悪役令嬢を守る侍女に転生した私に、騎士団長が「あなただけを守る」と言い出した件
「エリゼ・ヴァン・ルフレール。今日この場をもって、婚約を破棄する」
セドリック王太子の声が、王立学院の大広間に降り注いだ瞬間、わたしの脳裏である記憶が激しく点滅した。
乙女ゲーム「悠久の誓約」、セドリックルート――断罪エンド。
やばい。やばいやばいやばい。
わたしの名前はソラ・マロウ。ルフレール侯爵令嬢、エリゼ様付きの侍女だ。前世の記憶が戻ったのは、この学院に仕え始めて三ヶ月目の朝だった。窓から差し込む朝日を浴びた瞬間に、前世のすべてがフラッシュバックした。あまりにも唐突な覚醒で、その日は混乱で使えなくなった皿を三枚割った。
遅い覚醒にもほどがある。でも今はそれより、目の前の問題が深刻だ。
わたしがゲームを遊んでいたのは、もう十年以上前のことだ。内容はよく覚えていた。乙女ゲーム「悠久の誓約」。王太子セドリックのルートを選んだ時のエンディングで、悪役令嬢ことエリゼ・ヴァン・ルフレールが断罪される場面は、ゲームの見せ場の一つだった。華やかな大広間での断罪は、当時のわたしには「展開がドラマチックで面白い!」くらいの感想しかなかった。
当事者側にいる今の気持ちは、まったく違う。
広間の中央に立つエリゼ様は、背筋を伸ばして王太子を真っ直ぐ見据えていた。ゲームでは、この後「証拠もないのに何をおっしゃるのですか」と言い放ち、その強気な言葉が却って「悪役令嬢の傲慢さ」として周囲に受け取られ、断罪が確定する。
エリゼ様の唇が動こうとしていた。
まずい。
わたしは一歩踏み出した。エリゼ様が声を出すより、コンマ一秒早く。
「お嬢様は『証拠をご提示いただけますか』とおっしゃっています」
シン、と広間が静まり返った。
次の瞬間、「不敬であるぞ!」という近衛兵の鋭い怒声が飛んだ。あわや槍の穂先がこちらに向きかけた時、わたしは即座に声を張り上げた。
「お待ちください! 王室典範には『被疑者が深い動揺にある場合、近侍の者が疑義を問いただす代理権』が認められています! お嬢様は突然の宣告に言葉を失っておられるのです!」
これもゲームの『裁判パート』で使えるマイナーなルール知識だ。近衛兵が戸惑ったように槍を下ろす。
【一】
百人近い学院生が見守る中、わたしは内心で盛大に叫んでいた。
なんでわたしが言ってるの! でも言うしかなかった!
エリゼ様は横目でわたしをちらりと見た。驚いているようでもあったが、さすが貴族令嬢、表情はすぐに整った。
「……そう。侍女の言う通りよ」
エリゼ様が続けた。今度は自分の言葉で、落ち着いた声で。
「婚約破棄は殿下の権限です。止めはしません。ただ、その根拠となる証拠を、公の場できちんとお示しください。それだけをお願いしています」
完璧だ。ゲームの「悪役令嬢の台詞」ではなく、「無実の貴族令嬢の正当な主張」になっている。
隣で、エリゼ様がほんのわずか、わたしを見た。言葉も合図もない。でも、続けろ、という意味だと受け取った。
周囲がざわめいた。証拠を求める声は正当だ。王太子でも簡単には無視できない。
「証拠……」
セドリック王太子の声に、初めて迷いが混じった。その隙を、シャルロット・ベリアールが埋めようとした。
「エリゼ様……わたくし、怖くて。エリゼ様にわたくしの文通相手の名前を知られてしまって。それで……」
シャルロットの声は震えていた。薄い桃色の瞳に涙を滲ませて、いかにも傷ついた少女のように肩を縮める。
ゲームのヒロインとしての造形は完璧だ。か弱い少女、理不尽に苦しめられた被害者――その役を、彼女は恐ろしく上手く演じる。
