頼れる元カレ
冬の公園にはもう私たちのほかには誰もおらず、街灯の明かりだけが落ち葉を濡らした土の上にぼんやりと滲んでいた。空気はしんと冷え、遠くの車の音さえ凍りついて聞こえる気がする。
ベンチの裏手に回ると、そこの茂みは思った以上に奥があり、いつか誰かが踏みならしただろう細い獣道のような跡になって湿った草の影に続いていた。
私は街灯の明かりが途切れるその茂みのなかに勇んで割って入る。靴が枯葉や小枝を踏みしめる乾いた音が妙に大きく聞こえるようだった。
「お、おーい。こんなところに入って、いったい何すんの?」
刀理が心配そうについてきて言う。しかし私もこんなものを誰とも知らない人にまで見られたくない思いのほうが勝っていた。
「大丈夫。すぐに済むから。それより、ちょっと手袋貸して」
「は? なんで?」
まだ薄暗さに慣れない目でも刀理が顔をしかめたのがわかるような声だった。
「まだあんまり慣れてないから、落ちて転んじゃうかもしれないし」
「転ぶ? バク転でもすんの?」
「もっと驚くかも」
「は? てことはバク宙?」
「う〜ん、慣れればそれもできるんだろうけど……」
「ちょっ、茜、本当にどうしたんだ……?」
無理もない話だが、理解のある刀理でもさすがに理解の範疇を超えているようだ。
「いいから。ちょっとだけ手袋貸してよ?」
「わ、わかったけどさ……ケガするような危ないことはしないでくれよ?」
そう言って刀理は私に手袋を外して渡してくれた。少し大きめな、彼の体温が残った手袋。私はそれをはめて呼吸を整えるために深呼吸をした。
「じゃあ、びっくりしないように見ててね?」
「わ、わかった」
私は不安そうにする刀理の目の前で、なんとなく練習しておいた浮遊の感覚を思い出していた。
そして、ゆっくりと三十センチほど地面を離れる私の足。
「……ね?」
私は少しの不安を抱えてゆっくりと刀理の表情を見た。
「えっ……!?」
そして刀理は地面から離れた私の足がいつまでも空中に留まっているのを見て固まっていた。
「な……に、それ……?」
彼はようやく言葉を絞り出したようだった。
もう十分だろう。
私はゆっくりと地面に足を戻す。もちろんその速度が重力に引かれるままとは明らかに違うのは彼も気づいているだろう。
「えっ!? これ、なんかのマジック?」
彼はそう言って私の身体のまわりで手を振ったりしていた。おそらくは透明なワイヤーのような物で吊るしていた可能性を考えていたのだろう。
「ちょっと冷静になってよ……ここ、刀理が先に待ってた場所でしょ? 私が仕掛けをセットできるわけないじゃない」
そう言いながら私は彼に手袋を返す。
「いや、まぁ……そうなんだけどさ……」
「ま、いきなりこんなのを見せられて驚くのはわかるんだけど」
私は少し得意になってまた街灯下のベンチに戻る。
「驚くよ、こんなの……マジでどうやったん?」
彼は呆然とした表情で、寒さも忘れているのか手袋もはめずに私の隣に戻ってきて座った。
「どうもこうも……私にもよくわからないんだよね。数日前にいきなり浮けるようになってたの」
「まさか飛べんの!?」
「ううん? 練習もしてみたけど、どうやら1メートルくらい浮くのがやっとってところみたい……ちょっとは移動もできるけど、歩いたほうが速いくらいだし、浮くだけでなんの役にも立たない能力みたいなんだよね」
「いや、それでもヤバいけどね?」
「やっぱヤバいかな?」
「いや、すごいって意味でね?」
いくら頭のよい刀理であってもまだ少し落ち着かない様子であった。
でも、なによりよかったのは彼が私を化け物呼ばわりしなかったこと。
人間にこんなことできるわけがない!
