家族の嫌な話
帰宅すると母が食事の用意を終えて私を待っていた。
ただいまを言う前から十四畳のリビングダイニングには煮物の匂いとテレビの音が満ちている。母によって完璧に整えられた空間には生活感を残しながらもその規則からはみ出して目につくものはない。本当に母は主婦の鑑だと思う。
3人掛けL字型の合革製ソファと向き合うように設置されたローボード、42型テレビ、そして6人掛けの余裕を持った白いダイニングテーブルと、我が家の風景は一般家庭そのものだ。
「あら、今日はちょっと遅かったのね」
母はそんなふうに軽く聞いてくる。
「うん。ちょっと人と会ってて」
「珍しいわね~。友達?」
「う~ん……元カレ? 今日、パート先に偶然現れたんだよね」
「あんた、彼氏なんていたの?」
母は目を丸くして聞いてくる。
「大学の頃のよ。もう十年以上も会ってないし、連絡も取ってない。ホントのホントに偶然。だからなんとなく懐かしくなっちゃって」
本当は浮遊能力の相談をしていたなどとは言うまい。
母とはなんでも気兼ねなく話ができるが、さすがにこの歳になって独身のままともなるとさすがに男の話は控えめになってくる。
ここ数年、三十五歳を過ぎたあたりから男からの需要がどう変化しているのかまで同じ女である以上わかっているのだろう。私としてもさっさと話題をそらしてしまいたかった。
「へぇ。よくそれでお互いにわかったじゃない」
だが今日、母は少し踏み込んできた。
私もいい気がしなかったし、加えて最近は人に対して強気に出れることも少なくなってきていたからか、少しばかり自尊心を満たしたい思いもあってつい自慢げに答えてしまう。
「まぁ、あいつの童貞を貰ってやったのは私だからね」
すると母は少し嫌な顔をした。
「またそんなこと言って。そんなに褒められたようなことじゃないでしょ? お母さんの若い頃はね……」
「あ~はいはい。純情は夫に捧げるものだったって言いたいんでしょ? 昔に聞いた」
「まったく、今の子ときたら……」
「もうこの話はおしまい! 時代が違えば価値観や考え方だって変わるんだから……アップデートしなきゃ」
「それで独身こじらせてるんだから世話ないわよ」
母はそんなふうに嫌味を言ってきた。
「ねぇ。その元カレさんはもう結婚してるの?」
「してないんじゃない? 指輪もしてなかったし」
「彼女さんは?」
「いないって言ってた」
「じゃあ貰ってもらいなさいよ」
「言うと思った」
私は呆れた顔を作った。
「ほら、こんな話いつまでもしてないで、早くご飯食べよ?」
私はそう言って食卓につく。母もまだ言いたいことがありそうだったが、仕方なくといった具合に私の向かいに座る。
「ねぇ……なんで別れちゃったの?」
母はしつこく私に聞いてくる。
「えぇ~? まだこの話続けるの?」
「当たり前でしょ? 孫の顔が見られるラストチャンスかもしれないんだから」
「そんなの、お兄ちゃんの子がいるしいいじゃない」
「あなたの子は?」
「え~?」
私は言葉に詰まった。正直、嫌な話題だ。最近は目をそらし耳を塞ぐように避けてきたことも自分で気づいている。
「女は三十五歳を過ぎると卵子も劣化するとか言うし、四十も過ぎればダウン症のリスクも高くなるって言うじゃない。私は嫌よ? ダウン症の孫なんて」
母は済ました顔で汁物をすする私に言葉を重ねてくる。
「あんた、今から誰かと付き合って結婚、出産するにしても最短で何年かかるか考えてる? もう三十八でしょ? 昔付き合ってたならもうお互いのことは知ってるんだし、ちょうどいいじゃない」
「そりゃそうかもしれないけど……」
私だって将来の不安がないわけじゃない。むしろちゃんとした正社員として働いていないぶん悩みは大きいほうだとさえ思う。本当なら結婚や出産もして安定した暮らしが見えるように生きたかった。
「私たち両親だっていつまでも生きているわけじゃないのよ? あんたいつまで私たちに甘えているつもりなのよ」
「そのうちなんとかなるでしょ……? それに平均寿命も延びてるんだし、そんなのまだ何十年か先の話じゃん」
「ホントにあんたは……まさか自分の子がこんなふうになるだなんて思わなかったわ」
「……そのうち考えるから。わかってるから」
「そのうちって、いつよ?」
今日の母は本当に珍しいことに、やけに口うるさかった。