でもわたしは三ヶ月間、この学院でシャルロット・ベリアールを見てきた。
エリゼ様の陰口を側近に吹き込む場面を、使用人への冷酷な扱いを、王太子の気を引くために周囲の令嬢を孤立させる工作を。
全部、この目で見ていた。
ゲームに「真のシナリオ」が描かれていなかっただけで、エリゼ様は最初から無実だったんだ。
エリゼ様が「悪役令嬢」に見られていたのは、彼女が傲慢だからではない。シャルロットが、そう見えるように周囲を誘導していたからだ。
王太子が一歩前に出る。
「証拠については、シャルロット嬢の証言がある。何度も彼女に言いがかりをつけ、交友を妨げたという言葉だ」
「殿下」
その時、静かだが通る声が広間の端から響いた。
全員の視線がそちらを向く。わたしも振り返った。
騎士の礼装に身を包んだ長身の青年が、扉の近くで腕を組んで立っていた。腰に剣、胸には騎士団長の紋章。引き締まった顔立ちに、感情を読ませない目。いつからそこにいたのか、誰も気づいていなかった。
ローラン・ディアス騎士団長だ。
ゲームでは「攻略不可能な隠しキャラ」として名前だけ登場していた人物。確か「王太子の幼なじみで、冷静沈着な剣の天才」という設定だった。だが今、この場にいる彼は、設定の二行などという薄っぺらなものではなかった。
「不敬なる言葉を遮る無礼をお許しください。ですが、王太子の印章に関わる偽装事件、および王室筆頭貴族への詐称行為は国家の反逆罪に準ずる重大事。ならば、その管轄は我々騎士団にあります。事実確認を、よろしいでしょうか」
その権限と威厳ある声に、王太子が頷く。ローランの要求を直接遮れる人間は、この王国には少ない。
「シャルロット嬢に伺います。エリゼ嬢から言いがかりをつけられたのは、いつのことでしょうか」
「先月の二十日……学院の庭で」
「その時、随行の侍女はいましたか」
シャルロットが少し間を置いた。
「い、いました。でも怖くて、その子は先に行ってしまって」
「なるほど。では、その日の午後に開かれた茶会に、エリゼ嬢は出席していましたか」
今度は、シャルロットではなくエリゼ様が答えた。
「出席していました。招待状の控えも、その日の席次表も残っています」
ローランはゆっくりと頷いた。
「先月二十日の午後二時から五時まで、ルフレール家主催の茶会が開かれているという記録が、わたしの手元にあります。エリゼ嬢は主催者として終始在席していた。シャルロット嬢が言いがかりをつけられたとする時間帯は、ちょうどその茶会の時間と重なっています」
広間がざわめいた。
シャルロットの顔から、みるみると血の気が引いていく。
【二】
「わたくし、日にちを間違えていたのかもしれません。怖くて、取り乱して……」
シャルロットが細い声で言った。その瞳にはまだ涙が浮かんでいる。
広間の空気は、まだシャルロットに同情的だった。理由のない嘘をつく者に見えないからだ。それが、彼女の最も恐ろしい部分だとわたしは思っている。
「それでは、別の日の出来事を教えてください」
ローランは動じない。
「二週間前の夜会で、エリゼ嬢があなたの扇を取り上げたという件です。その場にいた三名の証言を確認したいのですが、その三名のうち二名は、ルフレール侯爵家との間に利害関係をお持ちのご家族でしょうか」
シャルロットの体が、わずかに固まった。
「そ、それは……偶然で」
「偶然。そうですか」
ローランの声には感情がなかった。それが却って、静かな威圧になっていた。硬い石に一定の力で押し当てられているような、逃げ場のない圧力だった。
