「好き」の反対は「無関心」か?
「好きの反対は嫌いではなく無関心」とかいう与太があるが、「好き」も「無関心」につながっている。
好きになった相手が何をしても見咎めずに許すという態度は、そもそも相手にしないのと同じである。
憎悪は執着に似ている。
しかし、憎い相手がもしも態度を改め無害になったとしたら、憎悪は好意に変わり、好意は結局、無関心へと行き着くだろう。
憎い相手を叩きのめして(肉体的あるいは社会的に)抹殺してしまう場合も、戦うべき相手が存在しなくなるので、無関心と同じ態度へ行き着く。
「嫌い」という言葉だけでは、憎悪と恐怖との区別がつかない。
アレルギー症状の出る食品をわざわざ食べないのは症状で苦しみたくないからなのと同じように、
嫌いな相手と関わりたくない、逃げたい、避けたい、記憶の片隅にも置きたくないと思う気持ちは、憎悪というより恐怖のあらわれである。
恐怖は、無関心へと行き着く。
憎悪は、無関心へと行き着く。
好意は、無関心へと行き着く。
誰かが誰かに執着するのは、相手のことを好きでいてもいいか嫌いになってしまうか分からない間だけだ。
すべての人間が好意で結ばれた世界には、お互いの好意を確認するためのコミュニケーションなど必要なくなるはず。
すべての人間が憎悪で結ばれた世界には、死体しかいなくなるはず。
すべての人間が恐怖で結ばれた世界には、わざわざ他人と関わろうとする者はいなくなるはず。
だから、コミュニケーションの絶えない現実世界は、他人を信用してもいいかどうか分からない不安によって人と人とが繋がっている、中途半端な状態だといえる。
「好き」の反対は「不信感」なのではないだろうか?
人は不安ゆえ他人に興味を向け、「好き」なり「嫌い」なり「怖い」なり自分の態度を決めて不安が解消すると興味を失う。
興味を持ち、探りを入れて態度を決め、興味を失う。
興味を持ち、探りを入れて態度を決め、興味を失う。
興味を持ち、探りを入れて態度を決め、興味を失う。
興味を持ち、探りを入れて態度を決め、興味を失う。
……こうして世界への興味関心をひとつひとつ潰してゆき、何に対しても興味を持たなくなるまで次々と同様の処理を繰り返すのが人生である。
世界はコミュニケーションをやめるためのコミュニケーションで結ばれており、全員にとって全員がどうでもよくなれば、安心と引き換えに人類は滅ぶのだ。