ミルクティー
パートが終わったあと、私は待ち合わせの公園に少し駆け足で向かった。
街灯がぽつぽつと灯り始めた公園には、まだ誰のものともしれない白い吐息がまだふわりと残っているような気がした。ベンチの背もたれに積もった霜が手を触れずとも冷たさを伝えてくる。
こんな冷たいなかで刀理を待たせてしまってよかったのだろうか……。
私はまた少し駆け足を早め、刀理の姿を探した。
やがて見つけた刀理は街灯の下にあるベンチに座って缶コーヒーを飲んでいた。そして缶コーヒーをベンチ横に置くと、今度は手袋をした左手で持ったスマホを凍えたような右手で操作している。
近づく私の姿に気がついた彼はスマホをコートのポケットに入れると冷えていただろう右手にも手袋をはめた。
そして刀理は脇に置いてあったペットボトルのミルクティーを私に差し出した。
「仕事、お疲れ」
「ありがと」
私はそれを受け取って彼の隣に腰を降ろした。
少し冷えた指先にじんわりとミルクティーの温かさが広がっていく。
たしか昔、彼と付き合っていた頃に好んで飲んでいたような記憶がある。とはいえ一過性の好みでしかなく、今はもう必要のない糖分の摂取を控えているわけなので、せっかく刀理が気を利かせたチョイスであっても今はもうカイロの代わりにしかならない。
「相談の前に……ここは寒いよな? 場所移す?」
「ううん? 逆にちょっと人目の多いところは……」
「どういうこと?」
刀理は少し眉をひそめた。
「えっと……」
私は言葉を詰まらせる。彼を待たせておいて今さらではあるが、『宙に浮ける』なんて、こんな相談を気安くしていいものかと、私は再び迷っていた。
なんとなく店長に対する魔除けのようにその場の思いつきで言ってしまったものの、刀理は信用できるのだろうか? 昔付き合っていたとはいえ今はもう他人だ。
私が世界でただ一人、空中に浮かべる人間だと知ったら彼は落ち着いていられるだろうか? 私を利用しようとしないだろうか? 売ろうとしないだろうか?
「別に焦らんでもいいよ……話しにくい相談ならなおさらだよな」
私が迷っていると、彼はそんなふうにノンビリと言ってベンチに背を預けた。
「無理に話さなくてもいいんだしさ」
「うん……ありがと」
私は少し気がラクになるのを感じていた。昔を思い出して落ち着いたような気にもなった。
そういえば刀理とはどうして別れたんだっけ……?
些細な擦れ違いの積み重ねでムカついたりとか、くだらない理由だったような気はするが、今はもう思い出すこともできないような感情だ。
激しいケンカや浮気の類ではなかったことだけはたしかだが、なんとなく今こうして向き合ってみると彼に対して少しだけ申し訳ない気持ちが混じっていることには気づいていた。
今にして思えば刀理はとても誠実で理解のある人だったと思う。そしてそれゆえに、私は彼のそんなところが少しつまらないと感じていたとも。
「刀理、ちょっと気が利くようになった?」
私はミルクティーのことや先ほどの優しい声掛けを思い出して言った。少なくとも昔の刀理はそんなに気の利くタイプではなかった気がする。
「そうか? ……ま、さすがに少しは大人になりもするだろ? 十年以上は経つもんな」
「それもそっか」
大学の四年間、多感な時期に付き合っていた刀理だからか、ほか数人はいるはずの元カレのなかでも、刀理とは特に長く一緒にいたような気がする。それでももうそんなに時間が経過しているだなんて本当に月日が経つのは早いものだ。
別れたとはいえ、少なくとも会っていがみ合うほどの嫌な気持ちは持ち合わせていない。それどころか変な懐かしさすらある。
私は話の切り出し方に迷った。今度は言葉に詰まったわけではない。積もる話がたくさんあって、何から話せばよいのか迷うような、旧知の友に急に出会ったときのような感覚だったのだ。
だから私は、とりあえず世間話から刀理の様子を探ることにした。
「元気だった?」
「ん~、そこそこ? そっちは?」
「そこそこ」
私が同じように返すと刀理は軽く笑った。そんな軽いやりとりが付き合っていた当時の会話を思い出させるようで、私は居心地の良さを感じていた。