「その夜会の日、わたしも同席していました。エリゼ嬢とシャルロット嬢が言葉を交わすのを見ています。エリゼ嬢があなたの扇を取り上げたのではなく、シャルロット嬢が扇を落とし、エリゼ嬢が拾って返そうとした。そういう場面でした」
衝撃が走ったように、広間の温度が変わった。
「な――それは」
セドリック王太子が初めて、動揺を顔に出した。
「ローラン、それは本当か」
「虚偽の証言は騎士団長として致しません。加えて、先の二件に関しても、殿下に報告すべき事実がございます」
ローランはゆっくりと広間の中央に歩みを進めた。シャルロットの前で止まる。
「シャルロット嬢。あなたがエリゼ嬢を断罪する場を設けるよう、セドリック殿下に働きかけたのはいつ頃からですか」
「わ、わたくしは何も――」
「あなたの侍女の一人が、先週わたしの部下に自ら会いに来ました。自分の主人がしていることに良心が咎める、と」
シャルロットの体が、小さく揺れた。
わたしは息を殺した。
知っている。それはわたしが意図的に仕向けていたからだ。ゲームの隠し設定――シャルロットが偽造に使うインクは、特殊な『青光草』の成分が含まれており、特定の薬品にしか反応しない。
ただの筆跡鑑定では見抜けないそれをどう暴くか。わたしは三週間前、騎士団の投書箱に『ルフレール令嬢の偽手紙は青光草のインクである。専用の試薬で鑑定せよ』という匿名の手紙と試薬の製法を投函しておいた。そして、シャルロットの侍女が良心の呵責に耐えきれなくなるよう、意図的に周囲に露見の不安を煽る情報を流してきた。
ローランはその「匿名の通報」を完璧に拾い上げ、今日この場へ持ち込んだのだ。
「『令嬢が作った偽の手紙がある』という話を持ち込んできた方です。加えて、騎士団宛てに極めて有益な匿名通報もありました。その手紙は、エリゼ嬢が書いたように見せかけるため、特殊な青光草のインクで精巧に偽造されたものだと」
ローランが懐から折りたたんだ紙を取り出した。広間の前方まで歩みを進め、それを王太子に差し出す。
「指定された試薬を用いた筆跡鑑定の結果がこれです。裏切りなく青光草の反応が出た上、エリゼ嬢の真筆とは複数の特徴において一致しない。専門家の決定的な証拠です」
セドリック王太子は、その紙を受け取った。読んだ。そして、ゆっくりと目を閉じた。
静寂が、大広間を埋め尽くした。
【三】
シャルロット・ベリアールは、最初の五分間、それでも「誤解です」と言い続けた。
六分目に、涙が変質した。
「だって……だって、エリゼ様はずっと持っていたじゃないですか」
声が、震えとは別の質感に変わっていた。積み上げた演技の皮が剥がれるような、生の感情の声だった。
「王太子殿下の婚約者という地位も、ルフレール家という後ろ盾も、みんなが自然と一目置く品格も……わたくしには生まれた時から何もなかった。男爵家の次女として学院に来ても、誰もわたくしを見てくれなかった。殿下だけが見てくださった。だから……だから!」
シャルロットは泣き崩れなかった。ふらつきながら一歩進み、セドリック王太子の胸元にすがりついた。
「殿下! わたくしは殿下を愛しております! エリゼ様は殿下に笑いかけたこともない冷たい方です! 殿下だって、わたくしといる時の方がずっと幸せだと言ってくださったではありませんか! 手紙の件は、わたくしが浅はかでした……けれど、それほどまでに殿下をお慕いしていたのです!」
その必死の訴えに、セドリック王太子の決意がグラリと揺らいだ。
自分の愛した脆い少女への未練か、庇護欲をくすぐる涙への弱さか。振り払うべき手を振り払えず、彼は虚を突かれたようにシャルロットを抱き留めそうになる。「シャルロット……」と、掠れた同情の声が漏れた。
嘘でしょ! ここで絆されるの!