「もう、うるさいなぁ……! もう動いてるって! マッチングアプリにも登録したし、結婚相談所にも入会したから」
「そう」
それを聞いて母は少し安心した顔を見せたものの、またすぐに嫌な顔になった。
「調子はどうなの? ちゃんとお見合いはできてるの?」
お見合いって……。
私はそんなふうに母の古めかしい言い方を笑いたい思いもあったが面倒なのでやめた。
「そこそこ」
私は適当に答える。本当のことを言えば、その両方ともうまくいっていない。いい男がいないうえに、最近は目に見えて男からかかる声が減った。
そして母は、そんな私の反応からそれを察したように鼻を鳴らして息を抜いた。
「ね? だからその元カレさんにしておきなさい。悪いことは言わないから……」
「でも……」
そんなに一方的に言われても私だって困るし、不安だって残っている。
「なに? そんなに大した理由で別れたんじゃないんでしょ? あんたの反応を見てればわかるのよ?」
「それはそうだけど……ねぇ? お母さん今日ちょっと変じゃない? なんかいつもより態度がキツくない?」
「そうかしら?」
「そうだよ……お母さんこそ何かあったの?」
「わかる?」
その反応を見て私は眉をひそめた。その私でもわかるかのような聞き方は、私が思い当たっても不思議ではない原因があるような気がしたからだ。
しかしなんだろう、まったく思い当たる節がない。だが考えてみるに私と母の共通事項などそう多くもない。
「もしかして、お父さんと喧嘩した……とか?」
私はおそるおそる聞いた。それにしたって私から見ても夫婦仲は悪くないように見える父と母であるが、たまには喧嘩くらいもするだろう。
しかし予想外にも母は、それを聞いたきり少し表情を固め、やがてやや怒気のこもったような声で答えてきた。
「そうね……茜にもそろそろ話しておかないとね」
その声音に私は震えた。
「……この春でお父さんも退職するじゃない?」
母が紡ぐ言葉を聞くたび、私の心の不安は濃くなっていく。
正直、この話の切り出し方をされた時点で母が何を言い出すのか予測はできていたし、それを聞きたくない自分の気持ちにも気づいていた。
だが母は、そんな私の逃げ道を塞ぐようにまっすぐに私を見て告げた。
「退職金が出たら、お母さん、離婚しようと思うの」
それを聞いた瞬間、私の吸い込んでいる周囲の空気が全部真っ黒に変わった気さえした。
何を言っているのか、表現がどうとか意味のわからない問題があるとしても、本当にそう思えたくらい、それは私にとってショックの大きなことだった。
「そ、それじゃあ……私たちは、どうなるの……?」
そんな状況で私が真っ先に気にしたのは母のことよりも自分の今後だった。家では家事を一手に引き受けていた母がいなくなれば、その代わりはいったい誰がするのだろう。父とはあまり話をしないし、互いに干渉しあうようにはなりたくない。
そうだ! 私も母と一緒に……。
「これからは、お父さんと二人、仲良くね」
「え……?」
私は母の言葉に絶望した。一瞬にして逃げ道を塞がれてしまったのだ。
「残りの人生は一人でゆっくりと過ごしたいのよ」
「そんな……無理だよ、お父さんと二人でなんて……」
「嫌なら家を出て一人暮らしを始めてみてもいいんじゃない?」
「そういう問題じゃなくて……私もお父さんも家事なんてできないよ」
「家事くらいなんとかなるわよ……それにその歳でなに情けないこと言ってるのよ。しっかり自立してちょうだい」
「自立って……私、女だし、パートだよ?」
「それは茜の責任でしょ? もう十数年も前からちゃんと職に就きなさいって言ってきたわよね?」
「で、でもそんな急に言われたって……」
「まだ春まで時間はあるでしょ?」
そうは言っても私は今まで正社員として働いた経験がない。特筆すべきスキルも資格もない。それに三十八歳という年齢が転職市場でどういう評価を受けているのかも知っている。数ヶ月で簡単に解決できる問題じゃないのはたしかだ。
「私だって、そんなに簡単にいい仕事が見つかるような歳じゃ……」
「なら、家庭に入るもの悪くないんじゃない? あなたには散々、男の扶養に入ってるなんてバカにされてきたけれど、少しはお母さんの気持ちもわかるでしょ」
私はハッとした。
母が怒りを抱えていたのはなにも父に対してだけではなかったのだと直感したのだ。