「彼女できた?」
「できたよ」
彼は即答した。
「うまくいってるの?」
「今はいない」
彼は急に真顔になって言ったのだが、私にはそれが強がりにしか見えなかった。
私はニヤリと笑って刀理の顔を覗き込む。
「別に強がらなくたっていいのに……『今は』、いないとかさ~」
そう刀理をからかっておきながら私はしまったと思った。この流れでは私にも同じ質問が返ってくると思ったからだ。
「そっちは?」
「今はいない」
強がるか偽るか迷いもしたが、変に気を遣うのも悔しい気がして、私は特に気にしているふうにも見えないように淡々と答えた。
「ふぅん」
彼は興味なさそうに言った。しかし私には興味なく装っているように見えた。
「もしかして、そういう話?」
「あぁいや、違う違う」
私はまず軽く否定しておく。変に気があるように誤解されるのも癪だ。
「実は今、どうしたらいいかわからないことがあってさ。刀理、頭よかったの思い出したものだから、ちょっと相談に乗ってほしいと思って」
「……まさか借金とかじゃないよな?」
「違う違う」
その誤解も悔しいので即座に否定。
「じゃあなんだろうな……? 病気とか……?」
「それも違うけど……なに? 心配してくれるの?」
「ん? う~ん、まぁ……昔とはいえ付き合ってたわけだし、一応は、だけどな」
私はそのひとことがたまらなく嬉しかった。単に言葉だけの問題ではない。当時の刀理だったら絶対にそんな言葉は出てこなかったからだ。照れくささなのか意地なのかわからないが、認めたら負けとでも思っているのではなかろうかと思うほど彼は素直に気持ちを出さないところがあった。そんなことを今思い出したのだ。
つまり、そのひとことはこの十数年の間で彼が男性として成長していることを示していると思えたのだ。
「ありがと。心配してくれて」
私も少し素直になれた気がして、彼に笑顔を向けて答えられた。
「だけど、ま、病気じゃなくてよかった」
「よかったって! 私、困ってるから相談してるんだけど!?」
「あ、そっかスマン。病気じゃなくてよかったと思って、つい」
しかし私はそこで自分の浮遊能力についてふと病気なのかもとも思い至る。
「あれ? でももしかしたら病気の可能性もあるのかな……?」
「どっち!?」
彼の反応を見て私は少しおかしくなった。
「ねぇ? どうせなら当ててみない? 私の悩みごと。絶対に当たらないけど」
「え? なにそれ、そういうカンジ?」
そう言いながらも刀理は興に乗った様子で顎に手を当てて私の全身を見渡し始めた。
「何かヒントは?」
「ありませーん」
「マジかぁ……いや、でも、病気に関係しそうってことは身体のことだろ……?」
「エロい目つきやめろ?」
「今さら興味ねー……」
そう淡々と言いながら彼は私の身体をジロジロと見ていた。
「ダメだ、わっかんねー……ちょっと老け始めたとかじゃないんだろ?」
「えっ!? うそっ!? そんな老けた?」
私は少し飛びのいてしまった。
「いや、そういうわけじゃないけど……って、いてぇ。なぜ殴る」
私は無意識に刀理の肩に拳を当てていた。
「やっぱデリカシーのない男」
「ははっ。昔のように優しいだけでつまんねー男じゃないもんでね」
「あー、昔言われたのまだ根に持ってんだ。ムカつくー」
私の反応を見ながら楽しそうに彼はまた私の身体を見回し始めた。
「これ、当たったら何かあんの?」
「このミルクティーが贈呈されます」
「それ買ったの俺なー?」
私はそんなやりとりが面白くなってしまって、とうとう吹き出すように笑ってしまっていた。
彼はいきなり笑い出した私に少し困惑していたようだったけれど、そんな様子も含めて、私はもう一度彼に心を許してもいいかもしれないと感じ始めていた。
「ごめんごめん。……でも、安心した。刀理なら信用できるかな」
「なに? なんか俺、試されてた感じ?」
「ううん? そういうわけじゃないんだけど……たぶん、これから私がすることを見たら、私がこんなに慎重になるもの理解できると思うよ?」
私は、刀理に浮遊能力のことを打ち明けることを決めた。