第8話 仕掛け
最近何やら屋敷の中が、慌ただしい。
もちろんそれは気配として感じるもので、学校から帰り屋敷に一歩足を踏み入れた瞬間、何か、そう、何か空気がざわついた後のような気配が漂っている。
この屋敷は、旧宮家別邸をそのまま移築した都内でも閑静な地区に、広い庭園と平屋の贅沢な作りになっている。
小さい時兄と泣きながら、庭の一角にある水琴窟の音色に何度慰められたことだろう。
この屋敷はいい意味でも悪い意味でも、どっしりとして泰然とした空気をいつも醸し出している。
まして、あの祖母に招かれるものなど、数も限られており、いつも屋敷の雰囲気は、まるでそれ自体動かない、時の流れと共にただ重厚にそこにあった。
ところがここ最近、その空気が、重いそれが何かにかきまわされたような気配を帯びている。
それは、いつもこの屋敷に足を踏み入れる時、一度びしっと自分自身に対峙し活を入れ、挑む気持ちで帰る自分だからこそ、余計その空気の浮つきを感じるのだろう。
何かが起きている。
私は頭の中で兄の顔を思い浮かべ、思わず表情に出して笑うところだったけど、しっかりそれを押さえつけ、知らんふりをして、祖父母に帰着の挨拶をすべく、迎えの安西さんに荷物を渡した。
茶室にいるという祖母に、やはりビンゴ!と笑うのをこらえ挨拶に向かった。
祖母は何か嫌な事があるたび、茶室にこもる。
茶室での祖母は、普段以上に陰湿になるので、飛んで火にいるバカではない私は、安西さんにすぐに茶室に祖父を呼ぶようお願いし、私を助け出すようお願いした。
代々この家に仕える安西さんは、同じように仕えてきた神谷と違って、私達兄妹の頼れる味方だ。
安西さんや他の数人のおかげで私達兄妹はこの家で生きてこられた。
あの祖母は、口々にひたすら私達兄妹をののしる癖に、肝心のその礼儀作法など、教えてはくれなかった。
触れ合うことすら忌避していたから。
それを一つ一つ教えてくれ、陰に日向に助けてくれたのが、執事長の安西さんや数人の人達だった。
それでも、母の為、兄も私も頑張った。
病院にいる母の為に。
何度も逃げ出したかったのに、病室の母を思い。
兄も私も子供だったから、母を母として慕っていた。
それが入院先が変わり、1年もたとうとした時、あの時、ああそうだった。
雨がしとしと降る寒い日だった。
兄と私が冬休みのあの日、そっと二人で父の山の写真を、日々に辛さをまぎらわせるように、大事に大事に頬を寄せ合ってみていた時、あの神谷に見つかった。
数枚しかない写真だった。
兄は私は必死でとられまいと、初めて抵抗らしい抵抗をした。
それは無駄だったけど。
あの祖母は、本当に穢わらしそうに、数枚の写真を見て、
「本当に何をこそこそと。ねえ、サト、血とは恐ろしいものね。こうしてさらけ出してしまうもの。その生まれをね。幾らこの家で過ごそうと・・・。ああ嫌だ、嫌だわ。おぞましい。」
そう言って神谷の名を呼び、2人で何やら言っていたが、私はその写真がビリビリと破られるのに、泣き喚いて、兄は初めて祖母にとびかかった。
控えの人間にすぐに、取り押さえられきつく折檻を受けた次の日、私達はそっと屋敷を抜け出し、母の新しい入院先に向かった。
知恵だけはある兄が、財布を落としたと、交番にかけこみ、母の入院先のメモもなくしたと言った。
私達の服装もいかにもなものだし、あの祖母は外側だけは、金を惜しまなかった。
私立の名門の学校名も効いたらしく、その親切なおまわりさんは、病室までも調べて教えてくれた。
そして必死の思いで会いたかった母は、病院とは名ばかりの優雅な施設で好きな刺繍などをして時間を過ごしていた。
まるでサロンのようなそこで、同じような女たちが優雅にお茶を飲む姿に、はじめ倒れた時の、あの母はいなかった。
私と兄は二人でぎゅっと手をつなぎながら、ただ遠くからパテオでくつろぐ女達の中にいる母を見ていた。
案内してくれた看護師は、近づかぬ私達に怪訝な顔をし、
「ああ、病気だと思っていたのね。大丈夫よ、お母様は、ああしてゆったりとお過ごししているの。ここは疲れた人たちが、ちょっとお休みする場所なの。」
そう言って笑った。
ちょっと疲れた?兄が私の手を更にぎゅっと握った。
そのまま私達は病院とは名ばかりのその施設を出た。
2人何もしゃべらなかった。
ただただ見知らぬ町を二人で歩き、そして、ここで自分たち二人だけが、この世界から、はじきだされた、そう感じた。
2人でその雑踏の片隅で座って、流れる人や物を見た。
「桜、僕ね、前に帰りが遅い母さんを夜お前が寝てるとき、心配で仕事先のコンビニまで見に行った時が何度も会ったんだ。」
「だけど、いつも母さんはいなくて、お兄ちゃんが、お母さんは7時に帰ったろ?っていつも言われるんだ。」
「・・・・・それでね、近くにファミレスあったろ?何度目かにそこにいる母さんを見つけたんだ。」
「母さんは本を読んで食事したり、時にはただ座ってジュースを飲んでたな。」
「僕たちもお腹すいてるのにね。」
兄は足元を見ながらぽつりと話し、
「これからどうしよっか?」
そう言った。
それから、2人とも動けず暗くなってもいる子供に、誰か通報したらしく、私達は警察に保護された。
母の為という目的を失った私達は、みるみる心身ともにやつれていった。
それに泣きながら抱きしめ祖母たちにくってかかっていったのが家庭教師の相良瞳という女性だった。
彼女は震えるこぶしを握り締め、祖母をなじり、私達もなじった。
頭を2人ゴンと殴られ、自分の居場所ぐらい自分で確保しろ!あんた達は子供だけど、どうやら子供じゃいられない環境だ。なあに、そういう子供だというだけだ。ならそういう子供として生きろ!生きて見せろ!悔しくないか、生まれてきたんだ。生きる権利がある事を忘れるな!
そんな感じの言葉を、私達は頭をぽかすか叩かれながら言われ続け、そして抱きしめられた。
生きる権利、ああ、そうだ。
私達はここにある。
その時はそこまではわからなかったが、悔しいだろう、の言葉に、これは悔しいのだと初めて自分たちが納得した。
もう上から見下げなどさせたくない、誰にも、決して。
自分でしっかり手で取れるものはとる、それでいつか・・・・・。
まあ、兄の場合、いきすぎてる気がしないでもないが。
茶室の祖母は、いつもよりきつい雰囲気だった。
私はこの祖母の顔をみれて、兄に今度優しくしてやろうか、とほくそえんだ。
「ただいま帰りました。」
そう頭を下げる私に、一言も返さず、祖母をみると唇の端が持ち上がるのが見えた。
おやおやくるぞ!私が目を下げて殊勝な態度に見えるようにいち早く身構える前に、祖父がやってきた。
ナイスだ、ふふっ、このタイミング。
案の定祖母の怒りの矛先は、まず祖父のものになった。
そして我が安西さんからの、ご友人から今度の発表についてご相談をしたいと、お電話でございます、の言葉に見事、魔の巣窟から逃げ出した。
兄が何を仕掛けたのかは知らないけど、初めてのこの不穏な空気に私はルンルンだったのは言うまでもない。