いい歳して両親に甘えた生活をしてきたことは理解している。子どもとして両親から無償の愛を受け続けられると勘違いしていたこともたしかだ。
「お母さんが今の茜と同い年の頃は、しっかり子ども二人を育てていたの……自分一人の面倒も見られないだなんて笑わせないで」
知らなかった。母がこんなに不満を抱えていただなんて。
「でも、せめてお料理のレシピくらいはまとめていこうかと思っているから、たまにはお母さんの味も思い出してね」
そして最後は優しく言うのが母なりの決別だったのだろう。言葉とは裏腹に諦めきった笑みにも見える顔。
私は蒼然とするしかなかった。
「ごめん。お母さん、ごめん……謝るからもう一度考え直してよ」
「嫌よ。そう言って十数年変わらなかった結果が今のあなたたちでしょう? お母さんはもうウンザリ」
「ちょっと待って! お父さんにもちゃんと謝ってもらうから!」
「謝ってもらったところで今さらなんにもならないもの……もうけっこうよ」
「そんな……私、生きていけないよ」
「どの道、親は先に死ぬのよ? どうするつもりだったの?」
「だって、その頃には普通、私も年金を貰えてる歳でしょ? 一人で生活するのが辛くなったら施設とかにでも入れば……」
「年金も施設も、子ども一人産んでないあんたが人様の子から助けられようだなんて恥ずかしいと思わないの?」
「でも、そんなこと言ったら死んじゃうじゃん」
「じゃあ逆にあんたが生きてる意味ってなによ」
私は大きく息を飲んだ。
「そ、それが自分の子どもに言うこと?」
「あんたがいつまでも甘えたことばっかり言って目を覚まさないから言うしかないのよ」
「ひ、酷いよ……」
「じゃあ少しは現実を受け入れなさいよ。もうあんたには、あんたがキモイキモイ言ってる同年代のオジサンに腰を振るか、自分でしっかりと働いて稼ぐしかないでしょ!」
そう言い切った母の言葉のあとには静寂が残った。
そしてしばらくして場の空気を元に戻すようにパンと軽快に手を鳴らす母。
「はい。ここで夢を見る時間はおしまい」
私はそれでもなにも言えなかった。
「自分の生き方を決めるのはあなたよ? 働くの? 嫁ぐの? それとも何かほかにいい方法でもあるの?」
私の脳内では色々なことがグルグルと回っていたが、残念なことにそれらはまるで意味がなく、すでに私の中では選択肢は絞られているようなものだった。
「……働くのは無理」
パート先のチー牛店長を見ているだけでもよくわかる。上司から厳しい叱責や罵声を浴びせられ、毎日朝から晩まで働いて、いったいどれだけのサービス残業をしているのだろう。いや、名ばかり管理職などと言われて奴隷のようにコキ使われているのではなかろうか。そんな扱いを受けるのは男ならともかく女である私に耐えられるわけがない。
「ほらね? だからさっき言ったじゃない。その元カレさんにしなさいよって。でも勘違いはやめなさいよ? その元カレさんにだってメリットがなければ相手にもされないのよ? あなた今から子どもが産める? 家事で尽くせる?」
「……頑張れば、なんとかなるかもしれないけど……」
「そうよ? あなたはもう耐えるしかないの。しがみつくしかないの。たとえ元カレさんから何を言われようと、忍んで、押し殺して、養っていただくのが一番現実的な状況になってるのよ……そして、お母さんはそれに耐え切ったのよ」
母の涙を堪えた目に、私はまた何も言えなかった。
ただ一方で、身勝手にも母のような生き方はしたくないと思ってしまったのもたしかだ。
私の考え方は自分勝手なのだろうか。
できることなら自由に、ラクに生きていきたいと思うことは悪いことなのだろうか。
もちろん私だって結婚したくないわけではない。子どもがほしくないわけではない。だがそれによって自由が制限されてしまうのではないかとか、現実的に今から間に合うかどうかとか、とにかく色々な嫌なものが頭の中をかき乱して、どうしようもなく何もかもから逃げ出したくなるのだ。
母の一生を振り返った重大な告白を聞いてなお自分のことしか心配していない最低な自分には気づいている。だけどそれは母が自分で選んで自分で決めた人生だ。私が今それになんらかの感傷を示したとて意味はない。
そんなことよりも私は私の身の振り方を自分で考えていかねばならないのだ。
やはり私は刀理とよりを戻したほうがよいのだろうか。
なんとなく、そんなことが頭の中の大部分を占めていた。