わたしが冷や汗をかいた、その瞬間。
「ええ、その通りですわ」
凛としたエリゼ様の声が、泥仕合に傾きかけた広間の空気を氷のように断ち切った。シャルロットも、セドリックも、弾かれたようにエリゼ様を見る。
「わたくしは、殿下に愛を乞うようなみっともない真似はいたしません。公の場で泣き喚いてすがりつくような哀れな真似をするくらいなら、ルフレール家の血にかけて舌を噛み切ります」
それは、圧倒的な「格の違い」を見せつける冷ややかな宣告だった。
セドリックの顔から、わずかに残っていた情の迷いが消え失せ、代わりに深い羞恥が広がった。自分がどれほど浅ましい感情の泥沼に呑まれかけていたかを、婚約者の誇り高さによって思い知らされたのだ。
シャルロットからスッと手を離し、セドリックは一歩後ずさった。
唯一の拠り所を失い、シャルロットはついに取り繕う力を失って、その場に力なく崩れ落ちた。
広間が静まり返った。
学院生たちは、誰一人声を出さなかった。断罪の傍観者として集まっていた彼らが今、別の光景を目撃している。
わたしは複雑な気持ちでその様子を見ていた。気の毒だとは思う。分からないでもない孤独だ。でも、エリゼ様が一年間受け続けた理不尽も、同じくらい本物だった。存在しない罪で断罪されようとしていた恐怖も、消えるものではない。
「シャルロット嬢」
セドリック王太子の声は、枯れたようだった。
「私は……」
言葉が続かない。この一年間、信じ込んでいた少女の涙が嘘だったと知った顔だった。積み重ねてきた判断の誤りを、今この瞬間に全て引き受けているような顔だった。
自業自得です、殿下。もう遅い。
わたしは内心でそう呟いた。声に出すつもりはなかった。出す必要もなかった。
エリゼ様は、崩れ落ちたシャルロットを、立っているセドリックを、一度ずつ静かに見た。そして、どちらにも特別な言葉を向けないまま、ゆっくりと口を開いた。
「殿下」
エリゼ様の声は、揺れていなかった。
「婚約破棄の件は――受け入れます」
誰もが息を吸った。
「ただし、それはわたくしから申し出る形にしてください。わたくしは本日をもって、自らの意思でこの婚約を解消いたします。ルフレール家の名誉に傷がつくことは、わたくしが許しませんので」
「エリゼ、しかしそれは――」
「もう、結構です」
それ以上でも以下でもない、きっぱりとした言葉だった。温度も怒りも含まない、それでいて誰も踏み込めない、線引きだった。
王太子は、それ以上何も言えなかった。
広間の空気が、ゆっくりと変化していった。さっきまで「悪役令嬢への断罪」を固唾を吞んで見ていた学院生たちが、ざわざわと囁き交わし始めた。エリゼ様への視線の質が変わっていた。同情や、あるいは敬意のような色がそこに混ざっている。
わたしは自分の足が、少し震えていることに気づいた。
当然だ。侍女が王族の前で口を挟むなど、本来あってはならない。最悪、お咎めを受ける可能性もあった。でも、仮にそうなったとしても。
エリゼ様が守れたなら、それでいい。それで、十分だ。
そう思っていたのだが。
「侍女」
低い声が、わたしの名前の代わりに降ってきた。
ローランだった。広間の外の扉を顎でしゃくる。
「少し、お時間を」
【四】
中庭に出ると、三月の風が白薔薇の香りを運んできた。
噴水のそばで足を止めたローランは、わたしに向き直った。その顔は依然として読みにくい。感情を外に出すことを、よほど訓練されているか、あるいはそういう性質なのか。
「先ほどの介入は、あなたの独断ですか」
「……はい。お嬢様が仰ろうとしていた言葉を、より正確にお伝えしたまでです」
「より正確に」
ローランは小さく笑った。初めて見る表情だった。
「誤魔化しが上手い」
「お褒めいただき光栄です」
「褒めていません」
「存じ上げています」
短いやり取りの後、ローランは噴水の縁に腰を下ろした。珍しい。ひどく気安い所作に見えた。
