた。ゆったりとした動作で呼吸を整え、リズムを作る。
ふう、と大きく息を吐いた。次の瞬間、空を切るように鋭く拳が突き出された。直後右足が回し蹴りを繰り出す。まるで目の前に敵がいるかのように、ラスアは攻撃を繰り出した。
次々に繰り出される拳や脚は鋭く全く無駄がない。
一通り基礎を行うと長く息を吐いて徐々に乱れた呼吸を整えていく。最後にふーっと大きく息を吐き出した。
ふと背後から視線を感じた。
「だれ?」
振り返れば、そこには一月前から預かっている少女が立っていた。
「おはよう、アシィ。随分と早いのね」
身支度を整えているラスアと違い、アシィはまだ寝巻だった。普段ならまだベッドの中にいるはずの時間だから無理もない。
アシィは覗き見していたことを恥じるようにばつの悪そうな顔をしていた。少し躊躇うようなそぶりを見せてから、結局ラスアの近くに歩いてきた。
「おはようございます、ちょっと、目が覚めてしまったんです。ラスアは?」
「私はいつもこの時間よ」
「…早起きですね」
返ってきた言葉に目を丸くするアシィに、ラスアはくすりと笑う。
ラスアが昨夜ベッドに入ったのは十一時を回っていた。時刻は朝の四時を半周回った頃でまだ起きるには少々早い時間だ。ラスアはこれが、日常となっているので、特に体の不調はない。むしろ、下手に寝過ごしたりする方が体内時計が狂って、体調が崩れる。
アシィが起きるのはいつも七時ごろだから、驚いているのだろう。
「もう生活リズムがそうなっちゃてるから。アシィこそこんな時間に起きたりして、昼間眠たくなっても知らないわよ?」
人前に出るときは、いつもきちんとした服装をしている少女だ。寝巻であることを考えればまだ寝るつもりではあるのだろう。分かっていてからかうラスアにアシィはム、と顔をしかめた。
「大丈夫です。ちゃんと起きていられます!
「じゃあ、あたしが学校から帰ってきて昼寝してたら罰ゲームね」
「なんなんですか、それは!!」
むきになって食ってかかってくるアシィに、ラスアは冗談よ、と笑った。
「もう。ラスアは意地が悪いです」
「愛情表現、愛情表現。これくらい流せるようにならなきゃ、この先苦労するよ?」
「それ、なんか違います」
がっくりとアシィが肩を落とした。ここで暮らし始めた当初は、随分と固い表情をしていた。それがいつの間にかくるくると色々な表情を見せるようになった。
いい傾向だ、とラスアは思う。がちがちに固まっていては、心も体も疲れてしまう。せめてここにいる間くらい、楽に息をしてもらいたかった。
「それで、何の用かしら?」
「え?」
「何か用があってきたんじゃないの?」
目が覚めたからと言ってもわざわざ外に出てくることはない。ならば何か用があると考えた。
首をかしげたラスアに、なぜかアシィが固まった。
「アシィ?」
黙ったまま口を開こうしない少女を不審に思い、名前を呼んだ。
夜明け前であるために周囲はまだ暗い。アシィの顔もはっきりと見えず、表情から彼女の考えを読み取ることは難しかった。もしラスアにアシィの顔が見えていたら耳まで真っ赤にしている彼女の姿が映っていただろう。
「…てました」
全く反応のない少女の様子に痺れを切らして、ラスアがもう一度名前を呼ぼうと口を開いたとき、小さな声が聞こえた。
「ごめん、聞こえなかった。もう一回言って?」
あまりにも小さな声で聞き逃してしまったことをわびれば、アシィはきっとこちらを見上げ先ほどより声量を上げた。
「ですから、ラスアの鍛錬の様子を見ていたんです!!!」
言い切ると少女はぱっと踵を返して建物の中へ入っていった。いつになく荒い足取りだった。
ラスアは呆然とアシィの後姿を見送った。
「鍛錬の様子を見ていたって。物好きなお姫さまねぇ」
思わず呟いたラスアの顔も赤くなっていたことは、誰も知らない。