そんなことを言われでもしたら、たちまち私の心は壊れてしまっていただろう。
実のことを言うと、私は今、嬉しさよりも不安で仕方がなかったのだ。
私はそのことを思い出して、また少し視線を落とした。
「やっぱりおかしいよね……? 私、もしかして変な病気なのかな……?」
「いや、まだそうと決まったわけでは……」
「私が頭おかしくなったわけじゃないよね……?」
「それは俺が保証する……たしかに浮いてたよ……ガチで……ありえないけど……」
「幻覚の線もないよね?」
「は、はは……俺も一緒に頭がおかしくなってなければな?」
「……ごめん、巻き込んじゃった?」
「いや、俺は全然いいけど……むしろ、こんな重要なことをよく俺に話してくれたね」
「私……誰にも相談できなくてさ……」
最近では腫れ物を触るような目で私を見る両親にもうんざりしていたし、仲のよかった友人も結婚だ出産だと言ってだんだん疎遠になってしまったし。
「頭のなか、パニックになっててさ……そりゃあ最初は嬉しかったよ? 世界で私だけが飛べるんだって思って部屋の中で練習したんだ……でも、だんだんと怖くなってきてさ……」
それを思い出して、行き場のない気持ちが溢れるように涙になって、私の頬を伝っていた。
「不安だったの……もう、どうすればいいかわからなくてさ……誰にも相談できないしさ……」
堰を切ったように崩壊した私の涙腺であったが、そんなふうに泣き崩れる私を見て、刀理は、黙って私の手を握ってくれていた。
「ごめん……今の俺には、これくらいしかできないけど……」
「うん……聞いてくれただけでいい。受け止めてくれただけでいい……」
少なくとも私一人で抱えていたらいつか耐えきれなくなっていただろう問題を、こうして理解してくれる人がいるだけでどれだけ救われただろう。
そのあと私は刀理に手を握られたまま少しの間泣いた。
やっぱり、勇気を出して彼に打ち明けてみてよかったと思った。
そして少し落ち着いてきた頃、私の手を握る刀理の左手に指輪がはめられていないことに気づいて、少し嬉しくなっている自分に気づいてしまっていた。
私が泣きやんでしばらくしたあと、刀理は私の手を離し、おずおずと切り出してきた。
「あ、あのさ……その、浮くのってさ、俺ごと浮けたりするのかな?」
なるほど、と私は感心した。
そういえばどれくらいの重さまで持ち上げられるのかまだ試してなかったな。
「試してみよっか」
私は刀理に手を差し出し、彼はそれを握る。どうしたらよいのかはわからないが、彼も私の一部として浮かせられないかをイメージしてみる。
「う〜ん……」
「ど、どう……? いけそう?」
刀理は期待と不安の入り交じったような顔で私をのぞき込んできたが、残念ながら、ベンチから五センチほど浮き上がったのは私のお尻だけだった。
「ダメみたい……どうやら浮かせられるのは私の身体だけみたいね」
「残念……あ、でも、しがみついてみたらどうかな?」
「なに? そんなに私を抱きしめたいの?」
私は少し冗談めかして言う。
「い、いやぁ……さすがにこうもなると俺もちょっと浮き体験してみたいっつーか……」
刀理は少し困ったようでありながら、少し照れたようにも言っていた。
「ヤリモクならぬ、ウキモクってやつ?」
私はさらに意地悪な顔をして言う。一瞬だけ刀理も吹き出す。
「あ、茜が嫌なら仕方ないけどさ……」
そんな刀理の残念そうな顔を見られただけで私は満足したような気になっていた。考えてみれば飛べないにしろ空中に浮くだけだって人類の誰もが成し遂げられなかったことだし、刀理が体験してみたいと言うのも当然だろう。
変な下心が見えるわけでもないし、そもそも今さらそんなことを気にするような関係でもない。
「ま、いいよ? ちょっと試してみようか」
「おう! やろうやろう!」
私たちはまた人目につかぬようベンチうしろの茂みの中に入って向き合った。
「じゃあほら、浮いても落ちないようにしっかり抱きしめてみてよ」
「お、おう……」
「なに? 十数年ぶりだからって緊張してんの?」
私は刀理を挑発するように言った。
「んなわけあるか……そっちこそ、今さらキャー襲われるーとか悲鳴あげんなよ?」
「あ、それいいね!」
「あ、待って! ウソウソ! そんなことしないって!」
「冗談よ……それに、それも含めて今さらだもんね、私たち」
「そ、そうだよ……これは、そう! 浮遊能力の検証実験であって、特に変な意味があるわけじゃなくて……」
「あ〜はいはい。刀理ってば、まだそんなに女に慣れてないの? まったく」
私は少し面倒くさくなって、私のほうから刀理に近寄って彼の腰に手を回した。
「言っとくけど、私、そんなに腕力ないから、浮いたら自分でしがみついてよね?」
「お、おう……?」
不安げな刀理を少し上目遣いで見ながら私は浮遊しようとする。しかし、やはり二人分の体重とまではいかないのか、私の身体は微動だにしなかった。
「ごめん……ダメみたい」
「そっか……まぁ仕方ない」
残念そうな顔をした彼はスッと素っ気なく私から離れた。
私も特に気にせず、彼とともにまたベンチに戻る。
結果からすれば私たちはただ抱きしめ合っただけであるが、たぶん刀理も含めて今の私たちはそんなことを意識し合うような間柄じゃない。