「なぜ、とは聞きません」
「……え」
「あなたがどういう経緯でエリゼ嬢の侍女になったかは存じませんが、今日の行動は命がけだった。それが理由のない衝動からのものとは思いません」
わたしは少し沈黙した。
「エリゼ様は無実です。それだけです」
「分かっていました。三週間前から動いていた」
「……そうだったんですか」
「ただ、シャルロット嬢の侍女から話を聞いたのが先週で、公の場に持ち出すには、今日の断罪の場を待つしかなかった」
ローランは正面を向いたまま言った。
「あなたが今日、最初に動かなければ、エリゼ嬢は自ら墓穴を掘っていた。その隙を見せなかったのはあなたです」
「……」
「答える義務はありませんが、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたは、この結末をどこかで知っていましたか」
わたしは、一瞬だけ固まった。
騎士団長の目は、鋭かった。感情を映さないのではなく、全てを見透かした上で表に出さないのだと、今更ながら気づいた。この人は最初から、わたしのことを見ていたのかもしれない。
「……想像していた、という程度です」
「そうですか」
ローランはそれ以上は追わなかった。代わりに、ゆっくりと立ち上がった。
「エリゼ嬢については、ルフレール家への報告書を本日中に王宮に提出します。不当な断罪への補償と、シャルロット嬢への処分について、殿下が正式に動くはずです」
「……ありがとうございます」
「礼は不要です」
ローランは歩き出した。噴水を三歩過ぎたところで、止まった。
「ソラ・マロウ」
わたしの名前を、彼は正確に呼んだ。いつ調べたのかは分からない。少なくとも今日、広間で初めて聞いたわけではない、という口調だった。
「あなたが誰を守るために動いたのかは分かりました。では、誰があなたを守るのですか」
その問いに、わたしは答えられなかった。
侍女に転生したわたしには、守ってくれる主人も、後ろ盾になる家もない。そんなことは最初から分かっていた。エリゼ様を守れたなら、それで十分だと本気で思っていた。誰かのために動けることが、すでに十分だった。
黙っているわたしに、ローランはこちらを振り向かないまま言った。
「不公平だと思います」
「……はい?」
「あなたが今日したことは、本来わたしがすべき仕事でした。それをあなたに先んじられた。その分の――」
彼はそこで一度止まった。言葉を選んでいるのか、あるいは珍しく迷っているのか。
「その分の借りを返す機会を、ください」
振り返ったローランの顔には、これまでに見たことのない表情があった。
読みにくい男だと思っていた。広間でも廊下でも、これほど感情を外に出すことはなかった。でも今、その目に宿っているものは、わたしにも分かった。
「……それは、どういう意味でしょうか」
「正確に言います」
ローランは、もう一歩こちらに踏み込んだ。
「エリゼ嬢ではなく、あなたを守りたい。これからも、あなたが誰かのために無茶をしようとするたびに、わたしが先に出ます。あなたが一人で何もかも抱えなくていいよう、そばにいる。そういうことです」
「……え?」
わたしは目を丸くした。
「い、いえ……分かるんですけど、どうして……。今日、初めてきちんとお話ししたばかりですよね?」
「今日惹かれたとでも思いましたか」
わたしは固まった。
ローランは少しだけ目を伏せ、遠くを見るような顔をした。
「あなたがこの学院で侍女として働き始めた三ヶ月前。パニックを起こし、泣きながら中庭の裏で割れた皿を片付けていた日のことから、ずっと見ていました。あの直後から、あなたは不可解なほど周囲の悪意を警戒し、震えながらも、一人でエリゼ嬢の盾になろうと泥臭く立ち回っていた。騎士の目から見れば筒抜けです」
見、見られていた……!
