祝福のない世界で、彼女は俺を選んだ
草の上に倒れていたのは、場違いなほど美しい娘だった。
夕暮れの森は金に縁取られ、葉の先まで光を含んでいる。その中で、白いドレスだけが異質に浮いていた。土に汚れてなお、布地の艶も刺繍の細やかさも隠しきれない。特別な日のための衣装だと、ひと目で分かった。
――こんなものを用意できる家なら、粗末に扱われてきた娘ではない。
それでも彼女は、ひとりで倒れている。
「……生きているな」
声をかけると、かすかに瞼が震えた。そのわずかな反応に、思っていた以上に胸が緩む。安堵している自分に、少しだけ驚いた。
◇
家へ連れ帰り、火を起こす。目を覚ました娘は混乱していた。知らない天井、知らない壁、知らない俺。それでも泣き叫ぶことはない。取り乱す代わりに、静かに息を整えようとする。その姿勢の端々に、育ちの良さが滲んでいた。
「……名前は」
火が落ち着いたころ、そう尋ねると、娘はわずかに息を止めた。揺れた視線が炎の奥へ沈む。
「……まだ、言えません」
拒絶というより、そこに触れれば崩れてしまうものがある、そんな響きだった。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。名を知らなくても、いまはそれで足りると思った。
◇
数日が過ぎる。
彼女は何も言わずに水を運び、薪を割り、畑に立つ。本来なら土に触れる身ではないはずだ。それでも、不満も誇りも口にせず、ただ淡々と手を動かす。
種を埋める手つきは不慣れで、土をかぶせすぎていた。俺が横から軽く払うと、彼女は黙ってやり直す。
「少し深い。もう少し浅くしてみよう」
小さく頷く横顔が、森の光の中でやわらいで見えた。
夜は火のそばで静かに座り、森の音を聞くように目を閉じる。その姿が、少しずつこの家の空気に溶けていく。
あの衣装を用意できる家なら、娘が消えれば探しているはずだ。夜通し灯を焚き、馬を走らせ、名を呼んでいるかもしれない。
俺は、彼女をそこへ戻せばいい。
そう思っていた。そうするべきだと思っていた。
それで足りるはずだった。
◇
ある夕暮れ、窓の外を見ていた彼女が静かに言った。
「……光が、二つあるのですね」
森の端に、丸い光が並んでいる。昔から変わらぬ景色だ。
「そうだが…」
彼女は首を振る。
「私のところでは……一つでした」
冗談ではないと、すぐに分かった。彼女の探している家は、この世界にはない。
戻す場所がないという事実が、静かに胸へ落ちる。
◇
それでも、口にする。
「ここより、似合う場所があると思う」
正しさを、まだ手放せなかった。
彼女は黙ったまま、やがて俺の袖を掴む。その指は震えていない。
「私は、ここにいたいです」
少し迷うように息を吸い、
「……ここが、いい」
森でも家でもなく、俺を見て言う。
その視線を受け止めた瞬間、自分の中で何かがほどけた。選ばれたという感情が、遅れて体の奥に沁み込んでくる。
嬉しいのか、安堵なのか、それとも失わずに済んだという安堵なのか。はっきりしない。ただ、胸の奥が満ちていく。
俺は彼女を救ったわけではない。ただ倒れていたから拾っただけだ。それでも彼女は、帰る場所のない世界で、俺の隣を選んだ。
「……そうか」
それだけを返す。
◇
森の端がゆっくりと色を失い、丸い光が地平へ溶けていく。
俺は一度も引き止めていない。道を隠してもいない。ここを選んだのは彼女だ。それでも、彼女がここにいることを嬉しいと思っている自分がいる。その感情を、もう否定しない。
彼女がここで笑い、ここで眠り、ここで明日を迎える。その時間が穏やかなものであるなら、それでいい。
祝福も儀式も、この世界にはない。
それでも。
彼女がここにいるのなら、俺は願う。
どうか、この選択が彼女を静かに満たしていきますようにと。
二つの光が沈み、夜が降りる。
彼女はここにいる。
それが幸せであれば、それでいい。