「しかしまぁ……人間が宙に浮けるなんていったいどういう訳なんだろうな?」
「そんなの私に聞かれたってわかんないわよ……思い当たることなんかも本当になんにもないんだから」
「……不安、だよな?」
「当たり前でしょ? 子どもじゃないんだから浮かれてばっかりじゃいられないわよ」
「いや、でも話題性もあるし金儲けできるかも……とか考えない?」
「それはもう考えた!」
私は少し怒気のこもった声で答えたが、すぐにまた口調を整える。
「でも、今は本当に怖いのよ……なんで私だけ……しかもこんな、なんにもならない能力で……」
「理由を考えても仕方ないよな……さすがに現代科学でうんぬんってレベルじゃないのは俺にもわかる」
「そんな理由なんかどうだっていい……私は、今感じてるこの不安をどうしたらいいか悩んでるの!」
「わかるよそれは……だけどスマン。これは正直、予想を遥かに超えていた」
「刀理でもどうにもならない?」
「正直に言うと、な。……だけど、考えてみたらやっぱりこれ、公開してみたほうがよくないか……?」
「公開? なんで……?」
「状況がわからなすぎるからだよ……本当にこの現象が茜だけのものなのか、ほかに同じような人がいないのか」
「……どういうこと?」
「ちょっと変な話だけどさ。ある日人類の一部が特殊な力に目覚めたとかさ……いや、漫画の読みすぎって言いたいのはわかる。わかるんだが、実際に信じられないような状況にあるんだぞ? もう何が起きてたって不思議じゃないだろ?」
「それはそうだけど……」
「不安なのもわかる……かと言って、放置しておいて大変なことになる可能性だって否定できないだろ?」
「やっぱり病気ってこと!?」
私が取り乱しそうになると、刀理は私をなだめるように両方の手のひらを見せる。
「いや、俺にはわからないって。大体、違うと言っても気休めにしかならないだろうし」
「じゃあどうすればいいの……?」
「だからさ。世界中に茜と同じような状態にある人がいないか確認するんだよ」
「そんなのとっくにSNSとかで確認した! そんな人がいるわけないでしょ!?」
「茜がその最初の一人になることで次々と現れるかもしれない……たぶん、誰だって怖いはずさ」
「絶対いないわよ。だって私みたいな人ばかりじゃないでしょ? 目立ちたい人とかもいるんだから、いたらもうとっくに現れてるはずだって」
「じゃあ茜はこのまま黙っておくの?」
「それも怖いけど……」
「じゃあ、行動してみないと」
刀理の真剣な眼差しを向けられ、私はとうとう弱々しくも頷いた。
「……わかった。でも、私一人だと難しいよ……?」
「……協力、しようか?」
私が不安げに視線を向けると、彼は遠慮がちにそう言ってくれた。
「お願い」
「じゃあ……動画で撮影して、ユーキューブとかに投稿してみよう」
「私、投稿できるアカウント持ってない……」
「メールアカウントさえ持ってれば簡単にチャンネル開設はできるよ」
「私がやるの……? 炎上とかしたらどうするの……?」
私が困った顔をすると彼は小さく肩で息をしたが、それでもすぐに私を安心させてくれるように笑顔を作った。
「じゃあ……俺のチャンネル使う?」
「刀理、ユーキューブなんかやってるの!?」
私は刀理の意外な提案に驚いた。
「ちょっと前に副業とか色々模索してるうちに手を出したうちの一つだよ。ゲーム実況とかやってた……もちろん全然人気ないけどな」
「あんた、いくつになってもゲーム好きね」
「はいはい……子どもでいいよ、俺は」
刀理は諦めているように自虐的に笑う。
「ウソウソ。そのおかげですっごく助かる!」
「ま、一から始めるよりは早く広まってくれると思うよ」
「ありがと」
私は軽く微笑んで見せた。そして刀理は照れるでもなく、素っ気なく微笑み返した。
「今ここで撮影するの?」
「いや、後日にしよう。さっきは勢いで俺から公開するとは言ったけど、こういうのはもっと慎重になるべきだったな、とも思うしさ。少し時間を置いてみようか」
「刀理、慎重派なんだ?」
「今日は外も暗いしさ。どうせ見えにくい仕掛けがあるんだろってイチャモンつけられる可能性はなるべく排除したい」
「それもそうだね」
「室内でもいいけど、どうせなら昼間、この公園とかで撮影してみたらどうだろうか?」
「昼間は賛成だけど……人目につかない?」
「なに言ってんだよ。人目につけるためにやるんだろ? それに俺たちの投稿だけじゃなく、たまたまそれを目撃した人までもがなんかヤベェことやってる人たちがいるって投稿するから信憑性が高くなるんだ」
「そっか〜……」
私は刀理に言われるがまま頷いていた。
「茜、次いつ休み?」
「明日だけど」
「じゃあ明日、さっそくここで待ち合わせしよう……連絡先、さすがに前と変わってるだろ? 教えてくれよ」
「う、うん……」
私は押し切られるようにスマホを取り出し、刀理と連絡先を交換した。
私にはいまだ不安が残っていたし、少し強引な決め方をしてきた刀理にも完全に信用しきれないところはあったけれど、私は、この機会を前向きに考えることにした。
一晩じっくり考える時間が得られたことも大きい。
そう考えたとき、私は刀理のことを昔とは違って頼りになる男性になったなと、そんなふうに思っていた。