「あの日から、あなたが自己犠牲に走る危うさから目が離せなくなった。今日、投書箱の主があなただと確信した時……そして、無策で死地に飛び込んだあなたを背後から見た時、もう黙っていられないと痛感しました。命がけで主人を守ろうとする不器用なあなたのそばにいたいと思うことは、理由になりますか」
「……なります、けど」
「では、答えを聞かせてください」
春の風が、白薔薇を揺らした。
わたしは、ゲームの攻略サイトを何千回見ただろうかと思い出した。「悠久の誓約」に、このシーンは存在しない。このルートは描かれていない。ローランには名前すら与えられていなかった。
でも今、目の前にある現実は、どのエンディングより鮮明だった。
「……守っていただけるなら」
わたしは、ようやく言った。
「光栄ですと、申し上げます」
ローランは小さく微笑んだ。広間でも、廊下でも、一度も見なかった表情だった。もしかしたら、この人が本当にこんな顔をするのは、珍しいことなのかもしれない。
「ではこれからは」
彼はゆっくりと言った。
「あなただけを、守ります」
【エピローグ】
その後のことを、簡単に記しておく。
シャルロット・ベリアールは学院を去り、実家であるベリアール男爵家は謹慎処分を受けた。
セドリック王太子は、エリゼ様へ正式に書面での謝罪を行った。エリゼ様はそれを受け取り、短く「感謝します」とだけ返した。それ以上の言葉は、彼女らしく、不要なものとして省かれた。重要なのは事実であり、感情ではない。そういう人だ、エリゼ様は。
エリゼ様の婚約解消は「令嬢からの申し出」として正式に記録された。ルフレール家の名誉は守られ、むしろ今回の件で、エリゼ様の毅然とした対応を称える声が貴族社会に広がった。婚約者に捨てられた令嬢ではなく、不当な断罪を正面から受け止め、自ら選択した女性として。
それが正しい評価だとわたしは思う。エリゼ様はずっとそういう人だったのだから。
「ソラ」
三日後の朝、鏡の前でわたしの髪を整えながら、エリゼ様が言った。
「あなた、騎士団長と随分親しくなったそうね」
「……それは誰からお聞きに」
「噂とはそういうものよ。教えてくれる人間が必ずいる」
エリゼ様はわたしの目を鏡越しに見た。その顔には、断罪の場で見せた冷静さとは違う表情があった。意地悪な楽しさ、とでもいうべき目の輝きだ。
「侍女として及第点だったわよ。エリゼ・ヴァン・ルフレールの侍女として」
「……ありがとうございます、お嬢様」
「で、あの騎士団長が、あなたを独占する気でいるというのは本当のこと?」
「……多少、その、そういうやり取りが、あったと言えば、あったかと」
「多少ね」
エリゼ様は目を細めて笑った。心底おかしそうな、珍しい笑い方だった。
「羨ましい限りだわ。あなたが誰かに守ってもらえるなら、それ以上のことはないわね。あなたはずっと自分のことを後回しにするから」
わたしは鏡の中の自分を見た。
転生前は、なんとなく生きていた。これといってやりたいこともなく、面白いことを探しながら時間を消費していた。ゲームの世界に生まれ変わって、ようやく動けるものを見つけた。エリゼ様を守るという目標が、わたしを動かした。
でも今、その目標の先に、予期していなかったものがある。
よかったな、と思う。本当に。
「お嬢様」
「なに」
「今日も、よろしくお願いいたします」
エリゼ様はふっと息をついた。
「こちらこそ。頼んでいるのはこちらの方よ」
中庭の方角から、白薔薇の香りが漂ってきた。
その日の午後、ローランが「仕事の途中に寄った」と言いながら騎士団服のまま顔を出した時、わたしはもうそれほど驚かなかった。エリゼ様が「まあ、邪魔者が来たわね」と言いながら退室したのも、笑いを堪えているのが分かったので、問題なかった。
―― 了 ――
お読みいただきありがとうございます。
侍女ソラとエリゼお嬢様、そして騎士団長ローランの物語を、最後まで楽しんでいただけたなら嬉しいです。
普段は別のテイストの物語を書いています。ご興味があれば、作者ページにお越しください。
もし反響をいただけたら、ソラたちの「その後」を書くかもしれません。
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